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米沢市の我妻榮記念館を会場に9月9日に開催された火種塾では、米沢古文書研究会幹事の中村善治氏が「直江状について」と題して、歴史的に有名な直江状の内容や意図について1時間、講演を行いました。
慶長5年(1600)4月、徳川家康の意向を受けた京都豊光寺(ほうこうじ)の承兌(しょうたい)と上杉家執政直江兼続との間で書状が交わされました。この書状が歴史的に注目されてきた理由は、この書状が関ヶ原の戦いにつながる会津征討に関連するもので、特に兼続から承兌への書状は「直江状」として知られています。承兌は連歌会などを通じて、兼続と知己の間柄でした。
中村氏は、上杉景勝が豊臣秀吉により越後より会津へ移封された慶長3年(1598)1月から関ヶ原の戦いを経て、景勝が米沢に入る慶長6年(1601)11月までを時系列で解説し、直江状がどのような状況下で書かれたかについて述べました。
背景には、景勝の後に越後に入った堀秀治の家臣堀直政から、慶長5年2月、「景勝が会津で神指原に新城を築き、諸浪人を集め籠城」といった報告や、徳川方に走った景勝家臣の藤田信吉から「景勝が野心」という報告などが家康に寄せられ、景勝の真意を尋ねるために上京を促したことによります。さらに家康は景勝に使者を派遣し上洛を促しましたが、景勝に拒否され、結果として家康は会津征討を決定しました。
中村氏は、8項目にのぼる承兌の書状の要旨を説明したほか、直江状について、承応3年版本(東京大学蔵)と、直江状写し(米沢市上杉博物館蔵、平成14年に収蔵された資料で上杉家伝来のものではない)を比較すると、上杉博物館蔵のものは承応3年版本の一条目がないことを解説しました。他に、上杉博物館蔵のものは兼続が使っていた花押と違っているとしました。中村氏は直江状の要旨を解説し、さらに承兌の書状と直江状を対比し、承兌の書状での詰問に対して、直江状でどのように回答しているかを分析しました。その中で、会津城近くの神指原に城地を用意していることには答えていないことや、承兌の書状では触れていない藤田信吉のことに触れていることなどをあげました。
さらに直江状の偽物説や本物説を挙げ、本物説では元禄16年(1703)に米沢藩上杉家が編纂の「景勝公御年譜」に記載されていることをあげました。
最後に、直江状の評価として、直江状の持つ魅力が多くの人を惹きつけてきたと述べ、丹羽浩氏の評価を紹介して、関ヶ原の戦いの契機となったといわれる直江状を通して、歴史転換のドラマが繰り広げられたことや、強大な権力者を向こうに回し、相手の難問に一つひとつ隙間なく答え、相手の非を責めながら詰め寄る言説の鋭さがあると述べました。
ただし、原本が存在せず、その真偽の程については今後の課題だとしました。
(2018年9月9日11:50配信)