newtitle
 
画像03が表示されない

画像04が表示されない


竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

寄稿 『イザベラ・バードが歩いた米沢街道』斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)



 イギリスの女性旅行作家イザベラ・バード(一八三一〜一九〇四)の書いた『日本奥地紀行』第十八章の中に、こんな記述がある。
「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり(一番目に掲載した写真は、その米沢の町を、愛宕山から写したものである)北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。鋤(すき)で耕したというより鉛筆で描いたように美しく、実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である」
isabella-1 そう彼女が激賞した山形県の米沢から、新潟県の村上、または、新発田へと通じているのが米沢街道である。そこで今回、イザベラ・バードがたどったコースとは反対の方角から、この街道を散策してみることにしよう。
(写真右=愛宕山より望む米沢市街)

 まず、二番目に掲載した絵図を使って話を進めて行くと、出発点となるのが米沢である。十五万石の城下町だから、さほど大きなものではなく、城そのものも、三番目に掲載した写真のように石垣も天守もない(それでも、三階櫓が二基ほどあったというが)ごくごく地味な造りである。そんな城下を北へ向かって進んで行くと、やがて成島町に至る。ここは、米沢街道の出入口に当るため、番所が置かれ、七七七年光仁(こうにん)天皇の命で成島八幡宮が創建されている。代々この地は、大江広元の次男時広が、源頼朝から地頭職(じとうしき)に任じられて以来、長井氏の統治下にあったのだが、『伊達家譜』に、
isabella-2「宗遠(むねとう=伊達氏八代)長井掃部頭道広(かもんのかみみちひろ=時広から数えて六代目)を撃ってその所領出羽国置賜郡長井庄を取り」
 とあるように、伊達氏の支配下となった。そして、代々の伊達氏の当主は、この成島八幡宮に特別の援助を与え、十七代となるあの独眼竜政宗は、仙台に青葉城と城下町を築いた際に、この神社の分霊として大崎八幡宮を建立している。そんな成島町を後にして街道を進んで行くと、上小松宿に入る。
isabella-3「米沢城下へ三里十二丁」
 と『日本街道総覧・五海道中細見記』には書かれており、この地に一泊したイザベラ・バードも、その紀行文の中で、
「小松は美しい環境にある町」
 そう綴っている。
(写真右=旧米沢城の堀)

 伝馬(てんま=荷物や人を運ぶ馬)が三十八頭常備され、坂の上には高札場が設けられていたというから、かなりの賑わいを見せていたに違いない。さらに、犬川右岸には、山本周五郎の名作『樅(もみ)の木は残った』の主人公原田甲斐の祖先である原田氏の築いた原田館跡がある。今は置賜公園となってダリア園として有名だが、伊達家譜代四千石の重臣として、小国と米沢に通じるこの要地に、東西約三五〇メートル、南北約一〇〇メートル、西に本丸、東に二の丸を配する館を構えたことは、さすがといっていいであろう。
「その子孫である原田甲斐は果して逆臣か忠臣か」
 そんなことをあれこれ考えながら前へと歩を運ぶと、まもなく、標高二八〇メートルの諏訪峠となる。十三峠とも呼ばれるこの街道の一番目となる峠で、その名は、小松側にある諏訪神社にちなんだものと伝わっている。その峠を過ぎると、次いて松原宿となるが、このあたりは難路が多く、荷物運送が遅滞しやすかった。そこで、寛文(かんぶん)六年(一六六六)に、篤志家の奔走により新たに設けられた宿であった。その先の白川に架かる三十二間ほどの白川橋を渡ると、手の子宿に至るが、『伊達天正日記』天正(てんしょう)十六年(一五八八)九月二十三日の条に、
「当地より若鷹が伊達政宗のもとに届けられた」
 とある。政宗は鷹狩が好きであったから、近くの林で捕獲した精悍そうな若い鷹を、そのころの米沢城主政宗に、献上したものと思われる。そして、その先に待ち受けているのが、十三峠のうちで最も険しい標高四九一メートル、特に東側が急勾配になっている宇津峠である。そのため、江戸から明治にかけて、何度もルート変更が行なわれている。その反面、この宇津峠からの眺めは、
「日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下すことができて、嬉しかった」
 そうイザベラ・バードが述懐したほどの光景でもあったのである。こうして、最大の難所を何とか越えた旅人たちが、新たに向かうのが、大久保峠である。峠に大きなくぼみがあることから大久保と名付けられた峠で、宇津峠ほどは険しくはないが、それでも三七〇メートルの標高があるので、一難去ってまた一難その思いは、ぬぐえなかったであろうが、その峠の近くには、たすけ茶屋があったから、それを見て旅人たちは、あーやれやれ、誰もが、そんな感想を抱いたに違いない。果してその茶店では、何を名物として売っていたかは不明だが、乾いた喉をうるおし、団子などを食しながら、しばし、至福の時を過ごしたものと思われる。とはいえ、旅はまだまだこれからである。一休みした旅人たちは、気を振い立たせるように腰を上げ、たすけ茶屋を後にして、沼沢宿を過ぎ、標高三一六メートルの才ノ頭峠を目指すことになる。そこは小さな峠なので楽に進むことが出来、すぐに白子沢宿が近づいて来る。だが、その前方には今度は長い距離を歩くことになる桜峠が待っている。そのため、再び呼吸が激しくなるが、
「そこから眺める景色は美しい」
 とイザベラ・バードが紀行文にそう記すほどであり、次の市野々宿に入った時には、
「この宿は素敵で勤勉な部落である」
 ともあるので、案外その間の道のりは、疲れを感じることは少なかったかも知れない。
 さて、そこを過ぎると、十三峠の中で最大の観光スポットと呼んでいい、黒沢峠の敷石が見えて来る。現在そこは『歴史の道百選』の一つに選ばれており、『米沢日報デジタル』社長成澤礼夫氏が送ってくれたパンフレットによると、
「幅約五〇センチ、長さ一.五メートルの苔むした敷石(四番目に掲載した写真参照)が頂上に向かって約三六〇〇段、ブナ林の中を続く」
 とあった。例のイザベラ・バードも、
isabella-4「何百というごつごつした石の階段を上ったり降りたりする」
 そう紀行文に書き残している。
(写真左=写真提供 十三峠交流会事務局)

 その名所を過ぎると、そこが黒沢宿で、
「常に伝馬十頭が用意され、馬の背に乗って峠を行き来する人もかなりの人数に及んだ」
 と『要情秘録』にはあるので、馬継所として、なかなかの賑わいを見せていたに違いなく、やはりそのころから、敷石を見学に来る観光客が多かったことが読み取れる。この黒沢宿を通過して先へと向かうと、標高一七五メートルと歩行が比較的楽な貝淵峠で、その先となるのが種沢宿で、古くは横川対岸の芹出村との間に渡しがあったのだが、増水時にたびたび川止め(渡航禁止)の処置が取られたため、二番目に掲載した絵図のように、次の高鼻峠から小国宿に通じる道筋に変更となった。
 その小国宿は、置賜地方から越後方面へ抜ける交通の要衡となる地点にあり、小国盆地を一望出来る横川左岸の段丘上には、小国城があった。伊達氏九代政宗(あの独眼竜と称された十七代政宗は、伊達中興の祖といわれたこの政宗にあやかるようにと、命名された)の代に、家臣に命じて造営された城といわれているが、確証はなく、伊達氏に替わって上杉氏が統治する時代になって、横川が大きく蛇行する曲流部に、百九十坪の敷地を改修して、土手と堀で囲んだという。小国宿を後にして旅を続けると、標高三九八メートルの朴(ほお)の木峠、標高二七八メートルの萱(かや)野峠となり、まもなく、玉川橋が近づいて来る。十七間ほどあるこの橋は木材と藤蔓(ふじづる)などを用いて建設されたといわれ、今でも橋脚跡が見られるのである。とんち話の一休さんではないが、その橋の真中を歩いて行くと、今度は玉川宿となる。この宿は、米沢藩の最西端に位置していて、次の大里峠(ここが出羽国と越後国との境となる)を過ぎると、二番目に掲載した絵図のように、赤マークで示した小渡(おど)村へと向かい、急峻な山々を越えて、同じく赤マークの金丸村、八口村、聞出(ききいで)村方貝村を経て、沼村へと続く道のりであったが、聞出村〜片貝村間は小舟で通行するほかなく、その上、増水時には渡船不可能となってしまうのである。そこで大永(だいえい)元年(一五二一)になって、伊達氏十四代稙宗(たねむね=独眼竜政宗のそ祖父)の時代になって、小国宿からこの大里峠を使って、沼へと通じる道が開削されたのである。その理由は明確には解っていないのだが、この稙宗の生母が、越後の守護上杉定実(さだざね)の娘であり、その定実に嫡男がいなかったことに目を付けた稙宗が、自分の三男実元(さねもと)をその養子にすべく画策し、仲介の労を取ったのが、上杉氏の重臣で、鳥坂(とっさか)城(新潟県北蒲原郡中条町)を預かる、中条藤資(ふじすけ)であった。けれど、越後国衆たちの猛反発に会い、一転して藤資は、彼らに攻められる結果となってしまった…。そこで稙宗は、この藤資の救援に向かうことにするのだが、それには迅速に軍を動かす必要がある。そこで稙宗は、新たな道筋の造営に着手した。つまり、越後の上杉謙信と戦うべく、甲斐の武田信玄が、八ヶ岳の西麓を南北に走る軍用道路、棒道を完備させたのと同じ理由であったと、私は解釈している。そしてその結果、新たなこのルートは、旅人たちにとっても、大変有難い存在となったのである。続いて、イザベラ・バードが、その紀行文の中で、
「森林が立ちふさいでいる峡谷によって、深い割れ目が作られていた」
 そう描写した標高一八七メートルの榎峠(この峠では慶応〈けいおう〉四年〈一八六八〉八月十二日に、米沢藩と新政府軍とが、激しい戦いを展開している)を通って、大内淵村に入る。この村は荒川の左岸台地上にあり、文禄(ぶんろく=一五九二〜九六)頃に描かれた『瀬波郡絵図』には、
「境目故(ゆえ)諸役なく峠也(なり)」
 そう記されている。そこを過ぎると、標高一五五メートルの鷹巣峠となり、やがて、上関宿に着く。この地には鎌倉時代から桂関が置かれ、それを受け継ぐ形で、慶長(けいちょう)三年(一五九八)村上頼勝の村上入封後に、番所が設けられている。橙マークで示した対岸の湯沢村とを結ぶ渡しもあって、享和(きょうわ)三年(一八〇三)の『家数人別差引増減書上帳』の中に、
「渡守一軒、八人であった」
 との記載が見える。その事はこの宿が、荒川舟運の拠点であることの、一つの証明となろう。さらには、下関村、打上村を経て大島宿となる。同時に、この近辺で十三峠という呼び方も終りとなり、米沢街道はこの大島宿の先から、村上方面と新発田方面へ向かうルートに分岐することになる…。   
isabella-5 そこで今度は、別の絵図を使って、二つの道筋を歩いてみよう…。まず、五番目に掲載した絵図に沿って、村上城下を目指すと、大島宿から貝付宿へ行き、狭(せば)の渡しと呼ばれる航路で、荒川の対岸にある小岩内村へと進む。米沢から村上へと向かうには、この道筋が最良で、あの西行も養和(ようわ)元年(一一八一)にこの地を訪れ、
「越路なる狭の渡しの朝嵐(あさあらし=夏の朝方、山手から吹く快い風)昨日も吹くか今日も吹くらし」
 そう詠んで、渡守に金の地蔵菩薩像を渡したという。そのため、荒川の左岸には、その西行の歌を刻んだ記念碑が建てられている。山形県の標高一八七一メートルの大朝日岳を源とする全長七三キロメートルの大河荒川を左手に見ながら、さらに両足に力を加えると興屋村となり、まもなく、平林宿に入る。この宿は、米沢街道のほかに、会津街道の起点となる要衝の地に当たっているため、宿の東方にある標高二八七
メートルの要害山には、鎌倉時代からこのあたりを支配する、色部氏が築いた平林城があった。色部氏は為景—謙信—景勝と、三代続く上杉政権下にあって、陰然たる力を持つ、越後国屈指の豪族である。城は、舌状に突き出た比高約一〇メートルの段丘を利用し、その広さは南北約二〇〇メートル、東西約三〇〇メートルで、平野に面する西側を大手として、三つの郭に分かれた構成になっていた。この平林宿の先にあるのが宿田(やすだ)村で、この村は、四囲を川に囲まれた中洲にあり、平林宿側、牧目(まさのめ)村側にはそれぞれ橋が架けられてあった。さらに、その牧目村を通過して北へと向かうと、九日市村、今宿村、高御堂村、下助淵(しもすけぶち)村へ至る。この村は先に紹介した『瀬波郡絵図』には、
「村上より下助淵へ十五里、家十九軒」
 とある。そして志田平村、七湊(ななみなと)村を経て、いよいよ、村上に入るのだが、この城下からおよそ一二〜一三キロメートル西南に行った日本海沿岸に、掲載した五番目の絵図の黄マークで示した岩船町があり、その地は『日本書紀』の大化(たいか)四年(六四八)の条に、
「此歳(このとし)磐舟柵を治(つくり)て蝦夷(エミシ=狩猟を生業とする、都から遠く離れた地域に暮らす人々)に備ふ」
 とあって、歴史的に大変重要な意味を持つ軍事施設があった場所なのである。さらに同書の斉明(さいめい)天皇四年(六五八)夏四月の条に、
「阿陪比羅夫(ひらふ)船師(軍船)百八十艘を率いて、蝦夷を伐つ」
isabella-6 そう書かれているが、その軍船の停泊した場所が、岩船町の東方にある岩船潟ではないかといわれている。
(写真左=磐船柵跡:新潟県村上市)

 発掘調査を行なった際には、残念ながら、それを裏付ける直接の資料は見つからなかったのだが、文武(もんむ)二年(六九八)と翌年(六九九)の二回、磐舟(岩船)柵が修理されたことが古文書の中に残されていること、また、太古には磐舟の東側には荒川を始めとしてさまざまな川が集まって出来た大きな入江があったこと、それらから考えて、やはり岩船潟から比羅夫は、軍船を率いて蝦夷征伐に向かった可能性が高いと、私は観ている。
isabella-7 現在村上市内には六番目に掲載した写真のような磐舟柵跡の記念碑が建てられている…。さらに、岩船近辺で捕獲された魚を加工したり、岩船塩と呼ばれる良質の塩などを陸路を使ってこれも絵図の緑マークで示した塩谷まで運び、日本海に面した塩谷湊で、茶、干鰯、木綿などの塩谷の特産品と一緒に船に積み替え、荒川から東へ進んで、前にも触れた大島宿でもう一度陸揚された荷は、十三峠を越えて小国、さらには米沢城下まで、のべ四日間をかけ搬送された。同時に帰りの船には、米沢藩小国領の米や、置賜地方で産出する青苧(あおそ)ろう、漆などを積んで、戻って行き、塩谷湊から江戸へと送られて行ったのである。
 次いて七番目に掲載した絵図を用いて、新発田までの道筋を歩いてみよう。大島宿を立って西へ向かうと、一度紹介した貝付を通り、花立村、荒島村と続き、なおも歩いて行くと、上鍛冶屋村、下鍛冶屋村にたどり着く。この村では茶が栽培され、絵図でも解るように、村上、岩船方面から来る買人に売り、買手がいない場合は、新潟へ行って売りさばいたという。この村にはきっと、茶店があったであろうから、名産の茶を味わった後、また旅を続けたものと思われる。下鍛冶屋村を過ぎると、近江新田を経て黒川宿に入る。その名の由来は、『日本書紀』天智天皇七年(六七四)秋七月の条に、
「越国、燃土と燃水とを献(たてまつ)る」
isabella-8 とあって、今でいう石油が産出されたことから、黒川といったらしい。胎内川の橋を渡るとその先にあるのが、出羽の羽黒社にちなんでそう呼ばれる羽黒村となり、やがて、中条宿に至る。米沢街道が南北に通るこの宿の果たす役割は大きく、この畏隈では、新発田に次ぐ賑わいを見せていた。そのことは、『辛丑(しんちゅう)随筆』の中に、
「本町通りには商家軒をならべてあれば毎月三、八日に市立あり、持出(もちいで)る商物我里(わがさと)などにかわりなし、白米、玄米を俵にして持出て、壱升、弐升よりあきなふ多し」
 そうあることからも読み取れるであろう。さらに、現在のJR中条駅の北方には、中世以降この地を支配していた中条氏(大里峠のところで少し触れた中条籐資は、その子孫に当っている)の居城江上(えがみ)館がある。八番目に掲載した絵は、その館の縄張図を模写したものだが、広い堀を巡らした一辺一一〇メートルほどの正方形の主郭と、その北に堀を隔てて付属する東西約八〇メートル、南北約四〇メートルの第二郭、それよりも二メートルほど土塁を高くした内郭などで構成されてあった。現在は発掘調査をもとに復元され、歴史の広場として活用されている。さらに、その背後にある標高二九八メートルの白鳥山には、先にも述べた鳥坂城が設けられているが、これは、平時は麓の江上館で生活を営み、有事の際に、この鳥坂城に籠もるための防衛施設であった。というのも、先ほど通って来た黒川にも、南北朝の動乱期を経てその勢力を拡大して行った黒川氏の築いた黒川館があるのだが、この黒川氏と中条氏は常に対立していたから、双方とも、自領に堅固な要塞を構えて、何度か、合戦を繰り広げたものと思われる…。むろん、例のイザベラ・バードは、今自分が眼の前にしているあたりで、そんな血なまぐさい抗争が行なわれていたことなど、知るよしもないであろうから、紀行文『日本奥地紀行』では、「三、四本も深く植えこんである樅(松)の並木道は中条から黒川まで続いている」
 そう綴るのみに留めている。同時に彼女は、村上方面からではなく、この新発田方面から十三峠を越えて、米沢平野を目ざしたことになる。さらに中条宿を過ぎ、残る体力をふりしぼって前へと歩を進めると、貝屋村、浦村、貝塚村、館村、三日市町となり、そこを通過すると、ついに、新発田城下に到着する…。
 以上が、十三峠を含む米沢街道の全体像であるが、その起点となる米沢、終着地となる村上、新発田には私の大好きな城があるので、どれも訪れたことのある城下町だ。けれど、米沢街道そのものは、本格的には散策したことはないので、新型コロナウイルスが収束しないままでも、落ち着いた状況に収まったならば、成澤氏を始めとして、米沢在住の知人たちと、挑戦したいと考えている。今回の私の拙い文章が、コロナ禍における、つれづれになれば幸いである…。

参考資料
・米沢日報 二〇一七年新年号 置賜日報社発刊
・越後米沢街道十三峠 十三峠交流会事務局発刊
・直江兼続が作ったまち米沢を歩く 遠藤英著、新潟日報事業社発刊
・日本奥地紀行 イザベラ・バード著、高梨健吉訳 平凡社発刊
・山形県の地名  平凡社発刊
・新潟県の地名  平凡社発刊
・日本城郭大系 山形、宮城、福島編 新人物往来社発刊
・   〃    新潟、富山、石川編    〃    
・ 日本街道総覧
・お城山だより 村上城跡保存育英会発刊              〃
・ にいがた地名考 長谷川勲著 新潟日報事業社発刊
・ 広辞苑 岩波書店発刊
・戦国時代人物事典 学研発刊

(2021年5月10日14:10配信)