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今年4月20日から6月9日まで米沢市上杉博物館で、特別展「上杉家 葵の姫のものがたり」が開催され、江戸時代の米沢藩主上杉家の縁組や明治以降に華族となった上杉家の婚礼などが紹介された。
主な展示内容としては、上杉家第16代当主上杉隆憲夫人となった敏子が、上杉家に嫁ぐ際に守刀として持参した「短刀 銘 国光」を始めとする徳川宗家出身の三姉妹の守刀や上杉隆憲・徳川敏子婚礼写真、豊姫所用の打掛、鏡箱、手箱、純姫所用の貝桶などで、華族の華麗な婚礼調度や資料から姫たちの物語が紡がれている。
この特別展の関連事業として、5月19日(日)午後2時〜3時の間、同館エントランスでトークイベント「葵の姫のものがたりと上杉家」が行われた。米沢藩の成立から華族制度が無くなるまでの上杉家当主は、上杉景勝から上杉成章までの15代で、正室は武田、四辻、鍋島、保科、紀州徳川、黒田、山内、尾州徳川、浅野、讃岐松平、細川、高須松平、大給松平、鷹司、徳川宗家などから迎えたが、当日は旧米沢藩主上杉家ゆかりの名家8家の当主御夫妻が登場した。
出席したのは、前田利祐・萬理子御夫妻、松平頼武・豊子御夫妻、徳川恒孝・幸子御夫妻、松平宗紀・智子御夫妻、保科正興・雅子御夫妻、上杉邦憲・紀美子御夫妻、鷹司尚武・久美子御夫妻、大坪喜美雄・和子御夫妻の御夫妻である。他に、当日は聴衆の中に、鶴岡市在住の荘内酒井家の当主、酒井忠久御夫妻の顔も見え、会場は旧華族の持つ何とも華やかな雰囲気にあふれていた。
「葵の姫」と呼ばれた徳川宗家出身の三姉妹(徳川家正氏の娘)は、長女豊子が会津松平家の松平一郎夫人、二女敏子が米沢上杉家の上杉隆憲夫人、三女順子(ゆきこ)が高遠保科家の保科光正夫人となった。
(写真提供=米沢市上杉博物館 令和元年5月19日 (於)伝国の杜)
この日のトークイベントでは、同館学芸主査の角屋由美子氏が司会を務め、出席者から徳川宗家出身の三姉妹の思い出などが語られた。
保科正興氏(高遠保科家)は、母順子さんについて、姉の敏子叔母とは一つ違いで、(徳川家達の)千駄ヶ谷の屋敷で隣の部屋同士で女中をつけてずっと育ったことや、亡くなるまで二人はとても仲が良かったと述べた。順子さんは物資がない昭和16年に結婚し、華族として最後の結婚だった。
上杉邦憲氏(米沢上杉家)は、徳川三姉妹の守刀、松平家の景光、上杉家の国光、保科家の国俊が一緒に見られるというのは空前絶後であるとし、また自分が航空宇宙の道に進んだのは、明治23年に日本で初めて飛行機を飛ばした徳川好敏の影響が多分にあると述べた。
徳川恒孝(つねなり)氏(徳川宗家)は、自分は会津松平家に育ったが、学習院初等科3、4年生の時に、先生から「君の名前は徳川になったから」と言われたことを披露、徳川宗家を継ぐことになり、初等科の時から大変なプレッシャーだったと述べた。(徳川家に)着いた翌日、昔からいたお爺さんに、「(上野)寛永寺、静岡の東照宮に行って下さい」と言われたことなどを披露した。
大坪和子さん(能楽師大坪喜美雄氏夫人)は、母繁子(ますこ)さんが徳川家達(いえさと)の一番下の娘(三女)で、家達は謡いが大好きで「十徳会」を作って盛んにやっていたことを紹介した。
鷹司尚武氏(五摂家鷹司家)は、昭和49年に結婚した時の仲人に上杉(隆憲)さんにお願いしたことや、祖母(綏子)は実家の徳川(宗家)に里帰することをとても喜んでいたとし、自分は公家の家に育ったが、祖母は武家の家に育ちものすごいおしゃべりだったと述べた。
松平宗紀氏(福井松平家)は、自分は徳川から松平に姓が変わった。(明治維新後に)将軍(徳川宗家)は千駄ヶ谷にいたが、江戸城からついてきた人が(徳川家の)質素な嫁入りを泣いたという。
松平頼武氏(讃岐高松松平家)は、水戸光圀の兄頼重が1642年に讃岐高松藩に入府した。11代頼聰(よりとし)の時に廃藩置県で東京に移住し、妻は井伊直弼の娘だった。十徳会には祖父の頼寿(よりなが)が参加していたらしい。大正8年、祖父は加賀前田家より能楽堂を譲ってもらったが、戦後、ソメイヨシノの発祥の地の巣鴨に移築した。その時に自分は5歳でお弁当を父に届けた思い出がある。平成8年に横浜の桜木町に移転され、能楽堂は健在であると述べた。
前田利祐氏(加賀前田家)は十徳会は酒飲みが半分で稽古の後は酒飲みとなり、自分は不真面目な弟子であると述べ、会場は笑いに包まれた。
(2019年7月6日18:50配信、7月7日19:40最新版)