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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』(同)、『城門を潜って』(同)
静岡県島田市にある諏訪原城を私が訪れたのは、平成三十年(2018)三月九日のことである。実はその翌日、同じ静岡県藤枝市にある郷土博物館文学館で講演を行うことになっていて、そのタイトルが『北条・上杉・武田の諸城を探る』というものであった。
当然、諏訪原城についても語る予定となっているので、藤枝市在住の知人多々良孝雄氏に頼んで、その城を案内してもらったというわけである。四年前(2014)の十月六日にも同じ会場で話す機会を得ているので、その時も諏訪原城へは行っている。しかしながら、その日はかなり大型の台風が東海地方に接近しており、城入口までは向かったものの、それ以上の攻略は無理と判断してやむなく引き返さざるの得なかったのである。そこで今回、もう一度多々良氏に依頼して、前回のリベンジを試みたのだ…。
JR藤枝駅前から車を走らせること四十分ほど、旧東海道沿いの小高い地点に諏訪原城はあった。駐車場で停止して車のドアを開けたとたん、四年前と比べて様子がすっかり変わっていることにまず驚かされた。あの時はどしゃぶりということもあって、歩行が困難なほどにぬかるんでいた道もきれいに整備され、解説板も設置されてあった。
1番最初に掲載した写真がそれだが、この縄張図を眺めながら城散策を始めてみよう。まず、北(写真では上の方角)へ向かって進んで行くと、二の曲輪中馬出に出逢う。左手に見えるのが2番目に掲載した三日月掘でこの写真だと少し解りにくいかも知れないが、上空から見ると前方がゆっくり右にカーブしていることが読み取れる(1番目の写真参照)
これは武田流の築城技術といってよい。同じ静岡県三島市にある山中城は、3番目に掲載した写真のような障子掘で有名だが、これは北条氏独特の技法である。このように掘を一見しただけでもその城がどの武将によって築かれたものなのか、それが特定出来るようになればしめたものである。事実この諏訪原城は『武徳編年集成』に、
「永禄十二年(1569)十一月七日、武田信玄、牧之原台地に砦を構える」
とあることからも理解出来るように、信玄が家臣の馬場信房(ばばのぶふさ)を築城奉行に任じて造営させたものである。ただし、その規模はそれほど大掛りなものではなく、写真1のような構造にしたのは信玄の四男勝頼であった。そのことは勝頼が天正元年(1573)十一月四日に記した書状(古文書雑集)の中に、
「遠州(今の静岡県西部)出陣の帰路、久野城(同袋井市)と懸川城(同掛川市)に対する城として築いた」
そうあることからも確認出来る。縄張を担当したのはこの時も馬場信房であった。
二の曲輪中馬出の右手には土橋が設けられていて、それを渡って二の曲輪に入った。かなり広い。城の入口附近で入手したパンフレットによると、天気の良い日にはそこから甲斐国(今の山梨県)を望むことが出来ると書いてあるが、今日は曇り空なのでそれは不可能であった。敷地内にはかつて、倉糧・武器・弾薬などを保管する倉庫や、副将、もしくはそれに準ずる武将たちの詰所が建てられ、武器・弾薬を管理する係の者の宿舎も備えられていたとされている。
周囲をぐるりと巡ったのち、本曲輪に向かって歩を運ぶと再び土橋と出会った。敵に攻められた際、木橋だと火をつけられて燃えてしまうからだ。従って、城の主郭部分には土橋を用いるのがよいとされている。本曲輪に至った。東西104メートル、南北88メートルほどの面積があり、東北隅に二層からなる物見櫓が築かれていた。 無論今は何も残ってはいないが、その部分だけが廻りよりも一段高く土が盛られていて、その地点に立つと眼下に県道島田金谷線が走り、その後方に大井川がゆったりと流れているのが認められた(4番目に掲載した写真参照)
同時にこの城が"後ろ堅固の城"そう呼ばれる理由もすぐに飲み込めた。大手側(旧東海道側)から眺めれば、平坦な土地に築かれたように感じられるのだが、逆の大井川が流れる方角から望めば、断崖絶壁(本曲輪の標高は200メートルほどあり、しかも当時は本曲輪の東側のすぐ下まで、大井川が迫っていたのである)の上に立地していることが解るであろう。これが"後ろ堅固の城"の特徴で、このほかにも長野県小諸市にある小諸城、愛知県犬山市にある犬山城がこれに該当する城である。また別名"扇城(おうぎじょう=本曲輪を扇の要〈かなめ〉にたとえ、扇状に曲輪が広がっていることからその名が付いた)"とも称される諏訪原城のもう一つの特徴は、東西交通の要衝の地に造営されている点にある。
ところで、なぜ勝頼は遠江の国に築いた城であるのに諏訪原城と名付けたのであろうか?一般的な解釈では、5番目に掲載した写真でも解るように、城内に諏訪神社を祀ったからだといわれているが、果して本当にそれだけなのかという疑問が常に私の心の中でうずまいているのである。
なぜなら、武田勝頼の母は、父信玄が天文十一年(1542)七月二十一日に自害に追いやった、諏訪頼重(よりしげ)の娘であるからである。そのため彼の名前には、武田家の男児に本来付くべき"信"の文字が使われてはいない。信玄の祖父は信縄(のぶなわ)父は信虎(のぶとら)信玄自身も出家前の名は晴信であった。そればかりか、信玄の嫡男は義信、次男が信親、三男信之、五男盛信といずれも"信"の文字が用いられるというのに、四男だけが勝頼なのである。
恐らく信玄の腹積りでは、自分の手で滅ぼした名門諏訪氏(この家は代々、諏訪大社の大祝〈おおはふり=あらひとがみ〉を勤めていた)を四男に継がせることによって、諏訪氏に仕えていたかつての家臣たち、さらには諏訪氏を慕う領民たちを慰撫する狙いがあったと考えられる。その証拠が"頼"の一文字だ。これは代々、諏訪家の男児が用いるものだからである。
しかしながら、信玄にとって思いもしない出来事が起きた。嫡男義信の造反がそれである。信玄が"越後の竜"と称された上杉謙信と"川中島"で戦ったことは衆知の通りだが、五回にわたって謙信と干戈(かんか=たてとほこ)を交えたのも、日本海を手に入れたかったからである。甲斐国(今の山梨県)には海がない…。けれど、その行く手を"越後の竜"に阻止された信玄は、方向転換を余儀なくされ、その結果考え出したのが太平洋への進出であった。だが、そのための障害となるのが、今まで同盟を結んでいた今川氏の存在である。
しかし、これを攻めない限り駿河(今の静岡県の中央部)への進出は望めない。そこで信玄は同盟を破棄してまで、今川氏攻略に踏み切ったわけだが、それに真向から異を唱えたのが嫡男義信であった。彼は今川家の現当主氏真(うじざね=義元の子)の妹を正室に迎えていたからである。こうして義信は父に逆らったという理由で、永禄十年(1567)十月十九日、自刃に追いこまれる運命にあった…。
だがこうなると、武田家を継ぐ者は四男勝頼しかいなくなった。というのも、次男信親は生まれながらにして目が不自由であったし、三男信之はすでに夭逝、五男盛信は信州安曇(あずみ)の名門仁科家を継いでいたからである。こうして勝頼は元亀二年(1571)高遠城(長野県上伊那郡高遠町)から甲府のつつじが崎館に呼び戻され、諏訪四郎勝頼から武田四郎勝頼となった。父信玄が伊那の駒場(こまんば)で息を引き取るのはそれから二年後(1573)の四月十二日のことだが、死に臨んで信玄は、こう遺言したと『甲陽軍艦』にはある。
「第一に、勝頼は嫡男信勝(信玄の孫)が十六歳になったら、家督をすみやかに譲ること、信勝相続後はその後見人になること。第二に孫子の旗(有名な風林火山の旗)を揚げてはならない」
と…、これが勝頼の立場を、非常に不安定なものにした、といって良いであろう。
−どうせあの方は、一時的なご当主にしか過ぎないのだ。
−無理もないさ、そもそもあの方の母君は信玄公が滅ぼした頼重殿の娘だからね。
口にこそ出さなかったが、重臣たちの何人かはそう考えていたに違いなく、勝頼自身もまたそんな彼らの胸の内を敏感に嗅ぎ取っていたものと想定される。そして、その屈折した勝頼の思いが、父が手がけた城に大改修を加えた際、体内に流れる"諏訪一族の血"が魂の叫びとなって噴出した。それが諏訪原城の名となった…、そう私は捉えるのである。こうしてこの城を軍事拠点とした勝頼は、天正二年(1574)五月三日、
「諸手(もろて)の軍勢(二万五千)をすすめて、高天神城を攻め囲む」
と『改正三河後風土記・巻十四』が記述する行動に出たのである。やがて、勝頼は大井高政という武将に宛てた書状(信濃史料・巻十四)の中に、
「当城の儀、去る十二日、諸口を取り詰め相稼ぎ候故(あいかせぎそうろうゆえ)昨日、塔(堂)の尾と号する随分(ずいぶん)の曲輪(掲載した6番目の写真参照)乗っ取り候」
とあるような勝利を得たのである。けれど、これがまさか、武田家滅亡への第一歩になろうとは、勝頼自身も気づかなかったに違いない。なぜなら三年前(1571)の三月、信玄が攻めても落せなかったこの高天神城を、オレはついに陥落させてやった。その思いが自信の段階で留まっていれば良かったのだが、いつしかそれが過信となって、あの無謀とも思える"長篠・設楽ケ原(愛知県新城=しんしろ・市)の戦い"へと勝頼を駆り立ててしまったからである。そして、天正三年(1575)五月二十一日に行なわれたこの戦いは、武田軍の大惨敗で終った。
こうしてみると、この諏訪原城は武田勝頼という武将にとって、自分の出生への思いが複雑にからんだ城であり、自分の命運をも決した極めて重要な城であったと表現出来るかも知れない。そんなことをあれこれ考えながら多々良氏と散策をつづけて行くと、城内の一角に新しく建てられた石碑(7番目に掲載した写真参照)を見つけて、ふと足を止めた。刻まれた文字がはっきりと読めるだけに、どこかその姿は淋しげに見えた。あるいはそれは、勝頼に対する私の哀惜の念が、そう感じさせたのかも知れない…。
写真撮影 1・2・4・5・7−多々良孝雄氏 3・6−作者本人
(2018年6月1日20:30配信)