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竹田 歴史講座
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〜上杉鷹山の藩政改革と金主たち〜を読んで 小田国彦 


上杉鷹山の藩政改革と金主たち
    米沢藩の借金・再生史(簡約版)を読んで

1 大坂冬の陣、関ヶ原の戦いでは三成方だった上杉、佐竹両軍、鴫野では大坂城に向かって並んで配置されました。初戦で勝利を得たい城方にとって恰好の布陣でありました。当然、城方一万二千の攻撃がこの二の陣に集中します。上杉軍五千では当然崩されるはずが、上杉軍の近代兵器大筒で坂方壊滅、佐竹方には鉄砲六百丁しかなく、あわや崩される寸前に上杉方の援軍でやっと危機を免れる、他の徳川方の何れも知らぬ顔、これがその後も続く徳川封建体制の本質ではなかろうか。イジメ横行の現在に通じる本邦人の感情がこのころから当然だったようであります。

 米沢藩三十万石、戦さのない時代になっても何となくイジメが続いていたようであります。末期養子を決めておかない中での急な藩主の死亡、そのために、肥沃な信達地方は巻き上げられて半分の十五万石に削封、それでもイジメは止みません。海のない高冷地、当然主要作物の稲作には適さない土地であります。用水の便も甚だ悪く、更に冷害、旱魃の被害は極端なかたちで現われる土地であります。
 偶々配置替えになった佐竹氏の場合、新しい赴任地秋田は更に北方で田地は泥炭地であって常に作柄不良、寒冷下の天明、天保年間には十万人単位の餓死者を出さねばならない土地でありました。同じような条件下でそれでも何とか生き延びられた米沢藩は、現代だけでなく既に江戸時代中期には改革藩としての名声を得ていました。鷹山という希有な指導者を得ていたからであります。
 
 元々上杉家は謙信時代から産金の地に蟠踞したのであり、景勝時代には金属貨幣大判小判の地金の六割を賄うほどの金を産出したのであり、それを転々と封地を替えて囲い金として六十万両を所有していたのであります。
 幕府にとってそのようなことが許されるはずもなく、無理な手伝普請で消費させられてしまいました。そうまでして外様大名をイジメることが幕藩体制維持の必須の条件なのであります。
 西暦千六百年代後半、イギリスは名誉革命を経て資本主義国家として成長し始めているのです。徳川家だけが安泰であればそれでよい。この頃を起点として資本主義的発展する国と取り残される国との差が判然とするのであります。日本がその異常に気づくまでは二百年以上必要とし、国力の差が俄然と現われる元がこの頃からだったのであります。
 上に立つ者が偏狂で自分さえよければよいということ、何となく私達は今でもそれが日常化しているように思うのであります。何人も逆らえられない強力な徳川政権でありましたが、だからといって経済活性化の為の流通の促進など更々なく、河川に橋一つ造らず、関所などばかり彼方此方に造っては経済活性化の為の流通の促進など更々なく、何となく政権の性格がそのまま表出した体制だったように思います。それまでは比較的温暖であったのですが、開幕百年後あたりから急激に進んできたのが寒冷化であります。当然、温暖地方発生の稲の成長は急激に阻害されます。日本全体が冷害下にあって不作となれば当然輸入となります。しかし、人民がどんなに苦しもうとそのようなことは夢のまた夢であります。そんな中でも輸入米を食することができた二藩が後々幕府を倒して明治革命の主勢力となるのです。米沢藩も謙信以来の蓄え金のあるうちは何となく時の推移に身を委ねていられました。

 しかし、自分以外に余裕のある藩の存在を認めようとしない幕府にとって何の意味もない手伝普請を押しつける。幕府にとってそれで相手が困ればそれでよいのです。手伝普請のほとんどが何ら生産性のないもの、徳川家所縁の寺の修理、江戸城の堀の溝浚いなど、命ぜられた藩を困らせるにしかならないもの、こんな体制がよくも二百六十年も続いたものです。西暦千六百年代前半二十一回、千七百年代前半二回、後半五回、千八百年代四回そして幕末、長州征伐、列藩同盟参加、何の利益にもならない出費、こうしてまでの出費の強制、それでも藩を潰すまでしないのはイジメの見せしめが必要だったのは、幕藩体制の維持に必要だったからであります。どんなにイジメ抜かれても米沢藩が生き延びられたのが不思議でしかありません。
 
 米沢藩は百二十万石時代の藩士を十五万石に削封されても維持していました。口が多ければ出費は嵩む、更に悪かったことは、高家吉良家の過大な出費への過大な負担を強いられたことです。赤穂義士事件で吉良家は滅亡しますが、それにまつわる吉良家の過大な出費に巻き込まれたのです。
 更に鷹山の前藩主重定の浪費、それら財政の付けがまとまって藩を財政的に苦しめていたとき鷹山の登場となったのです。
 丁度そんな時、鷹山は十歳で祖母の実家へ養子として江戸桜田の米沢藩邸に入りました。財政的に危機の時でありましたので江戸藩邸の誰もが強い危機意識を持っていた時であります。藩の江戸屋敷の家老から藩の奉行に栄進した竹俣当綱を中心に、藁科松伯が鷹山の教育に携り鷹山の資質に接し、救国の君子と見抜かれたということであります。明和四年(一七六七)、鷹山、藩主に就任しても改革は中々進みません。戦国の雄藩百二十万石の大藩の意識が中、下層までしっかり根を下していたのです。全てがそれまでの雄藩の意識が中、下層まで押えつけています。特に上級武士達にとって、小藩出身の鷹山を侮る意識は強く、それまでの藩体制の変更は許されないことであったはずです。

 藩主就任後六年、遂に上級家臣による反乱、七家騒動という形で現れました。新藩主を中心とする改革派に対する抵抗となって現われたのですが、だからといって全てを旧に復するということは座して死を待つことでしかないのです。一番下にあって苦境に喘ぐ大多数の力でそれに対抗するしかないのです。前藩主の力を借りてまでの鷹山の果敢な対応、これでやっと改革の目途を得たのです。何事も改革など抵抗勢力の排除がなければ成功できないものです。むしろ貴重な意見など上級の者より下々の大衆にこそ改革の為の推進する力があるものです。執政竹俣当綱とそれを支える莅戸善政の登用こそ最大の成果ではないのか。江戸の藩邸こそ藩政に対する危機意識に漲っていたのです。

 あまりに山積している難問、実際どこから手をつけたらよいか分からないほどであったのです。進歩発展を嫌う幕藩体制にあって時代が何を要求しているかに適切に対応できるなどそうそうできるものではありません。そんな中、鷹山の藩主就任からほぼ十年、藩は会計一円帳を公開して意見を募ることで改革の糸口を得ようとしたのです。そうした上で漆・桑・楮の百万本植立計画を実行に移したようです。
 漆木はまだこの頃潤益が大きかったようですが、櫨蝋の生産が西日本で成功し、それまで財政赤字で悩んでいた九州細川藩など山という山に櫨を植立、その蝋の精製に紀州で成功し、黒煙の出ない蝋の抽出が可能となると、米沢、若松の蝋が徐々に振わなくなります。楮も市場では振わなくなります。
 桑は雌木を選定してなるべくそれを繁殖させる。意外と肥料を必要とするものであります。それでも繁殖力の強いもので一旦根付けに成功すれば後は割と植栽は容易なものであります。根付きもよく土地を選ばないものであります。問題はそれを食する蚕の成育です。
 専門の知識を持った者を招かねばなりません。辛い三十万国時代の信達地方は早くから養蚕持区であり、そこから指導者が得られれば数年の間に産業として定着するものです。要はそれを可能にできる指導員を得る為の勧農資金が得られれば米沢のような寒冷地でも割と容易なものであります。改革指導者の交代が三回ありましたが三回目の指導者のお蔭で商人、中下層の武士階級にまで養蚕絹布織が定着することで関連諸階級の人口が徐々に改善しました。

 幕末開港地横浜の商館が競って絹糸、絹布を買い求めたために有利な価格で売り捌くことができました。当時ユーラシア大陸の蚕は全滅の状態にあり、本邦だけが絹供給可能地であったことが有利に作用したのであります。米沢では田舎から雇われた娘達の暮れの帰省では八両もの駄賃を持たせることができたということであります。西暦千七百年以降、日本全体の気温が下がり始め宝暦五年の飢饉、更に天明三年の大飢饉の時は浅間山の大爆発による噴煙の為に東日本の稲作に大被害を及ぼされることになりました。米沢は直前、備荒対策が施されていたため餓死者累々ということはなかったのですが、東北の北部地帯の死者十万人以上であったのです。それが一定度防げただけでも鷹山改革成功の一例ではなかったでしょうか。天候の回復は遅々であります。
 春先の寒気は苗の成育には大いに阻害要因であります。苗の穂先をほんの少し水面から出すだけで暖気を待たねばなりません。しかしその水の確保がまた難しいことであります。米沢盆地は高地の為用水の確保は非常に難しい所であります。水回りも悪く赤湯、宮内を中心とする北条郷の村々はそれぞれ水利の不具合に悩まされてきました。改革の主導者莅戸善政の配下の黒井忠寄の建議で、寛政六年(1794)から寛政八年(1796)までの間に長大な新堰の開削で旱魃の被害は大幅に改善されました。
 驚くべきは、飯豊山から流れ出る雪解け水を、越後側へ流れる分を米沢盆地に導水できたことです。越後荒川へ流れる分を落下部分から米沢側に二百メートルの穴を開削して白川へ接続することで米沢盆地に百町歩からの新田を開拓できました。この穴堰こそ本邦藩政時代最大の土木工事であったのです。このようなことが可能なさしめたことは上下藩民が如何に鷹山を頂点とする藩体制への厚い信頼以外説明のできないことであります。藩の指導部にしてみればそれだけの信頼を得る為に莫大な借金の返済に最大の努力を傾注したのです。また債権者側も鷹山を頂点とする藩の執政者に大変同情的でありました。

 貸付利率が高いと僅かな期間で利息額が元本を越えてしまいます。相互の信頼関係の厚さが金融面でも大いに成功せしめていたのです。それが証拠に債権者側から勧農資金として積極的な提案があったことです。藩はそれを利用して農政、織布へと大いに利用拡大することができました。
 馬の飼育拡大は農耕馬として生産拡大に大いに資するものであり、輸送手段としても現代の自動車の代替となるものであり、その飼育は大いに農家経済に資するものでありました。勧農資金の拡大により藩経済全体を潤すものであります。
 寒冷地による稲の成育はその後も遅々たるものでありました。目標の十五万俵の備蓄は中々不可能でしたが当初計画の二十年にして今だけ十三万俵でしたが他域よりの要請による貸付、販売がそれほど頻繁だった為で、藩は五百俵一万両でいくらでも請け合っていたということであります。
 籾の備蓄は天保の大飢饉でも大いに威力を発揮することになりました。低温化による減収はずっと続きます。宝暦五年、天明三年、天保四年の大飢饉の度に藩は周辺各地から供米の要請を受けていたのです。
 米の絶対量不足な時であれば、酒田廻米も多少経費を要しても十分間に合います。最上川上流松川を四十石船で大石田まで、そこから二百五拾石船で酒田まで下す。経費は多少懸かっても十分間に合ったようです。馬匹による輸送で越後村上の海港までの輸送が割と安価であったといわれています。沿道の百姓も農閑期駄賃稼ぎで大いに助けられたとのことです。
 ここまで見てくると鷹山改革大成功ということになりますが、鷹山の人間的魅力が多くの後援者を引きつけたということであります。酒田の本間家、越後下関の渡辺家、そして最大の後援者、江戸の三谷家、そのいず方も単に鷹山の人間的魅力だけでなく彼を支える藩の執政者達の人間的魅力に大いに協賛し支援したのだと思います。会計一円帳の公開、また彼の執政者の派遣に際してもその前々に丁寧な手紙を先に差し上げておく等、側面から手助する。人間的誠意をもってすれば当時の侍社会でも通じ合えるものなのです。中でも最大の支援者は江戸の三谷家であります。
 藩が最も困窮を極めているとき安永五年(1775)、一万一千両の借り入れに応じてもらい、増上寺の高利古借の減債、自家の古借の債権放棄に応じてもらえたことです。更に本間家による勧農資金の貸付け、更に渡辺家による更なる保障、それらが幾重に重なることで藩は甦りました。本来潰されて当たり前の藩が甦ったのです。藩の底辺を引き揚げる、そうした積み重ねを経たことで、明治に至って各界で活躍する人材多数を送り出すことができたのです。
 鷹山改革、それはあの最も生き難い江戸時代中後期だけでなく今に至っても一つの灯を差し示しているように思います。

2おだ くにひこ
 1961年、新潟県立村上高校卒業。2003年、郵便局退職。国史研究家。1986年、玉庭鮎川衆との交流以後、鮎川氏史に深く関わる。著書「越後村上内藤領新保組同村集落誌」。村上市在住。