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竹田 歴史講座

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寄稿  小説『スペードのエース』  二階堂たきえ

寄稿者略歴
 二階堂たきえ(にかいどう・たきえ)
 山形市在住。



 その日は朝から災難続きだった。
 枕元に差し込む日差しのまぶしさに目を覚ますと、既に壁の時計は八時半を示していた。
 
1 太郎は布団をはねのけて身支度もそこそこに部屋を飛び出した。まずい。いつもなら、電車の乗換駅に着いている時間ではないか。
 おまけに今日は九時半前に行かなくてはいけない大事な顧客との約束もあった。目覚し時計が六時四十五分で力つきて止まっていたのが、全ての元凶だった。
 平塚駅にほど近い太郎の部屋から湘南新宿ラインで東京駅までは五十八分。京橋にある顧客の会社までは徒歩で約十分。顧客に連絡をしておかないといけないだろう。
 駆け込んだ電車の中で、今日のスケジュールを確認しようと鞄の中からごそごそと手帳を取り出しているとすぐ後ろで悲鳴が上がった。

2「この人、痴漢です!」
 周りの目が一斉に太郎を見た。太郎は身に覚えがないが、金切り声を上げた若い女は確かに太郎をにらんでいる。
「私は何も・・・。」
「私のお尻を後ろからさわったじゃないの!女の敵だわ。」
 抵抗も弁明もする暇もなく、腕を捕まれ次の駅で下ろされてしまったのだ。
「駅員さん!この人痴漢なんです。」
 駅員に引き渡されそうになったその瞬間、後ろから声がかかった。
「勘違いですわ。その人はさわった訳じゃなくて鞄の中の捜し物をしているうちに鞄がお尻に触れていたんです。」

3 その声がまるで天使の声のように太郎には聞こえた。
 二人の後ろに立っていたのは先ほどまで側に座っていた二十代後半の女性で黒に細いストライプのパンツスーツをびしっと決めている。ショートボブの黒髪にエンジの眼鏡フレームだけが少し柔らかな印象をあたえている。
太郎に向かっておだやかな口調だがきっぱりと言った。
「勘違いでも体に触れた物があって不快な思いをさせたんだから、謝らなくちゃいけないですわね。」
 ばつの悪そうな顔をしている、金切り声の女に太郎は必死で頭を下げていた。『被害者』がぷいと背中を向けて歩いて行った後で、『天使の声』の主を捜したがもう既にいなかった。
どこかで会ったことがあるような気がするのだが、思い出せない。
 気を取りなおして時計を見ると完全に遅刻の時間だった。

 太郎は約束の顧客のところに着いたが、中小企業の社長である今日の面談の相手は既に出かけてしまって留守だった。
「すみませんね。遅れる連絡はもらっていたんですけど、急ぎの用事が入ってしまって出かけたんですよ。せっかく勧めてもらったけど、ここのところ売り上げが伸び悩みだから少し考えておくって言ってましたよ。」
4 経理担当でもある奥さんが、すまなそうに言った。
 京橋は江戸時代から続く職人の町だ。オフィス街のビルの建ち並ぶ都心の一等地だが木工や竹製品の老舗の会社も点在する。その中でも今日の顧客は有望だったのだ。
 先週までの話で、クラウド化を含む新しいコンピュータの経理システムの入れ替え導入を考えていた感じだったのに急に社長の気持ちが変わってしまったらしい。
(そりゃないぜ、かなり乗り気だった筈なのに・・・)
 なんとしても今日の遅刻が悔やまれる。
「どうか奥様、来年の終わりには今のOSのサポートも切れますし、早めに新しいシステムに移行を決めていただくと費用の方も勉強させていただきます。セキュリティの向上やデータのバックアップなど今の何倍ものメリットがありますので社長にもお勧めください。」
 その日一日は、やることなすことすべて裏目にでるようだった。
 ひたすら疲労感だけを抱えて夕方、太郎は家路についた。

6 平塚駅で降りて部屋に向かうアーケード街を歩いているときも足取りは重かったが、目覚まし時計の電池を買わなくてはいけないと思いだした。寝起きが悪いので枕元には目覚まし時計が欲しいのだ。
(電池だけで大丈夫だろうか・・・)
 ふとそれを確かめなかったことに気づいた。目覚まし時計のほうがいかれているのなら、また明日遅刻することになる。それこそ大変だ。

 時計店に入って目覚まし時計を見ていると、少し変わった時計が目についた。
 その文字盤にかかれているのが、『不思議の国のアリス』の絵本の挿し絵にでてくるような『トランプの兵隊』だったのだ。たくさんのカードの前にでているのはスペードのエースのカードだ。
 そのスペードのトランプの兵隊の槍が時計の長針、左手が短針になっていた。秒針に小さな白ウサギがついている。そういえば『不思議の国のアリス』の物語の中ではいつも白ウサギがセコセコいそいでいたなあと昔の絵本のお話が思い出された。
 特に変わっているのが普通の十二時間の刻みの外側に、もう一つの輪がありそれは二十五分割になっているのだった。
 そちらの刻みは数字の脇をスペードのデジタルのアイコンが移動して示されるようになっている。
(十二の二倍なら二十四の筈だけど・・・ジョークかな)
 変わっているところと目覚ましが大音量というところが気に入って、少し大きめのその目覚まし時計を手に取ると、太郎はレジの方に向かって歩き出していた。

 時計と電池の入った紙袋を下げて店を出る頃にはすでに暗くなりかけていた。
「ちょっと、そこの方・・・」
 太郎はアーケード街のはずれ近くで呼び止められた。
 そのときは近くに回りを歩いている人はいなかったので、間違いなく自分を呼んだ声だ。
「そう、そこのあなた。実に不思議な相をしておる。」
 アーケードの隅、雨風が吹き込まない場所に『占い』と書かれた明かりをのせた机を前に老婆が座って、点眼鏡の向こうから太郎を眺めていたのだ。今まで通ったときにもいたのかもしれないが気づいたことはなかった。

「その眉毛の間のほくろ、しっかり張った小鼻、これに意志的な顎が加われば申し分ないが・・・たらんのう、残念ながらたらん。大物になる要素が・・・。」
 人相に大物になれる要素が足りないと言われて、太郎は少しがっかりした。わかってはいても、はっきり言葉にされると少しショックだ。
「落ち込んでいるときに、そういう事言わないで下さいよ。今日はうんとツキのない日なんだから。」
「そうじゃろう。悪いことがあるとどんどんそっちへ引っ張られて行く運勢だから。しかし、今後何か大きな転機がくるぞ。それも近いうちに。」
「それって良いことですか?それとも・・・」
「ううむ。まだわからん。まだわからんが人と違ったことが出来るようになる。」
「人と違ったことですか。何かなあ。あんまりいい事じゃないんなら、見料払いませんよ。今日は給料日前だから、持ち合わせがないんです。」
「ま、いいじゃろう。またここに来るじゃろうから。お代はその時にでももらおう。気をつけなされよ、特に鏡に映るものに。」
 そこまで言うと老婆は店じまいを始めた。

7「新しいシステムの使いがってはいかがですか?」
「なかなか良いんじゃないですか。カルテと投薬管理の連携などがスムーズですね。システムが大きくなった分最初のたち上げに時間がかかるのが難点といえば、難点でしょうね。細かい改良点の要望なんかは係の方から出させますから・・・。」
 つい先日新しいシステムを導入した病院に様子をうかがいにきた太郎は、応対に出た事務長がとても疲れた感じなのが気になった。
「お疲れのようですね。だいぶ忙しいんですか?」
「ああ、ひどいもんですよ。いま病院の合理化について上から山ほど指示がきていて、対応に苦労しているところです。特に人員の削減とかは大変です。板挟みですよ。気苦労が多くて疲れます。私の方がやめたいと思うくらいですからね。」
「でもここは国立の病院でしょう?」
「国立の病院だから余計厄介な面があるんです。上は実情を見ないで赤字を減らすことだけを指示しますからね。決まったとおり人件費は削れといわれるし。高度な医療機械は金額は大きいし設備を充実して地域医療に貢献しようとすればするほど赤字になってしまうって訳です。まいっちゃいますよ。」
 事務長への来客を告げる館内放送に立ち上がったあと、太郎に向かって彼は真顔で言った。
「いやいや、また嫌な客でないといいんだけど。本当に『人間やめたーい』って気がするときこの頃あります。」
 そう言って立ち上がった事務長の顔に、ふと太郎は奇妙なものを見たような気がした。彼の眉間にスペードのマークがついていると思ったのだ。もう一度よく目をこすって見ようとしたが、彼は頭を下げると振り向いていってしまった。
(俺もかなり疲れてるってことかな。眼科で見てもらう時間がないから目薬を買って帰ろう。)

8 しかし、その日また太郎は得意先で眉間にスペードのマークの見える人間にあった。今度は会社の社長の息子だった。
 特別な外装も手がける自動車の整備会社に自分も勤めるその息子は、『走り屋』と呼ばれる部類でその時も自慢の車のチューンアップに余念がないところに出会ったのだ。前に話したときは速度のリミッタを外して走った画像をyoutubeに投稿して捕まったニュースの話題になった。
「俺ならもっと早く速度を上げられる。投稿なんてしないけどね。」
彼は鼻を膨らませて自慢げに話していたのだった。その額についている。
(あの目覚し時計で毎朝スペードのマークを見ているせいかも知れない。こりゃますます疲れている。今日は早めに帰ってやすもう。)
 太郎はそう決めると会社への道を急いでいた。

 せっつく様な目覚し時計の電子音に眠りを破られて、しぶしぶ起き上がった後、ドアの新聞受けに差し込まれた朝刊を広げた太郎は三面記事の見出しに驚いた。
【K国立療養所の事務長自殺、合理化策の板挟みで鬱を発症か】と三段抜きの記事が目に入ったからだ。病院の名前からしても一昨日会った相手に間違いはなさそうだ。
 真顔になって「"人間やめたーい"って気分ですよ」と言ったあのときの彼を思い出した。
(でも、まさか自殺なんて・・・)

 さらに、その記事の下の方を見て太郎はもっと驚いた。
【性能を過信、増え続ける若者の無謀運転】
 なんと、その記事に添えられている写真はやはり同じ日に会った、あの整備会社の『走り屋』の息子だったのだ。
 その若者の顔を思い浮かべたとき脳裏に鮮やかに『スペードのマーク』がよみがえった。若者の額にも、そしてあの事務長の額にも同じものがあの日見えたではないか。
(まさか、偶然だろう。昨日会った人には誰もそんな人はいなかったし、あの日は目も疲れていたようだし・・・)
 しばし、考え込んでいた太郎はちらりと目覚し時計に目をやった。スペードのエースは今朝も同じように時を刻んでいる。すでに余りゆっくりしてはいられない時間になっているのに気づいた。
(いけない、いけない。遅刻するとろくな事がないからな。)
 太郎はトーストと卵の朝食をコーヒーで流し込むと、走って駅に向かっていった。

「よう、おはよう。得意先の事務長が自殺だって?」
 会社のエレベーターで一緒になった佐藤が話しかけてきた。今年で入社して六年目になる太郎とは同期入社だ。彼は製品開発課にいるので営業回りはやらない。
「ああ、びっくりしちゃってな。それに少し気になることがあってさ。」
 同期の気安さで相談を持ちかけようとして、彼の顔を見た太郎は息が止まりそうになった。見えるのだ、額のまん中にスペードのマークが・・・。
「ちょっと、佐藤、今朝鏡を見たか?」
「鏡?見たよ。髭そったもの。」

 エレベーターの隅が顔の写るほどぴかぴかの金属だったので、そこで顔を見てみるようにと太郎は言った。
 しかし、佐藤は自分の顔を写してみても何も変わったところを見つけられないようだった。彼には見えないのだ。
「おまえさ、今日はじっとしていた方がいいぞ。なるべく何処にも行かないで・・・。」
「変なことを言う奴だな。駄目だよ、今日から出張なんだもの。」
 まさか佐藤に一昨日会ったあの二人と同じスペードのマークが見えるとは言えなかった。
「何で行くんだ?出張の先は何処だ?」
「シンガポールの支社だもの、飛行機さ。うちの課長たちと一緒だよ。抜てきだぜ。俺にも運が回って来たってとこかな。課長の都合で今日の夕方から出かけるんだ。」
 佐藤のうれしそうな様子に太郎は後は何も言えなくなってしまった。
(運が回ってきたなんて・・・命が危ないのに。)

 エレベーターが止まって乗り込んで来た人間が二人いた。佐藤がその人物に向かって元気な声で挨拶した。
「課長、おはようございます。今日からの出張どうぞ宜しくお願いします。」

 はっとして太郎は乗り込んで来た人物の顔を見た。
 やはりついている。額にスペードのマークだ。製品開発課の課長と課員なのだ。この二人も佐藤と同じ運命にあるのだろう。

 製品開発課のある階にエレベーターが止まったとき、太郎はあることを決意していた。
「佐藤、今日の昼に一緒に飯でも食おう。」

 午前中の予定を少し変更して、太郎はあるものを手にいれた。あの三人が同じようにスペードのマークをつけていると言うことは、共通の何か危険なことが起こるのに違いなかった。そこに佐藤を同行させなければいいのだ。
 太郎は昼に会社の近くのレストランに佐藤を誘った。わざと人目に着かない場所を選び、佐藤が席を外す時間を狙った。彼はある癖があった。
 外で食事をする前には出てくるお手拭きでは十分でなく、洗面所で念入りに手を洗いうがいをするのだ。このおかげでインフルエンザにかかったことは一度もないと自慢している。その癖を利用して仕込んだ物がある。佐藤の水のコップ~このレストランでは柑橘系のフレーバーウォーターを出すことを調べておいた~中にあるものをとかしこんだのだ。
 洗面所から戻った佐藤は席に着き「ここってなにがおすすめなんだっけ?」といいながらフレーバーウォーターを口に含んだ。メニューを見ていたと思っているうちに顔面が蒼白になり喉をゼーゼー言わせ始め椅子から転げ落ちた。店では慌てて救急車を呼びすぐさま入院と相成った。当然、出張は無理と言うことになった。
 今回のシンガポール支社行きでプログラム部分の説明をする重要なメンバーである佐藤がいけなくなったことで出張そのものが延期となった。

11【シンガポール行き航空機消息を絶つ。乗客名簿に日本人も】
 翌日の新聞の一面記事だった。
(やはりそうだったのだ・・・。)と太郎は新聞を置いた。シンガポール向けの航空機で佐藤たちも乗るはずだった便なのだ。

「よう、具合いはどうだ。」
 太郎は佐藤が入院している病室を訪ねた。佐藤はまだ顔中にジンマシンを出して熱が下がらないようだった。
 それでも太郎の顔を見ると勢い込んで話だした。
「見たか今朝の新聞?今回乗るはずだった飛行機だ。俺たちもあれに乗るはずだったんだから。俺のせいでスケジュールを変えさせて会社にも課長たちにも迷惑をかけてしまったけど。悪いけど危うく命拾いしたんだよな、俺たち。」

 既に佐藤の額のマークは消えていた。もう大丈夫だ。
 太郎は佐藤に『一服盛った』事を詫びた。佐藤がアレルギー体質で特にそばにはひどい症状が出ることを知っていたのだ。アレルギーは人により症状の出方が違うが、佐藤はそばに対しては即時性のジンマシンのほか発熱や呼吸困難まで起きることを聞いていたのだ。太郎は生蕎麦のゆで汁つまりそば湯を準備し、佐藤に解らないように飲ませたのだった。効果は絶大だった訳だ。

「すると、おまえが命の恩人ってわけか。でも、何で解ったんだ飛行機が落ちるのが。みんなに知らせてくれれば良かったのに・・・。」
「飛行機が落ちるのが解った訳じゃない。出発する一行の命が危ないんじゃないかと思っただけだ。それに説明するのも難しいんだ」
 太郎はスペードのマークが見えた人間が次々に命を落としたことを話した。佐藤たちにも、昨日の朝それが見えたことも。そして見えるようになったきっかけが、新しい目覚し時計だったことを順に説明した。
「本当かい?そりゃすごい。俺にも見せてくれ、その時計。それを持っていれば誰でも見えるのかな。」

 「わからん、目覚し時計を買った日に商店街の占い師にも声を掛けられたけどな。」
 そういいながら、太郎はあの占い師の所へもう一度行ってみようと考えていた。

 その夕方、部屋に帰った太郎はしげしげと目覚し時計を見た。スペードのエースのカードが持った槍の先はきちょうめんに時を刻んでいた。
 (本当にこいつのせいだろうか。人の額にスペードのマークが見えるようになったのは・・・。)
 とりあえずこいつを持ってあの占い師の所へいってみることにした。
 紙袋に目覚し時計をいれ太郎は部屋を出て、商店街の方へ向かって歩きだした。

 今日は早めに帰ってきているので、夕方の帰宅を急ぐ人の群れとすれ違う。いつもなら同じ方向なので人の顔など見る事なく一緒の流れになっていくのだが、いまは正面から向き合う形になっている。
 時折すれ違う人の額に例のマークが見えだした。なぜだろう、急にそのマークをつけた人の数が増えてきた。もう少しで商店街に入ろうとする場所に差し掛かっている。

 "死"の近いことを知らせるマークをつけた人間が群れをなして歩いていると言うのはどう見ても気持ちの良いものではない。それにしてもその数が多すぎはしないか。
 自分が時計を抱えているからだろうか。

 やがて、あの占い師の姿が見えてきた。
 占いの看板の前にたって何かをしているところだった。太郎の姿を認めた彼女は、ゆっくりと椅子に腰を下ろして言った。
 「やっぱり、また来ることになったじゃろ。」

12 しかし、彼女の顔をまっ正面から見たとき太郎は驚きの余り口が聞けなくなった。彼女の額に浮かび上がったスペードのマークのために。
 助けを求めるように太郎の視線が、通行人の方に泳いだ。
 しかし、通りかかった中年の女性の顔にも"それ"はあったのだ。その後ろから歩いて来る人の顔にも・・・。
 太郎の視線は再び泳ぎ、占い師の後ろにあるショーウインドウで止まった。そこには太郎自身の姿も写っていた。 くっきり刻みつけられたスペードのマークがその額にも・・・。
 太郎は自分の持った紙袋を見た。自分にも見えたこのマークはどういう意味なのか。

 その時、足元から突き上げるような振動が走った。強烈な揺れにガラス張りの商店のショーウインドウが砕けて飛び散った。さらに何処かから漏れたガスに引火したらしく火柱が太郎たちの正面の建物から噴き出してきたではないか。
 太郎の目の前は一瞬のうちに炎の色から暗転した。

 耳元で目覚し時計のベルがなる。糊でくっつけられたように開かない目を擦りながら太郎は手探りで時計を掴みベルを止めた。

 しかしその手触りに、無理に目を開ける感じで掴んだ物を引き寄せた。それは壊れて動かなくなった筈の目覚し時計ではないか。
 「ちゃんと動いてる・・・。」
 そう呟いた太郎は改めて部屋の中を見回した。
 あの目覚し時計は何処だろう。スペードのエースが時を指し示すあの時計は・・・。

 そういえばさっき自分は地震の後のガス爆発に巻き込まれたはずだ・・・。自分の額にもスペードのマークが見えていたのだ。
 急いで洗面台の所までいって鏡に自分の顔を映してみた。マークは消えている。そして目覚し時計が消えていると言うことは・・・。

 あれは夢だったのだ。
 寝ぼけた頭が急にはっきりしてきた。それならもうマークにおびえることはない。太郎は急にうれしくなってきた。

 会社のエレベータで佐藤と一緒になった。
 「具合いはいいか。」そう訪ねると彼は怪訝な顔をした。
 「具合いって、すこぶる快調だよ。」
 「そりゃそうだよな。」

 「そういえば、明日の夕方このビルに勤務する有志の花見だってさ。行くだろおまえも。」
 「いくよ。もちろん。」

10 桜は満開だった。太郎たちと同じくらいの年齢のものがほとんどだったので座は大いに盛り上がった。
 太郎は参加した女子社員の中に、あの電車の中で痴漢に間違えられたときに一言言って助けてくれた"彼女"がいたので余計楽しかった。知らなかったが同じビルに入った会社だったのだ。

 ビールをつごうと思って彼女に近づき、正面から顔を見たとき太郎はどきっとした。
 彼女の額にマークが見える。今度はハートのマークだ。

 「淳子さん、顔に桜のはなびらがついてるわ。」
 別の女の子にそう言われた彼女は顔を手でなでた。はらりと一枚のはなびらが落ちた。

 (そうだよな。人の運命なんか見えない方がいいさ。)
 太郎は思って彼女にビールを勧めた。

 満開のはなびらはあちらこちらから舞い降りてくる。春はまさに爛漫だった。

                                (おわり)