newtitle

画像04が表示されない
竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

本当にあったちょっと怖いお話です(その2)

                              寄稿者  成澤礼夫


「私の生家にTさんの霊が訪ねて来た」

◇大学進学で横須賀市に住む
 昭和51年春、神奈川県横浜市金沢八景にある私立大学に進学した私は、親戚が不動産業を営んでいた関係から同県横須賀市にあるアパートを紹介してもらい、そこから学校に通い始めました。横須賀中央駅から徒歩20分ほどの、バス停も近くて便利の良いアパートでした。横須賀市は歌手の山口百恵さんの出身地で、私のアパートは彼女が通ったという中学校が近くにあり、彼女の歌にもあるように横須賀は坂道が多く、丘の上から眺める横須賀港の景色は抜群です。輸出される自動車が港にずらっと並んでいました。
 私が住む事になったアパートは完成したばかりで、四畳半の家賃は月18,000円でした。アパートの大家さんは、ご主人がサラリーマンで、奥様は福祉関連の人材斡旋業を行っていました。お子供さんは4人いて、社会人の娘Tさんを頭に、高校、中学、小学校と男の子3人と6人家族の仲の良いご家庭でした。奥様はアパート経営や人材斡旋業などなかなかのやり手で、「浜っ子」と言われる横浜育ちのとても明るい、気っ風の良い方で業界や学校関係の要職を務められるなど、地域の方々からの信頼も厚い女性でした。

◇「なすび」のニックネームをもらう
 学校に通い始めて間もなく、私は初めて親から離れて暮らす生活で、慣れない自炊、電車での通学、新しい学校生活など、生活や環境が激変してストレスからすっかり体調を崩してしまいました。今でいう五月病です。朝、布団から起き上がれず、ご飯を食べる気力も出てきません。新学期が始まって1か月だというのに、気持ちは焦っても学校に行けず寝ている日が何日か続きました。
 短大を卒業、事務職として社会人2年目のTさんは、都内の職場まで電車で通勤していました。当時、流行のジャンパースカートを身につけて、いつもファッショナブルでした。私のアパートの各部屋には電話機はなく、大家さんが電話を取り次いでくれていました。たまたま、私への電話の取り次ぎに来たTさんが、具合が悪くて寝ている私を見つけて、「これは大変」と、奥様を連れてきて私にお粥を作ってくれたり、医者を紹介してくれたりと、ご家族でとても親切にして頂くことになりました。
 これがご縁で私は以来、大家さん方にまるで家族のように扱ってもらったのでした。息子さんの家庭教師をさせてもらいました。夕食時には、ご家族と一緒にそれまで食べたことがない生寿司を初めて御馳走になったり、奥様にはカラオケに連れて行ってもらったりと、大いに社会勉強をさせて頂きました。Tさんは私に「なすび(なす)君」というニックネームをつけて、以来、子供たちは私を「なすび」と呼ぶようになりました。なぜ、「なすび」なのかは、わかりませんが。

◇心の病になって
 私が大学を卒業する少し前に、Tさんは職場の人間関係から会社をやめてしまいました。私に、「女性の上司にいじめられている」と聞いたことがありました。今のように、パワハラなどという言葉が無い時代です。ご自身の結婚もなかなか思うようにいかなかったことから、自宅に引きこもるようになった様子でした。私の卒業記念だと言って、Tさんが持っていたアマチュア無線機や私が興味ある本のいくつかを頂戴しました。それらは捨てずに、今も私の手元にあります。
 米沢市に就職することになった私は、たまに出張で東京に出掛けた時には、ついでに以前のアパートに顔を出して奥様やご家族にご挨拶に伺いました。ある時、私が奥様と話していると、Tさんがちょこっと顔を出しては、すぐに奥に引っ込んでしまいました。見た目にもあまり具合が良さそうではありません。Tさんが心療クリニックに通院していると奥様が教えてくれました。仕事や結婚のことで悩んだ結果、心の病気になってしまったのです。その時、私はTさんが、それほど深刻な状況にあるとは理解していませんでした。

◇自から命を断ったTさん
 それから1年くらいして、会社の寮に一枚の葉書が届きました。横須賀のアパートの奥様からでした。その葉書は喪中葉書で、裏に手書きで「Tが死にました」と書いてありました。あまりに無造作にしかも短く書かれてあるので、びっくりしましたが、その文面に母親のショックが滲み出ているようでした。
 私は早速、Tさんの家に電話をしました。奥様が電話口に出て、「2週間ほど前、Tが自から命を断った」と述べました。私には慰める言葉が見つかりませんでした。まだ、25や26歳のうら若き女性が自から命を断つなんて私には想像も付かなかったからです。あれだけTさんにお世話になったのに、私は何もして上げられなかったことをとても悔やみました。何か、私が手を差し伸べていれば、ひっとして死ぬことはなかったかもしれないと思ったからです。後の祭りでした。

◇Tさん、さようなら
 以前、アパートを訪ねて、Tさん家族に面識のある私の母に早速電話をしました。「Tさんが2週間前に亡くなった」と私が話すと、母は、「そういえば2週間ほど前の日中、自宅1階の廊下を誰かが歩く足音が聞こえた」と言ったのです。ちょうど、Tさんが亡くなった頃です。母は「一体誰だろうと思っていたがTさんだったのか」と言いました。母は霊感が強く、親戚で不幸があったりすると、自宅の仏前でその前に鐘が鳴ったとか、自宅の廊下で歩く音が聞こえたとか、道路に白い衣装を着た人(霊)が立っていたとか、以前からよく私に話していました。
 今度もそのようなことがあったのです。それを聞いて私はTさんが亡くなる前に、私や母に挨拶に来てくれたのだと思いました。Tさんは私たちの事を気に止めてくれていたのだと、その時にはっきりと理解しました。
 しばらくして、私は横須賀のTさんの家に御焼香に行きました。仏前のTさんの写真を前に、「Tさん、これまでありがとう。安らかにお休み下さい」と合掌しました。
(平成16年5月30日号「米沢日報紙」掲載を加筆修正)

(2016年5月22日10:50配信)