newtitle



画像04が表示されない

竹田 歴史講座
米沢日報元旦号PR

▲トップページへ戻る

書評『柿の木〜過ぎし日の覚書き〜』種村信次著


1 NEC米沢監査役、米沢信用金庫理事長、米沢上杉文化振興財団理事長、上杉神社信仰会会長、米沢・上杉吉良温故交流会会長など、米沢の企業、金融界、歴史文化団体などの重要な役職を歴任し、現在も米沢温故会会長を務める種村信次氏が、平成30年6月、10年間勤めた米沢信用金庫理事長を退任する際にそれまでに様々な場面での思いを認めた文章から抜粋し、「柿の木」と名付けて取りまとめたものを刊行した。
 令和6年11月、評者は種村氏から覚書きを以前に発行したと聞いて、自宅に訪ねて頂戴した。
 「柿の木」という題は、昭和20年8月に現在自宅がある米沢市城南に移り住んだ際に、家の前庭に大きな柿の木があり、その木の下を潜りながら学校に通学し、会社に通勤したという身近な柿の木に感謝を込め、人生の節目を迎え、子供や孫たちが仕事の上で何がしか役に立つかもしれないという思いでまとめたという。
 内容は、「折々の寄稿文」、「信用金庫月刊誌 論壇草稿」、「監査役ホームページ」、「年賀状と暑中見舞い状」、「挨拶文集」、「敬愛する方々との別れ」の6項目に分類した。「プロローグ」の中で、「地元に生まれ育ち、幸せにも五十六年間この地の有力企業に働かせていただいた者として、残された人生の中で、ほんの少しでもお役に立つことができればこれに優る幸せはないと思っている。」と述べているが、種村氏がこれまでに取り組んできたことや残された事績を考えれば、このように活字にされたことは米沢の今後に大きな財産を残してくれたと言って過言ではない。
 「折々の寄稿文」では、「米沢・上杉と西尾・吉良の新たな交流」という文がある。米沢藩第4代藩主は、吉良藩藩主吉良上野介の子「綱憲」で、米沢藩の藩主として養子に迎えられて、米沢藩の取り潰しを免れたことは承知の通りである。現代において、その吉良との友好関係を切り開く際に、種村氏は米沢側の会長として民間交流をスタートし、とても盛んにして、その後の自治体同士の交流の地ならしをした。その経緯などを記したものなどは貴重なものだ。
 「信用金庫月刊誌 論壇草稿」では、「信用金庫の原点は自助」、「信用金庫の地域密着とは何か」、「この街と生きていく。」の意味、「信用金庫のビジネス・モデル」など、まさに信用金庫が信用金庫たる原点ともいうべき点について論じている。そこで大事なのは、種村氏が民間企業で長年にわたり勤めてきたという民間的な発想が生きたということだろう。
 「敬愛する方々との別れ」では、小嶋彌左衛門氏、舟山修氏、村山正一氏、青木厚一氏、髙森務氏の各故人への式辞、弔辞を掲載している。
 このような文章を残してくれていることは、時代によって多くが変わっていく中で、決して変わらないもの、変えてはならないものを私たちに教示してくれているようで大変にありがたい。この冊子は、私の座右の書にしたいと思っている。(評者 米沢日報デジタル/成澤礼夫)
 
著 者 種村信次
発 行 種村信次
発行日 平成30年8月