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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)
日本には、五節句と呼ばれる年中行事がある。すなわち、人日(じんじつ=七草)上巳(じょうし=ひな祭り)端午、七夕、重陽(ちょうよう=菊花の宴)この五つである。そこで今回、この年中行事について、少し触れてみることにした…。
まず、人日であるが、古代中国の隋(ずい=成立は五八九年)の習わしとして、神を呼び起こす鈴の意味をこめてスズナ(カブ)物事にせり勝つようにとセリ、撫でてけがれを取り除くナズナ(ペンペン草)花と根の白さから清潔さを表わすスズシロ(大根、掲載した最初の絵参照)御行、つまり、仏の身体に見立てたゴギョウ、仏の安座を示すホトケノザ、それに、この植物のように生命力が強く増え栄えますようにとの願いからハコベ、この七種類の野菜を入れた羹(あつもの=熱い吸い物)を、新年初めての朔日(さくじつ=月の見えない日)と望(もち)の日(満月)とのちょうど中間である一月七日に神に供え、無病息災を祈ったのが、その起こりだとされている。果して、いつこの風習が日本に伝わったかは不明だが、『万葉集』にも、
「大夫(ますらお)と思へるものを大刀佩(たちは)きて可尓波(かには)の田居に芹(セリ)そ摘(つ)みける」
現代訳・立派な官史だと思っていたあなたなのに、大刀を腰に着けた公務の服装のままで、可尓波(京都府木津川市山城町、その北に橘諸兄<たちばなのもろえ>の別邸があった)の田で芹を摘んだのですね。
とあることから、かなり古くから行なわれていたと考えられる。だが『枕草子』には、
「七日の日の若菜」
そうあって、平安時代には、宮中行事として七草を汁に入れて食べていたようだが、やがて、七草を粥(かゆ)に入れて食べるようになり、時代の推移とともに、これが一般化された。はるか後年の天正(てんしょう)十八年(一五九〇)の新年を黒川城(現在の会津若松城)で迎えた伊達政宗は、七日の連歌の会で、
「七種(草)を一葉によせて摘む根芹(ネゼリ=セリの異称)」
そう詠んで、宿敵芦名を滅亡させ、仙道(せんどう)七郡(白河、石川、岩瀬、安積=あぜか、安達、信夫、田村)を得た喜びを七草にかけて表現したのである。さらに、江戸時代の風俗考証家喜田川守貞(きたがわもりさだ)著『守貞漫稿(まんこう)』に、
「正月六日、今日を俗に六日年越など云也(いうなり)」
と記されるように、七草の菜を六日の晩に、まな板の上で包丁の背や、すりこ木で叩いて水に浸し、その叩く音に合わせて、子供たちが♪七草ナズナ、唐土(とうど=中国)の鳥が、日本の土地へ、渡らぬ先に〜♪などとはやしながら粥に入れて食べたのだという。その情景を眺めたのであろうか、小林一茶は、
「七草を打ってそれから寝役かな」
そう吟じているのである。
この人日の次に来るのが上巳の節句だが、古代中国には、脱皮することによって一回り大きく成長するヘビの生命力にあやかろうと、旧暦の三月最初の巳(み=ヘビ)の日に、人々は水で口、手、足を洗い、撫(な)でもの(紙を人形<ひとがた>にしたもの)にふうっと息を吹きかけてけがれを移し、川や海へ流したのである。やがて上巳は三月三日に固定され、日本に渡ってからは、安産や子援け、さらには女性の病気を直すとされる和歌山市にある少彦名神(すくなびこなのかみ)を祀った淡島(あわしま)神社のもとへ無事着きますようにとの願いから、中国の風習が受け継がれたのである。そのため、当初はごく質素な、2番目に掲載した絵のような立ちびなや坐りびなを流す程度のものであったが、江戸時代になって、徳川家康の孫娘で、御水尾(ごみずお)天皇の中宮(妻)となった東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)が、娘の興子(おきこ)のために、ひな壇に鎮座する飾りびなを作らせ、十七世紀後半の徳川五代将軍綱吉の時代(いわゆる元禄時代)に、この様式が武家社会でもてはやされるようになり、明治以降に、広く庶民の家々でも、ひな人形を豪華に飾るようになったのである。ところで、このひな祭りには、3番目に掲載した絵のような桃の花が添えられるが、この植物には邪気を払う力があるとされ、その上、この花の持つ雰囲気が、いかにも春を感じさせてくれるので、広く用いられるようになった。さらに、この行事に欠かせないのが、4番目に掲載した絵のようなひし餅であろう。
この菓子は、解毒作用のあるくちなしで染め、厄除けの意味と桃の花を表した赤い餅、清らかな雪を表した白い餅、造血効果のあるヨモギを用い、若さの代名詞と呼んでいい新緑をイメージさせたヨモギ餅、この三色によって構成されている。さらに、人間にとって最も大切な臓器である心臓になぞって、ひし形としたのである。また、なぜひしの実の粉を餅の原料にしたかというと、昔、天竺(てんじく=今のインド)では、たびたび氾濫を繰り返す、大河に手を焼いた村人たちが、その川に住む竜神の怒りを鎮めるため、女の子を生贄にした。しかしそのうち、それでは女の子があまりにも可哀想だということになって、女の子に替わって、子供の味がするとされるひしの実を川に捧げたところ、氾濫は収まり、以後、これが習慣となった。さらに、ひな祭にははまぐりの吸い物も付き物だが、これは、二つに分けたはまぐりの殻は、他の貝殻とは決して合わないことから、年ごろとなったわが娘が、どうぞ良い男性と巡り合い、生涯添い遂げられますようにとの思いから、娘に食べさせるようになったのだという。
この行事の次に来るのが、端午の節句である。そもそも、この端午の節句は、旧暦五月初めの午(うま)の日を意味し、午が五とも発音出来ることから、その五が重なる五月五日と定められたのである。そして、古くからこの時期には、人々の食料のもととなる田植えを行うが、それに先立ち、主役を務める早乙女(さおとめ)たちは、五月四日、菖蒲(しょうぶ)を屋根に葺(ふ)き、田の神以外の者の侵入を防ぐ部屋に籠って、五月忌(さつきいみ=早乙女のさ、五月のさは稲の霊力にあやかった言葉)を行い、
「どうぞ今年も、稲がよく育ちますように」
そう願ったのである。今でも菖蒲湯に入るのは、その時の一つの名残であろう。この植物は匂いが強く、ヘビや虫をよせつけない上に、その根は漢方で万根を癒(いや)すとされ、葉根にアザロン、オイゲノールという精油成分を含んでいるので、保温効果や、血行促進にも役立つ。そのため、田植えで痛み、疲れた女性たちの体を回復させるには、もってこいだったのである…。このように過去をさかのぼれば、もともとはこの端午の節句は、むしろ女性たちの行事だったのである。ところが、平安時代に至り、天覧による騎射(馬に乗って矢を射〈い〉る)と走馬が、続いて、鎌倉時代に入って、野馬の乗鞍、巻狩りといった軍事訓練や、流鏑馬(やぶさめ)が盛んに行われうようになり、加えて、菖蒲が尚武(武事、軍事を重んじること)や勝負に通じることから、端午の節句には、武士の家で宴が開かれ、部屋に鎧(よろい)や武者人形が飾られるようになった。さらに、中国の黄河には竜門と呼ばれた急流があり、この急流を越せる魚は、鯉、中でも生きの良い鯉のみであった。そして、この難所を突破した鯉はやがて竜になるという〝登竜門〟の故事に習って、わが子もこの鯉のようなたくましい人物に育って欲しいとの気持ちから、鯉のぼりを、掲げるようになったのだという。そのことは、天保(てんぽう)九年(一八三八)に発刊された『東都歳事記』の中に、
「紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟(のぼり)と共に立る事、是(これ)も近世のならはし也」
そう記されている事からも確認出来る。また、茅巻をこの日食べるのも、一つの伝説から来ているのである…。古代中国の楚(そ)に、屈原(くつげん=前三三二〜二九五)という人物がいた。彼は楚の王族の生まれで、王の側近として活躍する有能な男であったのだが、かえってそれが人々に妬まれ、放浪の身となり、楚国が秦国に滅ぼされると湘江(しょうこう)のほとりをさまよった末に、汨羅江(ぺきらこう=中国湖南省東部の大河)に投身自殺してしまったのである。彼を慕う人々は、その霊を慰めようと、供え物を川に投げ込んでいたが、ある夜、彼の姉の夢に屈原が現われ、
「供え物は邪気を払う葉に包んで欲しい」
そう告げたという。そこで姉は、餅米のご飯を茅(かや=茅〈ち〉巻の由来はここから来ている)の葉で包んで汨羅江に投げ込むようにした。そして、屈原の命日が五月五日であったことから、この日、茅巻を食べるようになったのである。
そういえば日本でも、この食材にちなんだ、ある武将の逸話が残されている。天正十年(一五八二)五月二十七日、主君織田信長に謀反を起こすべきか否か、心に迷いを抱く明智光秀は、京都市北西部、上嵯峨北部にある標高九二四メートルの愛宕山に登り、愛宕神社に参籠したのち、威徳院西ノ坊で連歌の会を催すが、その発句(ほっく=始めの句、最後の句が挙句〈あげく〉となる)の出だしが、なかなか浮かばないでいた。その時、光秀は無意識に茶菓子をとして出されていた5番目に掲載した絵のように盆に盛られた茅巻に手を伸ばし、くるんである葉を取らずに、そのまま口に運んでしまったのである。いつもは非常に礼儀正しい光秀が、まるで作法などまったく知らない村の悪童たちがやりそうな行動を示したのだから、京から招かれていた連歌師里村紹巴(さとむらじょうは)は、思わず目を見張り、他の人に気づかれないようにして、光秀の袖をそっと引いた。ハッと我に返った光秀は、かすかに苦笑し、やっと筆を走らせたのである。この時、短冊に記したのがあの有名な、
「時は今、雨が下しる五月かな」
であった…。無論、このエピソードが、本当にあったのか否かは定かではないが、要するに戦国時代までは端午の節句に茅巻を食べる習慣があったということになる。では、茅巻に替わって米の粉をこねて平らにし、中に餡を入れて編笠(あみがさ)の形にして、それを柏の葉で包んで蒸す柏餅(6番目に掲載した絵参照)は、いつ頃から登場するようになったかというと、徳川家康が豊臣秀吉から関八州をもらった頃に書かれた『天正日記』に、
「天正十八年(一五九〇)七月二十三日、五郎兵衛かか(妻の意か)柏もち呉れる」とあるので、そのころから食されるようになり、それが武家の間で広まって行ったと考えられる。その理由は、この菓子に使われる柏の葉は、冬になっても葉が枯れず、しかも落葉することなく冬を越して新芽を出すので、何より家系が絶えることを恐れる武士たちには好まれたのである。その反面、天保(てんぽう)六年(一八三六)に書かれた『鹿児島ぶり』には、
「五月節句、柏餅なし、巻といいて茅巻を喰ふ」
とあり、また、安政(あんせい)三年(一八五六)に出された『浪華の風』にも、「柏餅を製するは稀(まれ)なり。すべて茅巻を用ゆ」
そうあるので、関東以西はまだあまり、普及していなかったと言えるであろう…。
五節句の中で、一番ロマンを感じさせてくれるのは、それは七夕であろうが、これの起こりもまた、古代中国にあった。空を支配する天帝に、織姫(おりひめ)という娘がいた。彼女は機織(はたお)りが上手で、毎日脇目もふらず錦を織り続けていた。一方、あの俳聖松尾芭蕉が、
「荒海や佐渡によこたふ天河」
そう吟じた天の川の東には、牽牛という働き者の牛飼いが住んでおり、わが娘もそろそろいい年ごろである。それに気付いた天帝は、二人を結婚させることにした。こうして二人は、愛に満ちた日々を送るようになるのだが、その甘い生活に溺れて、あんなに働き者だった二人が、すっかり怠け者になっていた。これを知って天帝は激怒し、無理矢理二人を離別させてしまったのである。しかし、あまりにも織姫が悲しむので、さすがに不憫に思った天帝は、毎年七月七日の一日だけ、天の川にかささぎの群れで橋を架けさせ、それを渡って、娘を牽牛に会えるようにしたのである。この伝説を日本に普及させたのは、山上憶良(やまのうえおくら)で、彼は遣唐使の一員として唐へ渡り、帰国(七〇七年頃)した後、七夕の歌十二首を詠み、貴族社会に紹介した。そして、それが少しずつ広まり、やがて平安時代に編集された『古今和歌集』の中でも、
「久方の天の河のわたしもり 君渡りなば楫(かじ)かくしてよ」
現代訳・船頭さん、彦星が渡ってしまったら梶をかくし、もう帰られなくしたらどうか。
そう詠まれるようになるのである。またこの日、日本ではそーめんを食べるという風習も、古代中国の故事に由来する。帝嚳高辛(ていこくこうしん=中国五帝の一人)の幼子が七月七日に死に、その霊が鬼神となっておこり(マラリア)を流行させた。そこで、幼子が生前好きであった索餅(さくぺい=小麦と米粉に塩を混ぜ、練って紐状にしたものを二本、縄をなうように編、蒸すあるいは茹〈ゆ〉でたもの。麦縄〈むぎなわ〉とも呼ばれた)を供えて慰めたところ、病の流行がピタリと収まり、同時に日本の宮中でも、索餅が献じられる習慣があったので、七夕の日に、この食材が用いられるようになった。それが、そーめんと入れ替わるのは江戸時代になってからで、細いそーめんを織姫が機織に使用した糸に見立てたからだと伝わっている。また、古代中国には七夕の朝、里芋の葉に降りた露で墨をすり、神に捧げる聖なる植物とされる梶の葉に歌を書いて字の上達を願う習わしがあり、その後、梶の仲間である楮(こうぞ)を使った紙が発明されると、その紙を手ごろな大きさに揃え
(これが短冊の起こりであろう)そこに文字を記して笹竹に結び、天に向かってまっすぐに伸びるこの植物のように、願い事がまっすぐ天に届きますようにとの思いから、短冊を結びつけた笹竹を、軒下に立てかけたのである。やがて、もう少し賑やかな方がいいということで、7番目に掲載した絵のような飾り物を笹の葉に吊るしたのである。先に紹介した『東都歳事記』にも、
「七月六日今朝未明より、毎家屋上に短冊竹を立てる事繁く、市中には工を尽くしていろいろの作り物をこしらへ、竹とともに高く出して、人の見ものとする事、近年のならはし也」
そう綴られている。また、短冊には、緑、赤、黄、白、黒(または紫)この五色が使われるが、これはそれぞれ、木=春、火=夏、土=中央、金=秋、水=冬を表しているのである。そして、七夕と言えば仙台が有名だが、今のように盛んになったのは、あの万事派手好きの独眼竜政宗が、奨励したからだと言われている…。
さて、五節句の最後となるのが、九月九日当地に足を踏み入れた芭蕉が、
「菊の香や奈良には古き仏たち」
そう詠んだ重陽の節句である。正直な話、この年中行事について、いろいろ文献を調べてみるまでは、私はこの重陽の節句については、何も知らなかった
と言ってよい。けれど、九月九日に行われるこの行事こそ、最も重要な催し物であったことに気づかされたのである。そもそもこの九という数字は、1桁の数字の中では最大のものであり、陽を象徴する最も尊い数とされている。となれば、その九が重なる九月九日こそ、重九(ちょうく=長久)に通じる目出度い日であり、五節句の中で唯一〝陽〟の文字が使われる要因となった。同時に、この日は御九日(おくんち)とも呼ばれ、これが九州の福岡、唐津、長崎の各地で行われるおくんち祭りの原点になっているのである。
そのため、日本の宮中では、この日、重陽の宴が開かれ、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びら(古代の中国では、8番目に掲載した絵のような菊は、梅、竹、蘭とともに四君子と呼ばれ、霊力が強く、生命力が宿っているとして称讃されている)を焼酎に漬け込んだ菊酒を飲み、無病息災や長寿を願ったのである。室町幕府の『年中恒例記』には、
「九月八日、今夕菊を御庭に植え申す也。今夜菊に五色の綿をきせらるる也」
とあるように、貴族社会には重陽の日の前の晩に、菊のつぼみに綿をかぶせ、菊の露と香りを綿に移して、次の日、その綿で肌をなでれば、若さを保ち、長生きが出来るというしきたりがあった。しかしながら、なぜそんなにも大切な重陽の節句が、今の人たちには馴染みの薄いものになってしまったかというと、それは、旧暦の九月九日の頃に、ちょうど菊の開花時期を迎えていたが、新暦に切り替り、菊の花がまだ十分に咲かないうちに、この重陽の節句を迎えてしまう、つまり、使用される暦が、当時のものと異なるのが、その原因ではないかと考えられている。さらに、民俗学者の柳田国男は、もう一つの理由として、稲の収穫を控えるこの秋口は、忌み慎んで暮らすケ(よそいきでない、ふだん)の時期に当たっており、晴の時期(ふだん着と晴着その言葉の違いを連想すれば、一段と解りやすいであろう)とを区分する意味を含めて貴族社会以外の一般庶民の間では、重陽の節句が盛んにならなかった理由であろうと、述べるのである。そういえば、七草、ひな祭り、端午の節句、七夕のように、この行事には元気な子供たちがほとんど姿を見せない。そのことが一段と、重陽の節句は高貴ではあっても、大衆性の乏しいものにしているもう一つの要因かもしれない…。
いずれにしろ、五節句を知ることは、我々日本人にとって、決して無意味な作業とは言えまい。そう考えて、ちょっと、これらの行事に触れてみたというわけである。
最後に、この作品に使用した八枚の絵は、私がお願いして、知人の細井ミツ子さんに全て描いてもらったものである。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたい。
(2020年9月30日10:30配信)