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書評 『山形県のアイヌ文化』 清野春樹著


1 令和5年3月1日、『山形県のアイヌ語地名』を出版して大きな反響を引き起こした清野春樹氏(米沢市)が、8月15日、その関連本とも言える『山形県のアイヌ文化』を出版した。山形県のアイヌに関して、学問的な深掘りをした内容である。
 清野氏はまえがきの中で、「アイヌ語に関しては山形県は他県と違って、特殊な位置にある」と述べている。それは、日本書紀の持統3年(689)に、ウキタム郡(現在の山形県置賜地方)の蝦夷の脂利古(しりこ)の息子の麻呂と鉄折(かなおり)が仏道修行の許可を朝廷に申し出て、それを天皇が許し、高畠町高安に寺を建てて蝦夷に仏教が広がることを期待したことが書かれているからである。
 大和朝廷が、現在の宮城県多賀城に国府を置いたのは、元亀元年(724)とされるが、それよりも130年余り前に山形県ではすでに大和朝廷による同化政策が取られていたというのは誠に興味深い。その結果、清野氏は「山形県では早くから倭人の文化が流入するとともに、戦いに巻き込まれない平和な生活が続き、蝦夷と倭人の混淆(こんこう)した文化が生まれ、生のアイヌ文化が保存された」と述べる。縄文時代には、東北にはアイヌ系の人々しか存在しなかったが、その後、大陸から渡来人がやってきて、いろいろな技術を伝えた。
 本書は、13章から構成されている。第1章と2章は、アイヌと日本、東北や米沢に残るアイヌ文化を紹介する。第3章は、米沢市笹野で作られるお鷹ぽっぽと蘇民将来、第4章・5章が草木塔に関して、6章、第12章が最上の山の神勧進、7章が米沢市田沢戸長里について、8章が山形市のチャシ、第9章が保呂羽大権現、第10章アイヌの星座(北海道)、第11章山形県のチャシ、第12章で縄文文化について考察する。
 第2章の米沢や東北に残るアイヌ文化の中では、柳田国男が米沢の五色温泉に宿泊した時に、旅館の隣にアイヌ小屋を見つけたことや、柳田国男がその生涯をかけて民俗学を確立していく過程を詳しく紹介する。春の山菜で「ウルイ」と呼ぶのは、東北地方だけで他では「ぎぼうし」と呼んでいるそうであるが、「ウルイ」をアイヌ語で解くと、「ウル」(丘)「イ」(…にあるもの)という意味だそうだ。しかし、この言葉は北海道のアイヌ語にはなく、それは東北地方のアイヌ語で、東北には北海道にないアイヌ文化が残っていると清野氏は述べる。
 第4章の草木塔とアミニズムの章も興味深い考察である。「草や木にも人間と同じ魂が宿っている」という思想は、仏教以前から日本に存在しているアミニズムという思想である。米沢市入田沢塩地平に草木塔が初めて建てられたのは、安永9年(1780)で、石碑の面には「草木供養塔」と彫られている。2012年(平成24)9月現在、確認されている草木塔は201基(梅津幸保氏調べ)で、そのうち5基に、経文が刻まれている。
 第5章の中で、草木塔がなぜ発生したのかに関しては諸説があるとした上で、木流しと関係があるのは確かではないかと述べている。川の流路を利用して、田沢地区から米沢の城下町に薪として必要な木材を運んだ。古い草木塔は、この川の流路に沿って設置されているからだ。
 第11章では、チャシを扱う。チャシとは、アイヌ語で、「砦、館、柵、柵囲い」を意味する。(知里真志著『地名アイヌ語小辞典』)米沢市田沢戸長里チャシの特徴は、丘の中腹にその上にポッコリとしたふくらみがあり、その頂点に石が埋められているようだった。清野氏はこの石を見て、チャシと考えた。戸長里のアイヌ語の意味は、「古い我らが丘」となることを2年かけて解き明かした。まさに金字塔である。
 清野氏の今回の著作は、『山形県のアイヌ語地名』を出発地点として、アイヌ語を通して実に郷土の歴史、文化、地名などを総合的に体系的に捉えることに成功し、誰もが納得する明快な答えを導き出したことだろう。
 「学問は嘘をつかない、きちんと考えて筋道を辿ると正解に行き着く」と述べる。実に学究的な論文となっており、大学の講義として用いられても不思議でないレベルの極みに至ったものと思う。清野氏が心血注いで完成させた『田沢郷土史』の編纂を通して、清野氏の視点が一段と高く、そして広がった感がする。著作の刊行を喜びたい。(書評 米沢日報デジタル/成澤礼夫)

著 名『山形県のアイヌ文化』
著 者 清野春樹
発行者 清野春樹 〒992-0054 米沢市城西3−9−6
         TEL 0238-23-1729
発行日 令和6年8月15日初版発行
定 価 1,500円+税