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鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衛門会長)が主催する第142回火種塾が、3月4日、我妻滎記念館で開催され、米沢市上杉博物館学芸員の佐藤正三郎氏が「戊辰戦争に動員された兵士・医師・百姓」と題して講演を行いました。
佐藤氏は、戊辰戦争150年の今年を、政治史、偉人を軸とした視点から、米沢藩の個々の兵、動員された医師やその活動、村の負担など、戊辰戦争を支えた「ヒト・モノ・カネ」という社会的な視点で捉えてみたいとし、今年9月から開催する米沢市上杉博物館特別展では「戊辰戦争と米沢」の中で、「米沢藩病院隊」という従来、知られていない史料と史実を紹介すると述べました。
戊辰戦争に動員された米沢藩の兵士について、上杉博物館所蔵の小山家文書(100点)から、越後戦線に赴いた米沢藩士・小山礼蔵が義父・孫太郎に宛てた書状7通、日記を紹介しました。礼蔵は明治元年(1868)年4月、笹生家から小山家に養子入りした与板組50石で家督相続した人で、5月19日に戦場から実家へ送った書状では、「長岡辺りの戦況が切迫しており、勝負はわからない。再び対面することは難しい。たとえ死んでも見苦しい死に様は致しません」などと覚悟を書状を認めています。6月21日付では、この頃病気になり、療養中で「金が必要だがわずかになり困っている」、また日記では、5月24日の夕食後、「賊が打った鉄砲の弾が自分の耳のそばをかすり、自分の組の者の尻に当たった」と述べています。6月、7月と戦線が厳しくなると、文書は短くなり、戦死する10日余前には、「身命をなげ打って君に忠を尽くすので案じないように」と最後の手紙を送り、7月25日、越後・押切(長岡市)で戦死しました。
佐藤氏は、初陣前の覚悟が何度か、戦場を経験するうちにやや変化していることや、療養や食事(回復のための獣肉食)、衣服、物見のための出費などで金が必要だったこと、帰国者に託して、国許米沢と戦場の間で手紙のやり取りがなされていたことを紹介しました。
次に医療、蘭学の先進地である米沢藩は、戊辰戦争にあたり、藩医を中心に多数の在村医、医療を学ぶ村役人、藩士などで「米沢藩病院隊」を編成し、戦線近くで負傷した人の治療に当たったという歴史を紹介しました。
藩医だった中條家文書(上杉博物館所蔵)と、病院隊頭取高橋玄勝の日記などから、明治元年4月に米沢藩病院隊結成時は、高橋以下4名だったものが、5月上旬には40名弱と増加していることや、頭取の下、療治方、教導方、薬品掛、製薬掛、簿書方などからなる組織的な医療部隊だったことを明らかにしました。
中條家文書には戊辰戦争後、各医療従事者への恩賞、取立を藩に願い出た「御執成之覚」が含まれてあり、従軍医療関係者47人の名前と役職、期間、従事内容などが書かれています。
佐藤氏は、藩医は主に、隔日か、三日交代、昼夜詰め切りで勤務をこなし、戦闘終了後も11月末まで活動を行ったことや、藩医以外でも、多数の町医師、在村医、一般藩士?(取扱方=看護分野担当)が加わっていることを解説しました。
最後に、米沢藩領内の田沢村の軍事負担については、献金、陣夫(物運びなどの人足、百姓の基本的な役)、兵賦(へいぶ)があり、佐藤氏は城下に近く、藩境の田沢村の対応を分析しました。
カネの面では、明治元年4月に、村から藩への貸付金は400両で、明治4年頃までに一部が返済されたとしました。さらに明治元年6月には、御用金100両を上納しています。ヒトの面では、兵賦として上層農民の子弟などを稽古し、勤務中は名字帯刀、扶持を与え、功績により召し抱えました。モノの面では、必需品だった草鞋を上納したほか、鉛を藩が買い上げました。
佐藤氏は、戊辰戦争の際に村の人たちが何にどう動員されたか、全体像はつかみきれてないと述べました。
(2018年3月4日18:30配信)