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米沢市上杉博物館は平成13年の開館以来、今年で20周年を迎え、今年の同館展覧会には開館20周年と銘打った形で行われる。上杉鷹山生誕270年、200回忌にあたる。
4月17日(土)〜6月20日(日)の会期では、特別展「上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団〜」が開催される。この特別展では明和4年(1767)に17歳で第9代米沢藩主となり、72年の生涯を閉じるまで、50年以上にわたり米沢藩の存続をかけて、藩財政逼迫や家臣団内部の対立などの危機に立ち向かった鷹山の人間像や家臣団の働きを紹介する。これまで同館では、鷹山に関する展覧会を3回行ったが、それらは鷹山の事績を紹介するものだったが、今回は鷹山の生涯を軸に構成した。
名君として知られる鷹山は、高鍋藩秋月家から10歳で養子入りした。破綻の危機にあった米沢藩を再建するべく、竹俣当綱、莅戸善政などの改革派家臣が鷹山をリードして改革に取り組んだ。その改革とは、名門上杉家の継承、累積した借金の返済、農村の活性化、産業の育成、軍備の再編などで問題は山積しており、改革は鷹山一人でやった訳ではなく、奉行(家老)層が主導し、さらに実務を担った中下級藩士、学者や医者らも大きな役割を果たした。
(写真右=鷹山は藩主は「民の父母」であるとの気持ちを表した掛軸)
そして改革を始めた鷹山の前に起きた「七家騒動」として知られる重臣の反発や、家臣団の内部対立、天災や幕府から課される役負担など、改革は鷹山が隠居してからも続いていく。展示は、5つのコーナーに分かれている。
プロローグは、「上杉鷹山と家臣団」で、米沢藩の困窮の要因を書き連ねた上杉鷹山書状案は、鷹山が見た米沢藩の現状分析ともいうべきもの。困窮の原因としては、過大な家臣数、山に囲まれ領外移送が不便な地理的条件(年貢米や特産品の売却が困難)を挙げている。
1「竹俣当綱と明和・安永改革 ー進展と停滞ー」では、上杉家に養子に入る鷹山に、高鍋藩の三好重道が贐(はなむけ)として、「上杉家家臣と良い関係を築こう」と贈られた手紙が展示されている。そこには、忠孝を尽くす、学問と武芸出精、寛容や謙虚さといった心構えが説かれている。米沢城本丸図と江戸上屋敷の桜田邸の図面は、当時の大名の暮らしぶりや権勢を知るものとなる。鷹山の国家観を示す名言「伝国の辞」(上杉神社所蔵)もみどころ。
2「莅戸善政と寛政改革 ー改革は晩年までー」では、米沢藩の財政状況を家臣の末端まで公開した会計帳簿「御一円御続道取調帳」が展示されている。
(写真左=鷹山が家臣に対して、米沢藩の財政状況を示した文書)
倹約をしても、1万3000両が足りないと書かれてある。鷹山改革は、徹底して情報公開を行って家臣の協力を求めているのが特徴。善政はとても忙しくてストレスまみれだったが、ため息をついても死にはしないのでなお尽力すると書いた手紙が面白い。
3「家臣団の働きぶり ー役人と専門家ー」では、小島熊蔵という優秀な官僚や、米沢で指導した本草学者、佐藤中陵などの紹介がなされている。鷹山が感染症の女性に対して、優しい配慮をしたことが伝わる文書も鷹山の人となるを知る大事なもの。
エピローグでは、鷹山の事績が有名となり藩外からの視察もあるなど、称賛を紹介している。
同館初公開となる史料も20件ほどあり、鷹山の生涯を改めている機会となる。
前後期で、2/3以上を入れ替えながら計93件を展示する。また国宝「上杉本洛中洛外図屏風」の原本展示を4月17日(土)から5月16日(日)まで、同館上杉文華館で行う。