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明治初期に外国人が米沢に関して書き残しているものといえば、米沢牛の恩人として知られる英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスが明治8年3月、米沢での任期を終えてから、明治8年5月、日本アジア協会の機関紙に寄稿した「旅案内付 置賜県収録」、同年6月に同誌に寄稿した「米沢方言」、明治5年6月、米沢に立ち寄ってダラスのことに触れているフランス人神父J・M・マランの「東北紀行ー函館より江戸へ」が知られている。
令和5年11月4日、米沢市で会津藩士堀粂之助墓前祭が行われた際に、会津若松市にある歴史春秋社の阿部隆一社長が講演を行った。会場では、同社出版物が販売されていたのが本書である。その場で早速買い求めた。
明治3年といえば、戊辰戦争から2年余りが経過した時期で、まだまだその生々しい傷跡が方々に残されている時代だった。特に東北越後は、奥羽越列藩同盟で固まり、新政府軍との激しい戦いが繰り広げられた場所である。明治3年に、何故に5名の外国人が16日間かけて、新潟から会津を経て、米沢に至ったのか、誠に興味ある話である。
この旅に参加したのは、当時、新潟にいた領事や新潟・横浜に居留していた商人たちである。その中の2人が残した記録からは、荒廃した町の様子や農産物、鉱山の生産状況が詳しく記されている。
彼らの旅は、米沢からは長井に行き、小国、胎内を経て新潟に戻っている。明治3年6月16日に出発して、会津に23日に到着、猪苗代から大塩を経て、米沢には6月27日に到着した。そして28日に小出、29日に市野々(小国町)、7月1日に新潟に戻っている。小国までは越後街道を通って、黒沢峠を経ている。
記録した二人とは、イギリスの外交官ジェームス・トゥループで新潟で二代目のイギリス領事となり、のちに横浜の総領事となった。この調査報告は東京のハリー・パークスやイギリス議会にも提出されている。報告書の冒頭、この旅行の目的が、これらの地域の資源について調査したと書いている。米沢の知藩事(当時は上杉茂憲)から親切で丁寧なもてなしを受けた。米沢盆地には、桑の木はもちろんの事、稲、小麦、大麦、漆、人参、麻などが豊富に栽培されていると書いている。新潟に戻ってからも米沢からの役人が自分を訪ねてきて、外国貿易を念頭に置いて、自国領内の資源開発を熱望している事は明らかであると述べている。米沢は町自体は大きいが、家並みはさほど立派ではなく、人々の暮らし向きも村々とさほど変わりがないようであると述べているのが印象的である。貧しい田舎の状況そのものである。
もう一人、アルトゥール・リヒャルト・ウェーバーは、ドイツ人で長崎や横浜で貿易業に従事し、1869年に独立して新潟に来た。ウェーバーの寄稿文は、彼の故郷であるドイツ北部の町アルトナの新聞に10回にわたって掲載された。トゥループの記録は、官僚的、事務的な感じを受けるのに比べると、ウェーバーの物は、まさに旅行紀であり、実際に交わされた会話なども記されているので、エッセイ風で読みやすい。記録内容もページ数(日本語翻訳版)で4倍近いものとなっている。
著者の青柳正俊氏は、この5人の旅をめぐって考察を本書の半分を割いているが、蚕糸業の視察には、蚕が繭を作り、卵を返すこの時期が好都合だったと視察した時期がその目的にかなった時期だったとした。またウェーバーは、蚕糸よりも茶に関心を示していたとする。茶栽培の視察は、盛夏が過ぎる前が必要だった。視察の主な目的地は会津と米沢だった。
この視察は、まだ外国貿易がほとんど行われていなかった新潟に、領事の新潟駐在のような形が明治12年まで続くが、その結果、新潟港の良き理解者となったと結論づけている。イザベラ・バードがダラスの「旅案内付 置賜県収録」を見たことが日本奥地紀行に影響したと考えられていたが、ひょっとすると、この明治三年欧州視察団周遊記も影響したのかもしれないと思えてきた。(書評 成澤礼夫)
著 者 青柳正俊
発行所 歴史春秋出版株式会社
発行日 2020年12月12日
定 価 1600円+税
(2023年11月26日15:45配信、11月28日18:45最新版)