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竹田 歴史講座

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寄稿 『南部一族の歴史とそのゆかりの城』斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
 連日、三十五度を越える猛暑日に加え(八月十五日現在)、その上今年は新型コロナウイルスが流行している。この見えざる敵に対しては、換気がなによりも大切だということで、私は部屋の大きな窓をゆっくりと開いた。すると、窓際に吊るしてある鉄製の風鈴が、チロリンと鳴った。それを見上げて、
 —南部風鈴か…。
 思わずそうつぶやいた次の瞬間、なぜか、その地を長く支配していた一族のことが気になりだした。それにこの一族ゆかりの城を、いくつか過去に訪れたことがある。そこで今回、この一族の歴史とゆかりの城を、私なりに探ってみることにした。

 源頼義の子に、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)がいるが、彼から数えて五代目に当る光行(みつゆき)は、治承(じしょう)四年(一一八〇)流されていた蛭ケ小島(ひるがこじま=静岡県伊豆の国市)で兵を挙げた源頼朝が、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏と戦った際に手柄を立て、甲斐国(今の山梨県)南部牧を賜わった。これが南部氏の起こりである。その後、頼朝の側近として仕えた光行は、文治(ぶんじ)五年(一一八九)頼朝が奥州平泉の藤原氏を征伐すべく軍を発した時は、これに従軍、ここでも功績をあげて青森県東半部から岩手県北部に位置する糠部郡(ぬかのぶぐん)を拝領した。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の文治五年九月十七日の条に、
「藤原基衡(もとひら=三代秀衡の父)が毛越寺(もうつうじ)建立にあたって(造営年代は、一一五〇〜五六までの間と考えられている)仏師雲慶に糠部駿馬五十疋(頭)を与えた」
 との記述からも読み解けるように、この地は古くから、良馬の産地として有名であった。そこで光行は、四門九箇の戸制(しもんくかのへせい)という独特の制度を考案したのである。どういうシステムかというと、本領糠部を九つの戸に分け、その一戸ごとに七ケ村を付属させた上で、九つの戸をさらに四門にわけ、その一門ごとに一族を配したのである。たとえば、長男行朝に一戸を授けてその始祖とし(居城一戸城<岩手県二戸郡一戸町>は二代目義実の創建)三男実長に八戸を、四男朝清に七戸を与えた(居城としたのは久慈城<岩手県久慈市>だが、その後七戸城<青森県上北郡七戸町>へ移った)そして、五男宗朝を四戸に置き(居城は櫛引城<くしびきじょう=青森県八戸市>この城の西側は馬淵川によって侵蝕された天然の断崖で阻まれ、東と北側は小さな谷によって囲まれるという利点があったが、南は丘陵つづきで、そこが弱点である)六男行連を九戸に据えた(居城の九戸城<岩手県二戸市>は『岩手県史』によると、一四九二〜一五〇一の頃に築かれたとある)といった具合である。
 こうした上で光行は、建久(けんきゅう)三年(一一九二)青森県三戸郡南部町に平良ケ崎城(ひらがさきじょう)を構えた。けれど、頼朝の信頼の厚い光行は、主君の求めに応じて鎌倉に戻り、領国経営は次男の実光(さねみつ)に委ねることにした(長男行朝は自分の母が光行の側室であったため、南部宗家を継げなかった。このあたりは、伊達政宗の長男秀宗が、伊達宗家を継げなかった事情とよく似ている)

 承久(じょうきゅう)元年(一二一九)十二月糠部に入った実光であったが、三浦氏、会田氏、工藤氏、それに浄法寺城(じょうぼうじじょう=岩手県二戸郡浄法寺町)の浄法寺氏などが勢力を有していたし、一族間の反目も激しいものがあったから、その統治はなかなかうまく行かなかった。その上、父光行が嘉禎(かてい)二年(一二三六)三月十八日、鎌倉で没してしまったので、実光は父に代わって、鎌倉に出仕する機会が多く、その心労がたまったのであろう、建長(けんちょう)六年(一二五四)八月十二日、三十八歳でこの世を去った。以降、三代時実、四代政光とつづくのだが、その間の確実な史料が乏しいため、事例をあげるのが難しいのが実情である…。
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 糠部での南部一族の活動が、古文書で確認されるようになるのは、南北朝時代で、南部八戸の四代目に当たる師行(もろゆき)が、糠部奉行に任じられた頃である。建武(けんむ)元年(一三三四)、馬淵川の南岸段丘上にあり、本丸、中館など四つの曲輪を持つ根城(青森県八戸市)を造営した師行は、弟政長とともに、南朝方に忠勤を励むことになる。だが、南部宗家の動向は相変わらず不明な点が多く、わずかに、『看聞(かんもん)日記』の応永(おうえい)二十五年(一四一八)八月十日の条に、
「南部(十三代守行)上洛、馬百疋、金千両、室町殿(当時の将軍は四代足利義持=義満の嫡男)へ献上云々(うんぬん)」
とあるぐらいである。

 南部宗家の歴史が明確になって来るのは、1番目に掲載した系図でもお解りのように、二十三代安信とその弟高信の時代になってからである。この兄弟はともに猛将として知られ、大永(だいえい)四年(一五二四)高信は津軽郡代として堤浦(青森市松原町付近か)で起きた騒乱の鎮圧に成功すると、続いて、天文(てんぶん)二年(一五三三)には穀倉地帯である平賀、田舎、沖法(おきのり)三郡(現在の南津軽郡全域)の完全掌握に成功した。そこで安信は、弟高信に石川城(青森県弘前市)を守らせたのである。
 大仏ケ鼻城とも呼ばれるこの城は、平川が津軽平野に入り込むあたりにあって、十三の曲輪からなる堅城であったのだが、後年の元亀(げんき)二年(一五一七)五月五日、津軽簒奪(さんだつ)の野望を秘めた弱冠十七歳の大浦為信(ためのぶ=のちの津軽為信=彼は久慈城主久慈治義=はるよし=の次男坊で、大浦城〈青森県中津軽郡岩木町)〉城主大浦為則=ためのり=の養子に入ったと言うから、この為信も南部一族の一人と言える)に攻められて自刃して果てた。高信の兄安信は永正(えいしょう)五年(一五〇八)四月五日にすでに没している。

 安信の死後、南部宗家二十四代となったのが、嫡男彦三郎安政(のちに晴政と改名)であった。彼は父や叔父の血を受けた猛将で、その電撃的な行動力を駆使して、天文三年(一五三四)船越館(岩手県下閉伊〈しもへい〉郡山田町)の船越氏が起こした閉伊の乱を鎮め、三年後(一五三七)には、高水寺城(こうすいじじょう=岩手県紫波郡紫和町)の斯波氏(足利氏の支流)と交戦した。けれど、この城は『志和軍記』に、
「前に北上川とて大川なり、後は深堀、左右の深淵にて竜王も住居する程の大堀、要害堅固の城にて飛鳥(とぶとり)も飛越し兼ねる程の居城なり」
 そう記されているので、落とすことは出来なかったのだが、その反面で彼は、天文八年(一五三九)に上洛、足利十二代将軍義晴に拝謁し、晴の一字を賜って晴政と改名するなど、なかなか、外交手腕にも長けていた人物である。さらに、その翌年(一五四〇)には、雫石城(しずくいしじょう=岩手県雫石町)の戸沢氏を追って、南部一族の支配権を拡げていくのである。こうした上で晴政は、三戸城(青森県三戸郡三戸町)を築くのである。そこで馬淵川と熊原川の合流地点、標高九〇メートルの丘陵上に構えられたこの城を、2番目に掲載した縄張図を片手に、少し散策してみよう。

nanbu-2 まず、山道を登って行くと、堅固な石垣で囲まれた網門に出会う。城内で最も防備の堅い門である。次に鳩門があり、そこを過ぎてゆるやかな坂道を進むと、左右に高さ十メートルほどある土塁が巡らされたケヤキ門となる。その先が本丸へと通じる大手門で、本丸の北東には、隣りの谷丸の低地から積み上げられた石垣の上に、三重櫓がそびえていた。さらにその東側には、土塁で囲まれた空間に、台所、米蔵、武器蔵が並び、本丸奥には、深い井戸も設けられてあった。(水路は、そこへ水を注ぐための施設であろうか)最東端には、搦手門(からめてもん)が建ち、そこから約十メートル低い地帯には、藩主用乗馬の長屋があった…。

 晴政はこの三戸城を南部宗家の本拠地に定めると、以降三戸地方を中心に、南の岩手郡、西の鹿角(かづの)郡、北の津軽郡などの領土拡大に奔走するのである。けれど、そんな晴政にも一つだけ悩みがあった。
 というのも、晴政には娘がいたが、後継ぎとなる男児がいなかったからである。そこで晴政はやむなく、叔父高信の子信直と長女を結婚させ(もう一度最初に掲載した系図参照)自分の後継者に指名したのである。長女の婿となった信直は、のちに〝南部氏中興の祖〟と称される人物で、政治感覚に優れていたから、将来を託せる若者であった。
 しかし…であった。やがて晴政は若い側室との間に、嫡男彦三郎(晴継)を設けたのである。このあたりは、晩年の秀吉が淀殿との間に、秀頼を誕生させた状況と同じであろう。秀吉同様、わが子可愛さのあまり、この晴継を二十五代目の当主に据えるのだが、これが家中騒乱の火種となり、やがて、武力衝突にまで発展する。しかし、晴政はこの問題を解決できないまま、天正(てんしょう)十年(一五八二)一月に他界、同月二十四日には父の葬儀の帰り道、晴継も謎の死を遂げたのである。十三歳の少年だけに、信直の放った刺客に襲われた、との風聞が流れた。
 その結果、南部家の家老で、剣吉城(けんよしじょう=三戸郡名川町)の城主北信愛(きたのぶちか)、一族で根城城主八戸政栄(まさよし)らの実力者に推された信直が、南部宗家を継ぐことになった。二十六代当主となった彼は、九戸親実(ちかざね)の反徒を討ち、天正十四年(一五八六)に雫石城(そのころは戸沢氏に替わって、斯波氏の所有となっていた)を、天正十六年(一五八八)には、養父晴政が果たせなかった高水寺城を攻略して、斯波氏を滅亡させた。

 だが…、そんな信直の前に、大きく立ちはだかった男がいた。南部氏から津軽地方の経営を任せられている、大浦為信である。為信は着々と実力を貯え、信直の父高信を自害に追いやるなどして(そのことは前にも少し触れた)次々と南部領を掠め取り、独立する動きさえ見せた。天正十七年(一五八九)七月のことである。天下統一を目指す豊臣秀吉は、奥羽の諸大名に対し、小田原の北条氏を伐つべく出陣の大号令を発した。それを受けて翌年(一五九〇)四月上旬、信直は嗣子利直とともに兵千人を率いて、三戸城から小田原へ赴くと、四月下旬、秀吉に謁見した。
 同年七月五日、北条氏を打倒した秀吉は天下統一の仕上げとして、大軍を擁して会津黒川(会津若松)まで駒を進めると、七月二十七日、その途中の宇都宮大森で、
「南部之内七郡(内訳は、糠部、遠野〈とおの〉、久慈、閉伊、鹿角、岩手、志和)之事、大膳大夫(だいぜんだいぶ=信直)可任覚悟事(まかせべくかくごのこと)」
 と記す領土安堵(あんど)の朱印状を信直に与えた。慎んでそれを拝領した信直は、中を一読して自分の眼を疑った。なぜならそこには、長い間南部一族の支配領域であった津軽の名が消えていたからである。実は大浦為信はその年の三月に、信直より早く小田原へ向かうと、秀吉に津軽の独立を認めさせていたのである。そのことは為信の家臣が記した覚書きに、
「津軽安堵の趣(おもむき)仰出(おおせいだされ)御帰国遊ばされ候(そうろう)」
 そうあることからも読み取れる。
—しまった!あの男に出し抜かれた!
 この時、信直は自分より四歳ほど若い、為信のしたたかさを痛感したに違いない。とはいえ、それはすでに後の祭であった…。
 やがて、会津黒川に到着した秀吉は、奥羽仕置令を発した。これは、小田原参陣を渋った奥羽諸大名の取り潰し命令であり、その内容も、
「一人も残し置かず、なでぎり(皆殺し)に申し付くべく候」
 という、非常に厳しいものであった。この命令を下すと、秀吉は京へ戻るが、この仕置に不満を持った諸大名は、その年の十月から、東北各地で一揆や反乱を起こした。
 —信直を追い落とすのは今だ!
 この時、そう考えた男がいた。九戸城主九戸政実(まさざね=初代行連から数えて十一代目、十代信仲の嫡男、一番目に掲載した系図参照)である。政実は八年前、南部晴政が没した際に、その後継者として晴継を据えるために暗躍した人物であり、その晴継が謎の死を遂げると、今度は実弟の実親(さねちか=彼は晴継の姉を妻にしている)を南部宗家の当主にすべく画策している。結果的にその企ては、信直の政治力によって失敗に終わったが、機会があれば、
—オレが取って代わってやる!
 そういった野望を胸に秘めた、大浦から津軽と改姓した為信と似た性格の男だったのである。
 天正十九年(一五九一)春、その政実はついに、一族である櫛引氏、久慈氏、七戸氏らを誘って兵を挙げたのである。江戸時代に書かれた『南部根元(こんげん)記』にも、
「天正十九年三月十三日、政実が九戸城の近くの一戸城、争法寺城、斗米館(とまいやかた=青森県二戸市)を攻撃したことをもって、乱の始まりなり」
 そう書かれている。事態を知った信直は、必死になって防戦に努めるのだが、敵の勢力は予想以上に強く、自力だけではとても押さえ切れないと判断し、嫡男利直と懐刀(ふところがたな)の北信愛を上洛させ、秀吉に援軍を求めたのである。
「信直に楯突くことは、それを承認したこの豊臣政権への反逆」
 そう判断した秀吉は、同年八月、甥の秀次(秀吉の姉ともの子)を総大将に任じ、兵六万を与えて反乱軍制圧に向かわせたのである。その頃の様子を、秀次に従軍した浅野長政(彼の妻は、秀吉の正室おねの妹)はこう書き記している。
「去る朔日(さくじつ=九月一日)あなたい(姉帯城=岩手県二戸郡一戸町にあって、政実の一族姉帯兼興〈かねおき〉が立て籠った)ねそり(根反城=同)と申す城二ケ所、直懸(ひたがかり)に責め崩し申し候、これより端城(はしろ=枝城)ども開き退き、九戸へたて籠り候のところを、去る二日より執(と)り巻き」

nanbu-3 この九戸政実の乱の舞台となった九戸城を、私は一度訪れたことがある。まず、3番目に掲載した写真でも解るように、この城は白鳥川、馬淵川、猫渕川三本の川に囲まれた台地上にあり、馬場、松丸、三の丸、石沢館、若狭館、二の丸、本丸から構成されている。大手から二の丸に通じる橋の両側には、4番目に掲載した写真のような空堀が設けられており、その城を征討軍は包囲したのである。とはいえこの征討軍には、蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政、井伊直政、津軽為信といった個性の強い武将が何人もいたので、中々統制が取れず、その上この時、征討軍は城内よりも先に、兵糧難に陥っていたのである。そこで攻め手側は、一計を案じ、
「城を明け渡せば、一族、城兵の命は助けるから、政実殿は上洛して太閤殿下に実情を訴えられよ」
 との使者を放ったのである。この時、政実とともに城に籠っていた実親は、
「兄上、これは敵の策略ですぞ」
nanbu-4 そう進言したのだが、すでに、味方の兵糧が乏しくなっていることを知っている政実は九月四日、ついに降伏を決意した。
 その日、九戸政実ら重臣たちは剃髪して城門を開くが、実親が予言した通り、これは敵の謀略であった。あっという間に政実らを捕縛すると、鉄砲、弓矢、さらに毒矢を使って猛攻を加え、城に残る城兵たちだけでなく、難を避けて城に逃れた婦女子まで、二の丸に追い込んで火をかけたのである。まさに、
「なでぎりに申し付くべき候」
nanbu-5 その条文の実践であった…。

 5番目に掲載した写真は、大虐殺が行われた二の丸から本丸(奥に見えるのがそれだ)を撮影したものだが、カメラを構えた瞬間、ぞっと鳥肌が立ったことを今でも鮮明に覚えている。こうして九戸政実(彼は九月二十日三迫〈さんのはさま=宮城県栗原市〉に送られて斬首となった)の乱は鎮圧された。
 乱後、浅野長政は信直に対し、
「伊達(そのころの伊達氏の頭領は、あの独眼竜政宗である)の押さえとして、これからは不来方(こずかた)を南部の拠点としたらよろしかろう」
 そう助言したと伝わっている。それを受けて信直は、新たな城を築くのだが、その場所は、北上川、中津川、雫石川の三河川が自然の流れにまかせて蛇行と氾濫を繰り返して作られた湿地、沼などが集中する地帯にあった。それは不来方、その名前の由来を知れば納得出来る。アイヌ語のコチ(川の跡)カタ(川のほとり)から来ているからである。つまり、住むことが難しい、不毛の地を連想させる。それでも信直がその地を選択した理由として、盛岡市在住の高橋清明(せいめい)氏は、その著書『南部史考』の中で、

一. 南部領が秀吉の本領安堵によって、以前より南に大きくシフトしたため、三戸に居城を置いたままでは領内の中心が北に傾き過ぎ、南の押さえが手薄となる。
二. 南部領の居城を置くには、三戸は手狭であり、将来の城下町としての発展が望めない。
三. 三戸城は小高い山の上に造られた山城であるが、不来方の地は、広々とした平野が開けている

 その三点を上げているが、私もそれを考慮したした結果の信直の選択だったと感じている。戦闘用の山城から、政治、経済、文化の中心地となりうる平城へ、時代の推移とともに、城の造営も変化して行くからである…。
 こうして、慶長(けいちょう)二年(一五九七)三月六日に鍬入(くわいれ)初めが行われ、信直は総奉行に利直を任じて、翌年(一五九八)から本格的な建設が進められたと考えられる。というのも、当時京にいた信直が、娘の八戸千代子に宛てた書状(三月二十一日付)が残っていて、そこには
「利家(前田)さま、われら御ふしん(普請)の御朱印御(おん)とりなし候、昨日としいへ(利家)へ参候(まいりそうら)へば、今明日中に御朱印御取有(とりあ)るべくと仰付けられ候」
 と書かれているからである。

yohaku 工事は本丸、二の丸、三の丸の順番で地山を切下げて整地を行うと、巨石を砕いて運び、石垣に使用した。掲載した二枚の写真の映像は今も残るその石垣群(写真6は本丸東にある石垣、写真7は堀切り道〈本丸と二の丸の中間にあり、廊下橋が架けられてある〉に築かれた石垣)を写したものだが、このような見事な石垣を積み上げられたのも、城地が岩盤であるために石材(石質は加工しやすい花崗岩=かこうがん)の調達が他の東北の城々より比較的楽だったからだといわれている。
 やがて城は利直の代となった慶長(けいちょう)八年(一六〇三、信直は四年前の十月五日に没)一応の竣工となり、同十四年(一六〇九)城下の町割りもほぼ完成された。同時に城の名前も不来方では縁起が悪いという理由で、
nanbu-7「この地が盛り上がり栄える岡になりますように」
 との利直の願いから、盛岡と改名されたのである。
 また本丸には8番目に掲載した写真のような三重櫓(天守)がそびえていたのだが、寛永(かんえい)十三年(一六三六)に落雷によって焼失してしまう運命にあった。
 けれど、重臣たちが、
「先年焼失した三重櫓を元の如(ごと)く再建したい」
 と何度か幕府に働きかけた末に、重信の治世下である(彼は利直の後を継いだ嫡男重直が嗣子を定めないまま没してしまったので、幕府の裁量によって、兄に替わって当主となった)延宝(えんぽう)元年(一六七三)に普請許可がおり、同四年(一六七六)十一月八日に再建となった。

nanbu-8  8番目に掲載した写真は、あるいは二度目に築いた天守を描いた絵かも知れない。いずれにしろ、石落(いしおとし)をともなう切妻破風の張り出しが初層を飾り、二層目に唐破風、三層目に華頭窓を施し、そして、屋根は赤瓦で葺(ふ)いたと言う華麗なこの建造物は、明治七年(一八七四)に解体されるまで、南部一族、さらには城下町で日々の暮らしを営む庶民たちの心の支えとして、長く存在しつづけたのである。
 ふー。この話を書き終えて一息つくと、再度、風鈴にぶらさがっている舌(短冊)が風にそよいだ。物悲しいような、それでいて、どこか大きさを感じさせてくれる、みちのくの音色である。そんな北の大地が私はたまらなく好きなのである…。

【参考文献】
・歴史研究 六一一号 歴史研究会発行
・南部史考 高橋清明著 盛岡歴史研究所発刊
・名城と合戦の日本史 小和田哲男著 新潮社発刊
・日本城紀行 斎藤秀夫著 鳥影社発刊
・城門を潜って 斎藤秀夫著 鳥影社発刊
・日本城郭大系 青森・岩手・秋田編 新人物往来社発刊
・日本の城 小学館発刊
・探訪日本の城 小学館発刊
・名城の天守総覧 西ケ谷恭弘監修 学習研究社発刊
・戦国時代人物事典 学研パブリッシング発刊
・戦国人名事典 新人物往来社発刊
・藩史事典 秋田書店発刊
・青森県の地名 平凡社発刊
・岩手県の地名 平凡社発刊
・広辞苑 岩波書店発刊
・東北の地名・岩手 谷川健一監修 木の森発刊

(2020年8月18日17:55配信、8月25日14:50最新版)