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竹田 歴史講座
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書評 山形歴史探訪6『天童・次年子・南原・窪田の秘密』


1 著者は、東海大学山形高校に長年勤務し、現在は、文芸同人誌『杜』『梟』代表、置賜民俗学会副会長、えみし学会理事、米沢市芸術文化協会副会長など、多方面で活躍中の人物。
 同氏は令和3年11月1日、高校の同僚である荒井久宣氏とともに「山形歴史探訪5 尾花沢・寒河江平塩・西村山・飯豊・簗沢の秘密」を出版したが、本書はそのシリーズの続編となる。
 米沢地方に留まらず、山形県内の広い地域を同時に扱っている。その地域特有の歴史や魅力を伝えるだけではなく、広い地域を扱うことで視野が広がり、相互関係を考察することにある。現地に足を運んで、写真を撮り、原稿をまとめるという時間をかけた労作である。

 第一章の天童・田麦野の秘密では、若松観音、大江広元、幕末の天童藩などを取り上げる。山形県は少子高齢化によって人口減少が著しいが、山形市から天童市、東根市にかけて都市圏が広が天童市、東根市は人口が増加している。これは道路事情が良いことや、雪が少なくて住みやすいこと、東根市は陸上自衛隊神町駐屯地があることや、子育て支援に早くから着目して施策を行ってきた自治体であることなどがその理由に挙げられるかも知れない。
 若松観音は、天童市の東の山にある寺院で、縁結びの寺として、若い人たちに人気のスポットだが、清野氏は若松寺にアイヌが神に祈る祈祷所(チャシ)があったのではないかと推定する。それは朝廷の勢力の支配が及ぶまでの7世紀終わりまでである。若松寺は、和銅元年(708)、行基が開基となった。寒河江市の慈恩寺が神亀元年(724)も行基に見出され、天平18年(746)に、インドの僧侶である婆羅門僧菩提遷那が開基となっている。清野氏は、蝦夷たちが農業に馴染めず、苦しい生活を送り、ひたすら祈る生活だったろうと述べている。
 源頼朝は奥州藤原氏を倒し、頼朝の家臣と東国武士団に藤原氏の所領が分け与えられた。頼朝の右腕として活躍した大江広元には、寒河江荘や長井荘が与えられ、それぞれ広元の子親広、時広が移り住み、寒河江氏、長井氏を名乗った。寒河江氏は最上義光に滅ぼされた。長井氏は、伊達氏に滅ぼされた。広元は土師氏の出身であることも紹介する。
 天童藩主は、織田信長の血を受け継ぐ。最初は高畠にいたが、天保元年(1830)に、天童に移った。戊辰戦争では、東北の諸藩が奥羽越列藩同盟で固まったのに対して、天童藩は官軍の先導役となったが、のちに天童藩も奥羽越列藩同盟に同調することになり、家老の吉田大八は責任を取らせられ自刃した。清野氏は、天童の地場産業、将棋の駒についても触れている。春に行われる人間将棋は、2022年には藤井聡太が来て盛り上がった。
 第二章は、次年子の秘密を取り上げている。次年子は蕎麦で有名な場所。第三章は、米沢市の南原・李山の秘密。八郎・太郎伝説、西向沼の歴史、武士が開拓した村などが紹介されている。
 第四章は、米沢市の窪田の秘密。毎年12月4日に行われる千眼寺保呂羽堂の餅つきは有名。裸の若者が餅つき歌(練歌、搗歌、揚歌)を歌いながら餅をつく姿は、米沢市の冬の風物詩となっている。最後は、餅が天竺に届くように、皆で餅の塊を天井に突き上げる。地元の人たちや観光客がお布施を持ってきて、寺の中で「あんこ餅」、「納豆餅」、「雑煮餅」を味わう。
 清野氏は、「あげろ 餅あげろ 天竺までも あまの河原の ソリャ そこまでも」の歌詞を考察する。どうして餅を天井まで高く持ち上げるのか、この歌詞の「天竺」や「あまの河原」とは何か。そして保呂羽権現の由来を述べる。保呂羽信仰は、秋田県横手市に保呂羽山があるという。清野氏は、この保呂羽(ホロワ)の名前は、アイヌ語の「広い、偉大な山頭」を意味するという。
 窪田は、江戸時代、上杉家の家臣、色部家の領地があった場所。千眼寺には色部家の墓所がある。色部家の鎌倉時代からの歴史を辿り、色部氏と窪田の保呂羽堂の関わりを解説している。
 いつもながら、清野氏の扱う領域の広さ、その知識量は膨大で、民俗学や歴史学などを縦横無尽に駆使して、そこに住む人々の営みを網羅することに成功している。民俗学の研究書や学術書と違い、とても読み易い構成になっている。このシリーズがこれからも継続していくことを心より望むものである。(書評 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

著 者 清野春樹
発行者 清野春樹
    米沢市城西3−9−6
    TEL 0238-23-1729
発行日 令和6年2月20日
定価  1,500円+税