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米沢藩幕末の志士として知られる雲井龍雄の銅像を建立しようと活動するNPO法人雲井龍雄顕彰会(屋代久理事長)は、10月23日、雲井龍雄の墓がある米沢市城南5丁目の常安寺で講演会を開催し、約20人が参加した。
講師は喜多方市在住の郷土史家笠井尚氏で、「土俗的革命家雲井龍雄」ー討薩の檄で奮い立った会津ーと題して1時間にわたり講演した。
笠井氏は、昭和27年会津若松市の生まれで、県立会津高校から法政大学文学部哲学科を卒業、現在、広告会社ジェイピーシー代表取締役を務める。主な著書には、「最後の会津人伊東正義」、「会津に魅せられた作家たち」、「勝常寺と徳一」(歴史春秋社)、「山川健次郎と乃木希典」(長崎出版)、「白虎隊探究」、「会津人探究」(ラピュータ)などがある。
笠井氏は、明治維新100年、戊辰戦争100年で、雲井龍雄が再評価されたにもかかわらず、今では藤沢周平の小説『雲奔る』の主人公として知られているだけで、漢詩の多くも忘れられているのではないかと述べ、雲井龍雄に対する現在の評価に疑問を投げかけた。(写真左=講演をする笠井尚氏)
また幕末の京都での雲井龍雄の動きや鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争の中で、東北に向けて進軍した新政府軍に対して、雲井龍雄が薩摩の非を訴え、越後の加茂で書いた「討薩の檄」が奥羽越列藩の精神的な支柱となり、会津藩を奮い立たせたと述べた。
雲井龍雄のすごいところとして、笠井氏は階級制を超えた思想や行動をあげ、その一例として国民皆兵にしないとダメだということに気づいていたことや、薩長の強引なやり方に抵抗したことをあげた。雲井龍雄が初期明治政権の欧米文明追随政策を批判し、一種の政治的ロマンティズムかもしれない『道義国家』を主張しながらも日本の近代国家のスタートと同時に処刑され斃されたが、それは欧米列強による圧力で門戸を開かねばならなかった多忙な明治政権にとっては、静かに耳を傾ける余裕などなかったのではないかと当時の時代背景も説明した。
笠井氏は、雲井龍雄のような清冽な政治批判は、それが為政者により無視され、実現されえないものであっても、それが存在するという事実により暴走しようとする『政治主義』の歯止めとなり、一国の政治理念として『みちびきの星』となるのではないかと述べて、雲井龍雄の思想や行動を評価した。
最後に雲井龍雄は会津のために本当によくしてくれたと述べ、奥羽越列藩同盟の中心的な存在だった米沢藩が早期に降伏したことが奥羽越列藩同盟の裏切り者という見方を否定した。講演の後は、会場の出席者との間で質問や応答がなされた。
屋代理事長は、新型コロナの影響により、銅像の建立は2021年から2023年にスケジュールを変更すると説明し、今年6月末までに約300万円の募金が集まり、今後はクラウドファンディングなどを行いながら目標達成に向けて頑張りたいと挨拶した。