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竹田 歴史講座

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書評 武将『本庄繁長』の真っ直ぐな生涯 希求


1 越後国村上を居城として、猛勇果敢さと巧みな戦さで戦国時代から江戸時代初期を生き抜いた武将本庄繁長の生涯をまとめた冊子。発行は本庄繁長公の会(飯沼与三太会長)で、執筆は同会事務局長の堀田亨氏、編集は前・村上市郷土史料館館長、同会副会長の松山勝彦氏が担当した。初版は平成26年7月に発行され、平成29年7月に重版がなされている。
 飯沼会長は、平成24年9月15日、繁長の墓がある福島市の長楽寺(舟場町3-10)を訪れた。そこで翌平成25年に繁長400回忌が開催されることを知り、それがきっかけとなり、「繁長に魂に取り憑かれて」本書発行に至ったと述べている。繁長400回忌を前に地元新聞に投稿したところ予想以上の反響があり、「私も繁長が好きだ」、「もっと知りたい」などの声が寄せられ、繁長ファンが多いことを思い知らされたと書いている。繁長の命日は12月20日だが、長楽寺では毎年9月15日に供養を行っており、供養の日には繁長像(木像)がご開帳されるという。
 本書では、青竜編(少年期)、朱雀(すざく)編(青年期)、白虎(びゃっこ)編(壮年期)、玄武編(老年期)という、4つの時代に分けてその75年の生涯を解き明かしていく。85戦の戦いに負け知らずとされるから、戦さの天才とも言える人物である。
 繁長は天文20年(1551)から40年間にわたり、村上城主として配されており、年齢的には13歳から53歳までの期間となる。1500年から明治4年の廃藩置県までの期間で、村上城主であった期間は繁長が歴代2番目と長い。ただし、多くの地で転戦していたために、村上にどの程度在住していたかは不明だとしている。
 繁長は、戦国時代、揚北衆(鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部割拠した国人豪族)をまとめ上げ、のちの城下町村上となる町の原形を築いた。また上杉謙信、上杉景勝の二代に仕えた。謙信は10歳年上、景勝は16歳年下という関係になる。75年の生涯は、戦国時代に生きた武将たちの中で、最も長い部類で、それだけに数々の戦さという修羅場をくぐり抜け、政治の舞台でも繁長ならでは活躍を行っているが、著者は繁長の魅力はここにあるとする。
 本庄氏のルーツは、越後国の北端を所領した豪族で色部氏は同族。旧村上市、旧朝日村が本庄氏の所領だった。祖先は桓武平氏、畠山氏の流れをくむ武家の名門・秩父氏で、埼玉・秩父を拠点として源頼朝を支えて鎌倉幕府創設に貢献した。その鎌倉幕府より、秩父行長、為長兄弟が村上岩船地域に広がる荘園「小泉荘」の地頭に任じられ、行長の系統が本庄氏、為長の系統が色部氏を名乗った。本書では、本庄氏がどのような歴史をたどったかを地図や年表で詳しく述べている。
2 評者の出身地、鶴岡市にも繁長の足跡が残されているので紹介すると、高校時代はバス通学をしていたが、鶴岡市大山友江あたりに十五里ケ原古戦場という大きな看板が立っているのを毎日のように目にしていた。高校生時代、この戦跡が誰と誰が戦ったのかについてとりわけ興味があったわけではなかったから、ただ毎日通り過ぎていたが、平成21年の大河ドラマ『天地人』が放映された時に、山形、福島の歴史スポットをたどり巡っている中で、これが繁長が天正6年(1588)、上杉景勝・直江兼続の命を受けて、最上義光軍と戦った場所であることを初めて知って驚いたことがあった。ガソリンスタンドの裏地には数基の墓碑らしいものが寂しく立っていた。この戦さは、東国の合戦史に残る「十五里原の戦い」と言われるもので、繁長が最上軍に対して圧倒的な勝利を収めた戦いである。
3 さて上杉家が豊臣秀吉により、越後春日山から奥州の会津に移されて120万石となった際、繁長は尾崎氏に代わり、福島城代になった。福島は奥州街道の要だったから、直江兼続にしても母親の実家である尾崎氏を繁長に変えても抑える必要があったものだろう。
 繁長が上杉の歴史の中でもとりわけ重要な働きをした一点がある。それは関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉氏に対して、徳川家康がどのような処遇を下すかということだった。京都にいた上杉家家老の千坂景親からは、和平許容の情報が届いていたことから、繁長は和議を申し込むべきであると景勝や兼続に強く主張したとされる。
 そして景勝が和議の第一使者に命じたのが繁長で、繁長は京都に上洛し、家康の息子である結城秀康、家臣の本多正信と面談し、家康への執り成しを依頼した。そしてそれが慶長6年(1601)6月、景勝に和睦のために上洛するように家康からの指示が届き、同年8月17日、家康に景勝が会い、会津120万石から米沢30万石に減封する処置が出されて処分は終わった。著者は領地が4分の1になったが、取り潰しを免れ、しかも旧領地内に留まったことは、使者である繁長の功績が大きいと述べている。それは繁長が治めた福島城付近の伊達・信夫郡が上杉氏の領地に残されたことからも窺い知ることができると述べていることには、とても説得力がある。そして交渉を有利にさせたのは、十五里原や松川の戦いでの繁長の武勇であったと推定している。
 慶長19年(1614)10月の大阪冬の陣では、繁長亡きのちに繁長の次男である充長が出陣し、約900名からなる上杉軍の筆頭が本庄氏になっていることにも注目する。
 繁長には男子10人、女子11人の計21人の子供がいたが、伊達氏などに見られる家庭騒動はなく、繁長は穏やかで真面目な性格で、家族や家臣を大切にしていたため慕われていたと述べている。
 本庄氏は、上杉綱勝が寛文4年(1664)に急逝し、領地が半減の15万石になると、福島から鮎貝城代(白鷹町)に移り、明治維新を迎えた。その後、屯田兵を志願して北海道に渡った。その子孫は、現在、北海道厚岸郡厚岸町にお住まいである。
 このように見ると、関ヶ原の戦いを経ての上杉氏の命運を左右した人物の一人が繁長だったと言える。本書を通して、上杉家における繁長の存在や重要性が一層認識されたのではないかと思う。(評者 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

編 集 本庄繁長公の会(会長 飯沼与三太) 
発行所 株式会社村上新聞社 TEL 0254-53-1409
定 価 1,200円(税込)