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竹田 歴史講座

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第144回火種塾 植物学者小泉源一博士の業績を偲ぶ



ishiguri-1 鷹山公と先人顕彰会(小嶋彌左衛門会長)が主催する第144回火種塾が7月1日、我妻榮記念館で開催され、同会顧問の石栗正人氏が「郷土の誇り 植物学者小泉源一博士の業績を偲ぶ」と題して講演を行った。
 石栗氏は、植物学者小泉源一博士について「あれほど大きな業績を挙げながら、生れ故郷の米沢では小泉源一先生の存在を知る人が少ないのはどうした事か。」と述べ、その原因として活躍舞台のほとんどが米沢を遠く離れた北海道、東京、京都であり、業績を偲ぶ資料がそちらの方にあり、米沢にはほとんどないのが実態。また小泉先生のことを知る人が他界して、「吾ひとり(石栗氏)」となったとして業績や人柄を偲びたいと述べ、その生涯を解説した。以下は講演の要約である。

 小泉源一先生は明治16年(1883)11月1日、米沢の林泉寺町、小泉清次氏の長男として生れ、米沢中学校(現米沢興譲館高校)に入学した。恩師の中村正夫先生は盛岡高等農業学校を卒業し米沢中学校に赴任していたが、生物を担当し植物分類の知識に優れ、「ヒメサユリ」の発見という業績がある。小泉先生は中村先生と植物採集や観察に同行するなど、大きな影響を受けた。
 小泉先生は次いで札幌農学校実科(現北海道大学農学部)に入学した。同校は、明治9年(1872)、「北海道開拓使學校」として開校したもので、翌年に米国マサチューセッツ州アマースト農科大学長のクラーク氏を教頭として迎え、翌年「札幌農学校」と改称した。卒業生には内村鑑三、新渡戸稲造らがいる。小泉先生は北海道に5年滞在し、3年の在学期間後は研究室に2年在籍し植物研究の没頭した。当時、旭川中学校に小泉先生の3歳年下の弟、小泉秀雄氏が教鞭をとっており、兄にも負けない植物研究家で、兄弟で手付かずだった樺太や北海道の植物研究を行った。大雪山々系の植物調査では、登山ルートの開拓や高山植物の調査を行い、膨大な植物標本を作り研究論文を発表したことで、地元の旭川市や札幌市では、小泉兄弟、特に秀雄氏のことを「大雪山の父」と呼んでいる。
ishiguri-2 明治38年(1905)、小泉先生は東京帝国大学教授で、植物分類学の権威だった牧野富太郎先生を東京市小石川区の自宅に突然訪ね、「弟子にしてほしい」と懇願し、それが聞き入れられて、東京帝国大学植物学研究室に研究生として採用され、その年3月、東京帝国大学理科大学生物科に入学した。大学では、植物分類学の松村任三(じんぞう)先生と牧野先生から指導を受けた。明治41年(1908)3月、東京帝国大学を卒業し、松村教授のもとで植物学研究室に在籍しながら研究生活を送った。大正5年(1914)に、「日本バラ科植物考」の論文が高い評価を得て理学博士の学位が授与された。
 大正8年(1917)に、京都帝国大学に植物分類学教室が開設されることとなり、小泉先生が助教授として招聘された。大正14年(1925)には、2年間の欧米留学を命じられたが、欧米の植物学者から異口同音で日本の研究業績や研究方法が古く、時代遅れという批判に接した。その論文「フロラ・シンボリィ・オリエンタル・アジアティカ」は、日本の植物学会に大きな衝撃を与え、その後の日本の植物分類学の進むべき方向を指し示すものとなる。
 昭和7年(1932)、小泉先生は京都帝国大学に「植物分類学地理学会」を発会し、「植物分類地理」という会誌を発行した。昭和11年(1936)、理学部教授就任、昭和18年(1943)、定年退職した。
 小泉先生により、山形県内の植物で命名されたものには、「ツクシガヤ」、「デワノハゴロモナナカマド」、「カスミザクラ」、「ハマイブキボウフウ」、「ケナシミヤマシシウド」、「ウラジロハナヒリノキ(斜平山)」、「マルバカクミノスノキ」、「デハノトネリコ」がある。
 昭和22年(1947)、小泉先生は米沢に帰郷し、林泉寺町の自宅で余生を過ごした。昭和28年(1953)12月21日、小泉先生は脳出血で倒れ、この世を去った。享年68歳だった。
 
 石栗氏は、昭和25年頃、米沢興譲館高校を訪ねてきた小泉先生と初めて会った時の印象を述べ、「鼻下に美髭を貯えた物静かな先生のお姿に親しみを感じた。」とし、後日、名前の判らぬ押し葉を持って小泉先生の自宅を訪ねたことや、また葬儀に参列すると「明らかに京都から来られたと判る、立派な服装の方々が参列されていた。(中略)学問に志す者、かくあるべし、強く胸を打つものがあった」と、その出会いと別れをあたかも昨日のごとく語った。日本植物分類学会の創設者として、また日本の植物分類の基礎を築いた小泉先生の業績が今後も米沢市の歴史や市民の記憶に長くとどまって欲しいという願いが込められた石栗氏の熱い講演だった。

 今回から「火種塾」は、米沢有為会文化大学としても位置づけられて開催されることになった。

(2018年7月1日16:15配信)