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竹田 歴史講座

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〜上杉鷹山の藩政改革と金主たち〜を読んで 小田国彦 


                     小田国彦

1 私は令和6年1月、米沢日報元旦号の紙面で紹介されていた書評で、加藤国雄著 上杉鷹山の藩政改革と金主たち〜米沢藩の借金・再生史〜を知りその著作を拝読した。以下は私の読書後の感想である。

 この国で生きていく為には、私たちは日頃どのようなことを思いながら生きていけばよいのだろうか。
 織田信長の時代であれば、第一に決して目上の人に逆らわないこと、自己主張をしないこと、目上の人の思いを先取りし、謟(うたが)うことが、特に顕著であったように思う。さらにそれは自分の味方だと思われる人の前でも決して口にしてはならない。安易に口に出せば、必ず何処かで密告され、後々咎められることになるからである。
 従って自然に、日光東照宮の三猿のように、「見ざる、言わざる、聞かざる」ような生き方となり、徳川の天下では利口者の第一要件のように思われてくるのである。

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いの際には、上杉家は石田三成の西軍方となり、東軍の徳川方とは対立する立場となった。その戦いは東軍の勝利となり、上杉家は和睦使である本庄繁長を京都に派遣して、辛うじて滅亡は免れた。しかし、一旦、徳川に対して反目したことで、徳川幕府が成立した後々まで酷くいじめられることになった。それは徳川幕府の政治の中心である江戸城の手伝い普請だけではなく、ほとんど米沢藩とは関係のないことまで大きな財政出動をさせられた厄役で、要するに徳川幕府としては米沢藩の財政を破綻に追い込めば良しとするようなものばかりだった。
 関ヶ原の戦いで徳川に対抗した諸藩も少なからず同様な処置を受けた。これに対して米沢藩は、上杉謙信が青麻(苧麻)の輸出などで稼いで貯めたそれまでの蓄え(囲い金)を取り崩しては、えいえい、その処置を諾り受け入れて行くしかなかった。
 しかし、幕府の要求は決して途絶えることなく続き、囲い金という隠し金は、1698年には払底し、あとは他からの借金と藩士の禄の借り上げの恒常化しか打つ手がなくなっていった。

 関ヶ原の戦いの前、上杉家は会津120万石の大藩だったが、その後、慶長6年(1601)には30万石に削減され、そして1664年には、藩主が後継なく死亡したことから15万石に更なる削減に遭った。それでも家臣の召し放ちはせず、120万石時代の家臣数を維持した。当然、家臣の禄の削減だけでは、削封に見合った全ての賄い切れるものではない。
 慶長6年時点では、上杉家の秘蔵金は60万両あったとされるが、度重なる幕府への手伝いで1664年には6万両まで減少したが、その後も幕府への手伝いは減ることはなかった。
 さらに悪いのは、1700年頃まで続いた温暖な気象が急速に寒冷化に向かったことがあげられる。加えて浅間山の大噴火で、東日本のほとんど全域が火山灰に覆われ、農作物が全滅に近い被害を蒙ったことである。
 旧上杉領の越後村上の場合、三面川、荒川という河川に封地が広がり、その豊富な水に恵まれての平野部での米作は他地域に比べて豊かであり、また産米の移出も領内の川港から京阪へと移送も容易であった。
 それに比して米沢藩の場合は、本州の内陸に位置し、しかも海抜が400メートルと高地な為に気温が低く、特に春先の山背による冷害は、米作の条件としては厳しいものであった。更に産米の移送も江戸時代の最初の頃は、福島の阿武隈川を下って運んだ。のちには最上川の開削により、最上川水運が開通し、現在の高畠町糠野目や長井市から荷を積んで最上川を下り、酒田港まで運ぶという大変な労力を要するものだった。陸送を選んだ場合でも、小国の山中を通る越後街道を西に向かって、村上領瀬波港まで馬匹より運送しなければならなかった。若し、当時、米沢藩に海辺の飛び地でもあれば余程よかったはずだが、そうは上手い具合には事は運ばなかった。

 後年、将軍家斉の左大臣就任に際してのお礼手伝いで、村上藩は5万両の手伝い普請をしたことがあった。領内三軒の廻船商人にそれぞれ3000両づつ、その他の小前者でも一軒あたり、数文の割り当てだった。問題はそれがその後も当たり前のように付加されていったことである。お蔭で近隣他藩では、当時にとっくに終わっている田地の改修などが、昭和の戦後まで持ち越される有様である。
 米沢藩は上杉鷹山による藩政改革が功をなした。それは置賜盆地に引いた黒井堰や飯豊山穴堰などの灌漑用水の開発によるもので、それは米作の増産をもたらしたほか、人口の増加にも寄与した。その結果、村上領内の海港場では、米沢藩からの米俵の荷揚げによる駄賃稼ぎで大いに潤った。農閑期、村上領内の百姓馬はこれにより大いに稼がせてもらったのである。
 米沢盆地は鷹山による灌漑用水の工事までは、常に水不足に喘いでいた。そのために行ったことが、黒井堰の開削と飯豊穴堰の開削である。前者は現在の米沢市窪田町から南陽市梨郷まで通すものであり、後者は飯豊山に隧道を掘り、小国に流れる玉川の水を分けて、白川に注ぐことで長堀堰の水量を増やすというものであった。
 飯豊穴堰の開削に関しては、米沢藩領の民、百姓間には根強い飯豊山信仰があり、登山道の途中、細い岩盤淵を歩いては何とかその下に穴を開けて山肌を伝って流れる水を越後側でなく、米沢側に取り入れたらと誰もが考えることだった。
 鷹山改革で領内の誰もが献策できる時代に入って、その懸案は鷹山に直訴され、わずか4,500両で可能なら、ということで、早速、越後下関の渡辺三左衛門を米沢に招き入れた。鷹山自らが懇請し、それで始まったのが飯豊穴堰の開削だった。丸々十五年に及ぶ大工事だったが、その開通により米沢盆地に稲穂の波打つ田地の光景が実現したのである。米沢周辺の他地方では全く実りがない時でも、米沢は確実に豊富な米穀に恵まれたのである。
 米の運送には多少懸かっても絶対量が不足であれば、十分採算が合う。一説では500俵の価格が10000両というときもあったらしい。近隣の村上藩でも、百姓町人の飯米などどうしようとも武士は食わねばならず、過る年、米沢から500俵都合つけてもらったのだが、10000両などある訳もなく、翌年現物返還ということにしてもらった由を聞いている。
 商品穀物さえ十分賄えられれば、何としても生きられる社会に米沢は丁度うまく乗れたということができる。しかし、それですら鷹山の威徳があってのことだった。この時代、時の人に恵まれた処はそれなりに生きられたのである。借金財政に追い立てられていた上杉家に、よくぞ聟(むこ)として入ってくれたということだ。

 当時、天候に恵まれた西南諸藩もいづれも財政的ピンチだった。いづれも米沢と同じで、幕府という癌が存在する限り、迷惑手伝いから遁れられない。天候に左右され易い稲作、従って新田開発も越後北蒲原郡のように用水に恵まれていればそれなりに成功ができる。
 1638年の寛永の総検地で、無理に表高が嵩上(かさあ)げされたが、植えても寒冷下では実高はずっと少なくなる。漆、楮(こうぞ)、桑の栽培による換金作物に傾注しても、施肥に金を懸けても全体的な寒冷化が進めば効果は些少である。更に商品化はその倍も懸かることになる。百姓仕事に不慣れな藩の上司の思うようにはならないのが常である。それでもやらないより良かったのか、芋、蜜蝋、桑は、少しづつは役に立てるようになった。飯さえ腹一杯食えれば、次の発展へと展望が開けるものである。
 二宮尊徳の支配する小田原藩の飛び地、下野国芳賀郡では、子供一人の出生は、即、米2俵の増産に値すると謂れていたくらいである。人口の増加は、即、増産、増益につながることを示している。
 鎖国は愚者の為政者による政策だったが、しかもそれは260年も続いた。明治の開国による近代化がこの国に富をもたらしてくれたかどうかも述べるところである。国土が狭隘な日本だから、海外に植民地獲得して豊かさを求めたと思いきや、たとえば満州国の建設に当たっては日本の国家予算の3分の1を注ぎ、その結果、却って苦しくなるという負の遺産を私たちは十分学び取ってきた。戦後80年近く経てもこの国では、自衛隊は存在しても他国のような「軍隊」という組織は受け入れていない。あの悲惨な戦禍という教訓を皆しっかり身についているからだ。

 米沢藩は何度も危機に遭いながら、鷹山の威徳のお蔭で遂に腹一杯食べられるという貴重な経験を私たちに残してくれた。この国は今、米沢藩以上の財政危機にある。それでも皆大人しいのは、どこかに新たな鷹山がいて、米沢藩のように財政再建をしてくれるという安心感があるからだろうか。
 今、日本が置かれている状況は、新たなる戦前、新たなる戦中だと思っている。私は、皆、自分一人一人が鷹山の遺徳に気づいてくれてこそ危機を乗り越えられると思っている。「鷹山よ再び!」ではなく、自ら少しでも鷹山に近づき、実践することだと思っている。

 本書で注目したいことは、米沢藩が酒田の本間家から融資を仰いでいたという点である。本間家は、庄内藩酒井家の財政破綻により藩の台所預かりとなり、強大な権力を得ていた。当時、一般的には藩米1俵は4斗3升入りだったが、輸送途中の損失目減り分として3升ほどが付加されていたらしい。ところが本間家は、1俵を5斗1升入りにする申し付けを行っていたそうである。他所より中身が多いから、それだけ利益率が高くなる。
 貸付金回収の難しさから、本間家本家は早々に米沢藩から手を引いたようである。それでも本間家分家は、その後も深く米沢藩に関わっている。あくまで鷹山を全面に出してではあるが、金融事情に不慣れな米沢藩当局に代わって、幕府、寺院との折衝に関わった。米沢藩の厳しい財政切り盛りに関わり財政再建に成功した背景には、皆、それなりの人物に恵まれたということだろう。
 私が住む新潟県村上市は、かつて村上藩が治めていたがこちらも同様なことが言える。巧妙なお坊さんである良寛は、侍との付き合いを嫌っている人だったが、村上藩が三条に持っていた飛地の下役人の一人とは、親しく詩文の交換をしていた。藩は早速、その者に目を付け財務方の士分に取り立てて、財政切り盛りの人に当たらせた。一番簡単なことは、大名無尽を繰り替えして、一番籤(くじ)を懐にすることである。
 そんなことばかりの繰り返しで、これ以上続かないギリギリが、結局は、御一新(明治維新)ということではなかったかと思う。

2おだ くにひこ
 1961年、新潟県立村上高校卒業。2003年、郵便局退職。国史研究家。1986年、玉庭鮎川衆との交流以後、鮎川氏史に深く関わる。著書「越後村上内藤領新保組同村集落誌」。村上市在住。