米沢市吾妻町にある静田家には、巻物となった一族の系図がある。同家は上杉家家臣で、越後時代、当主の静田守貞(彦兵衛)は、上杉景勝から500石をもらい佐渡の代官になった。慶長3年1月、景勝は豊臣秀吉によって会津への国替えを命じられ、守貞は直江兼続が支配する長井の庄(米沢地方)に移り、佐沢村に70石を賜った。
同系図には、新宿御城(現在の高畠町二井宿にあった志田館のことか?)で、守貞は40人の馬上頭を申し付けられ、慶長5年、関ヶ原の戦いの前、仙台の伊達政宗軍と新宿で争ったことが書かれてあった。
それによれば、守貞、林部、芦川の3人は、策をめぐらして城のあちこちに多くの旗を掲げて、こちら側に大勢の軍勢がいると見せかけて伊達軍を混乱させ、多くを討ち取り、伊達勢を押し返した。その功績を兼続が景勝に報告し、3人は景勝から1枚の感状をもらった。それゆえ慶長10年11月17日、守貞は150石に加増された。
守貞は、かなりの教養人だったらしく、景勝の子、定勝のところにしばしば「夜話に出かけた」とあり、きっとこの伊達との戦さについて語ったに違いない。
静田家の現当主である静田靖彦氏は、25年ほど前に祖母と高畠町二井宿を訪れた際に、川に掛かる橋の名前が「静田橋」という場所を訪れた。土地の人は、「昔、静田という人が二井宿を助けたので橋の名前がついた」と聞いたそうだ。
歴史にもしもは禁物だが、もし守貞たちが二井宿での戦いに敗れ、伊達軍が二井宿を支配したら現在の高畠町二井宿は、宮城県になっていたかもしれない。というのも明治維新後、県の区域は全国にあった300藩の支配地域をもとに区割りされたからである。
(2021年11月5日15:55配信)