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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)
『広辞苑』を調べてみると、
「玩具=子供のもてあそぶもの、娯楽を助け、また活動を誘導するのに役立つもの、おもちゃ」
とあった。確かに、子供が成長する過程において、玩具はなくてはならない存在であろうし、日本各地にはそれぞれの地域の特色を生かした、いくつもの郷土玩具が残されている。そこで、今回、山形県、中でも庄内地方と米沢には、どんな玩具があるのか、そのあたりを、少し調べてみることにした…。
まず、庄内地方には、酒田の獅子頭というのがある。これは、一番最初に掲載した絵でも解るように、木製ながら勇壮で、どっしりとした重量感があり、耳の立った黒塗の雄と、耳を伏せた赤塗の雌獅子との二種類がある。その歴史は比較的浅く、『日本郷土玩具』の東の部に、
「明治廿年頃佐藤豊治といふ男の亡父が、酒田近辺の河内(かはうつ=山元一帯の俗称)で、ふと木馬の玩具を買って帰った処、方々で欲しいといふ注文が出たので、試みに模作して売り出したのがそもそもの始まり」
とある。庄内地方では新春や春祭りに悪魔祓いや、五穀豊穣を願う獅子舞が行なわれているので、それをイメージして作り、神社の祭礼の日などで、販売したものと考えられる。また、瓦人形というのが酒田と鶴岡にある。酒田は庄内米や特産品の紅花(キク科の一年草、花冠を採集して染料や紅を作った)で栄えた港町で、北前船(日本海航路に用いられた大型の木造船)で運ばれて来た京都の伏見人形を、瓦を焼く職人が本業の傍らにまねをして作り始めたのが、その起こりだといわれている。そして、風土や日常の暮らしに合わせて、荒削の木肌に、掲載した二番目のように、緑と朱色に特徴がある独特の技法を生みだしたのである。これは、七福神の一人である大黒を表現したものだが、この他には天神、熊金(熊と金太郎の意味であろう)桃太郎、浦島太郎、花咲爺などの種類がある。
これよりもっと愛らしいのが、いづめこ人形であろう(三番目に掲載した絵参照)いづめ(飯詰め)というのは、飯の保温用のわら籠を指し、こは幼児という意味である。シチドウと呼ばれる多年草の茎で編んだ籠の底に、尿や便を吸収するように、灰やわらや籾殻(もみがら)を敷き詰めて、回りには子供が動かないように、ボロ布やフトンなどを巻き、冬期や農繁期の子育として活用された。これをそのまま玩具化し、この人形の他に、羽二重の小布で作った花や鳥、ドングリで作った豆人形、デンデン太鼓などを取付けたのである。同じようなものは、別の地域でも見られ、エジコ、イズミ、イズメ、ツグラなど、さまざまな名前で呼ばれている。
特に、女性の人気が高く、結婚祝い、誕生祝いなどの贈り物としてよく購入されている。もう一つ魅力的なのが、鶴岡の姉様人形であろう。この玩具は押し絵(花鳥、人物などの形を厚紙で製し、これを美しい布でくるみ、中に綿をつめて高低をつけ、板などに貼りつけたもの、羽子板の原型といってよい)と並んで、古くから女の子の遊び道具として愛好されており、四番目に掲載した絵のように、面長の顔に目鼻立ちが整った優雅な表情をしている。髪は棒に巻いて押し縮めたしわのある紙を使い、墨ににわかを溶いたものを塗り固めて艶を出し、三角の紙片で鼻を付けるという製造方法であった。男性の人形と一対になっているのが、この玩具の特徴であるが、恐らくこれは、女の子たちが日常のままごと遊びの友としながらも、自分もやがてはこのような、気品に溢れる女性となり、いいダンナ様が見つかりますようにとの、願いから生じたものであろう…。さらに、鶴岡の御殿まりというのも、女の子たちの格好の遊び道具であった。江戸時代庄内(鶴岡)藩の御殿女中たちが、城勤めの合い間に、手まりを作って楽しんだというのが、その原点になっている。もともとこの遊具は、本居宣長の記した『古事記伝』の中に、
「手まりは、蹴鞠(しゅうきく=昔の貴人の遊び、庭で数人が革沓〈かわぐつ〉をはき、まりを木の下枝より高く蹴り上げることを続け、それを受けて地に落とさないようにするもの。サッカーのリフティングを想像すればよい)より移れること必せり」
とあるように、古くから存在していた。それをうまく生かしたのである。この鶴岡の御殿まりは、直径三センチから十五センチぐらいの大きさで、蛤の貝殻に砂を入れ、これを細かい鋸屑(おかくず)で包み、さらにその上にぜんまい綿でくるみ、五彩の綾糸で廻りを巻いて仕上げたのである。こうすることによって、まりをつくたびに、芯にした砂入りの貝殻は音を発し、また、ぜんまい綿を使用したためよくはずみ、
「ひい、ふう、みい、よう」
と数を唱えながら、女の子たちは楽しく遊んだのである。その後、この御殿まりの上下にリリヤン(人造絹糸を細いヒモのようにした手芸用の糸)の房が取付けられるようになるが(五番目に掲載した絵参照)、これは室内装飾品として、病床などに吊るし、人々の心を癒すために用いられるようになったと想定される。
男の子の喜びそうなのが、六番目に掲載した絵の、鶴岡の板獅子であろう。これも庄内藩の下級武士たちが江戸末期、内職として作った。下駄の切れ端を利用して、考案したものだと伝わっている。下駄作りに使った桐や杉の余材を二枚ほど用意し、約七センチ四方の上板に獅子の顔を彫り、下板を約十七.五センチほどの長さに切って、絵のように握りやすく削り、二枚を重ね合わせた上で、色付けしたものである。雄は黒、雌は赤と、先の獅子頭と同じ配色だが、完成と同時に下板の柄を握って上下に振ると、上板の獅獅子が口を開き、パチパチと音が鳴る。その音が四方に散って、福を招き、魔除けになるというので、神社や仏閣の縁日に縁起物として売られるようになった。
庄内地方に別れを告げ、山形県を貫く大河最上川を遡上して内陸部へ向かうと、上杉氏の城下町米沢へと至る。そして、この地にもいくつか、郷土玩具が存在している。まず、相良人形というのがある。米沢といえば、上杉鷹山公(公を付けないと、地元の人に叱られるので)なくしては語れないであろう…。安永(あんえい)七年(一七七六)鷹山公は領内の産業奨励に着手するが、その一環として、家臣の御膳部頭(ごぜんぶがしら=主君の食事を用意する役職の長)相良清左衛門に命じて、製陶所を設け、人形を作らせたのがその起こりとされている。けれど、なかなかうまくは行かず、さんざん頭を悩ました清左衛門は、相馬(福島県北東部、相馬氏六万石の城下町)に赴いて、そこで焼き方を学び、技術を習得して米沢へ戻ると、生まれ故郷である成島に窯を築き、何度か失敗を重ねた末に、ついに、相良人形を完成させたのである。(⑦番目の絵参照)この人形は、
「伏見七分に堤三分」
などといわれるように、京都の伏見人形の技法と、伊達政宗ゆかりの城下町、宮城県仙台市の堤町で製造されている堤人形(この玩具には、東北特有の憂愁を秘めた彩色の中に、どこか、あか抜けした表情と造形美がある)の影響を受けながら、山形名産の紅花を用いるなどして、独自の作風を完成させたのである。以降、相良家ではこの技術を代々の子孫に伝え、文化、文政(ぶんか、ぶんせい=一八〇四〜三〇)年間には、浮世絵やその他の風俗から取材して、数百の型が考案された。人形のサイズも決して大きいものではなく、せいぜい十五センチ程度のものであったから、持ち運ぶのに便利で、米沢周辺の各地でも、盛んに作られるようになった。中でも、節句人形として作られた土地では"でく"あるいは"ひな"とも呼ばれ、雑貨屋などで販売されたり、近在各地へ行商人が売り歩いたと伝わっている。さらに、相良の友引人形というのもある。友引というのは六曜(ろくよう=日のよしあしを知るための言葉)の中の一つで、この日葬式を行うと、亡くなった人が友を連れて行ってしまうとされている。そのため、友引の日に葬式を出す場合は、友だちの代わりに、故人のひつぎの中に人形を入れたのである。その人形は五センチ程度で、しかも、相良の友引人形は一人ではなく、何人もの子供たちが肩を組み、みな微笑みの表情を浮かべている。つまり、あなたには沢山の友だちがいるので、あの世へ行っても、決して淋しくはないでしょう…、という意味を表現したのである。
鷹山公の残した遺産にはもう一つ、笹野彫りがある。相良人形を相良清左衛門に命じて製作させたほぼ同じ時期、鷹山公は米沢から西南一里(約四キロメートル)ほど離れた山村にある笹野観音堂(大同=だいどう=二年〈八〇七〉に建立された)に古くから伝わる木彫の縁起物に着目し、これを農家の冬の副業として生かそうと考えたのである。本来笹野彫りは、冬期に生花を補うものとして考案されたもので、色を付けた削花を雪中の墓に供えたのである。これは、先住民族のアイヌの間で古くから行なわれている風習で、同時に彼らは"削りかけ様式"という、独自の彫刻技術を持っていた。そこに気付いた鷹山公は、
「我が米沢藩でも、同じようなものが作れないであろうかの」
と、彫刻師たちに相談を持ちかけたのである。その結果生み出されたのが、地元でアブラコと呼ぶコシアブラの丸材を、八番目に掲載した絵のような"サルキリ"という刃物で削る技法であった。それに彩色を施し、さまざまな種類の玩具が生み出されたが、笹野彫りを代表する作品といえば、やはりそれは、九番目に掲載した絵のような"お鷹ぽっぽ"に違いない。大きさは、せいぜい十五センチほどだが、もう一度、絵をよく眺めてみると、アイヌの"削りかけ様式"が取り入れられていることが解るであろう。また、この名が付いたのも、鷹山公の徳を慕い、あやかるようにとの思いから"お鷹ぽっぽ"となった。
もう一つ有名なのが蘇民将来(そみんしょうらい)であろう。この玩具は、中国では災いを追い払ってくれるという桃や柳の木を用い、『備後(びんご=今の広島県東部)風土記』の中に、
「昔、すさのおのみことが道に迷い、その地の富裕な巨旦(こたん)将来には宿を拒まれたが、赤貧の兄蘇民将来が歓待してくれた。そこですさのおのみことは、そのお礼として"もし、村に悪い病気が出たら、あなたと子孫が災いからまぬがれるように"と、茅(かや)で作った輪を与えた。その後、悪い病気が流行するたびに、蘇民はすさのおのみこと子孫と書いた札を門ぐちにかかげて、災いからのがれることができた」
そうある。こうして、この玩具は家内隆昌、疫病除けのお守りとして、毎年一月十七日、笹野千手観音の縁日に、売り出されるようになったのである。同じような蘇民将来は、日本各地にもいくつかあるが、その作り方はどれもいたってシンプルで、十番目に掲載した絵のように、十センチほどの木材を六角形に削り、上部にひさしを設けて塔のようにした上で、それぞれの面に蘇民、将来、子孫、人也(ひとなり)大福、長者の文字を筆で描くだけである。また、米沢地方では緑、黄、赤の線を交配した模様を加え、中央に穴をあけて紙よりを通し、腰に吊るして日々のお守りとしたのである。
以上、庄内地方、さらには米沢の郷土玩具をいくつか紹介してきたが、むろん、これですべてではなく、その他にも興味深い郷土玩具は、存在しているはずである。そこでみなさんも、幼い頃の自分に戻り、それぞれの地域に残る、宝物を探す旅に出かけてみたらどうであろう。いい掘り出し物が見つかるに違いない…。
なお、文中に登場するさし絵であるが、一六八、九、十番目の絵は作者本人が描き、二、三、四、五、七番目の絵は知人の細井さんに描いてもらった。細井さんには、この場を借りて、改めてお礼を述べたい…。
参考資料
・米沢観光ガイドブック 米沢市観光課発刊
・ふるさとの郷土玩具 平凡社発刊
・十二支の郷土玩具 日貿出版社発刊
・郷土資料事典(山形県) 人文社発刊
・国史大辞典 吉川弘文館発刊
・広辞苑 岩波書店発刊
(2021年2月23日17:30配信)