newtitle
 
画像03が表示されない

画像04が表示されない


竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

ご挨拶 米沢日報復刊70周年米沢日報デジタル配信10周年


 ーデジタル化の波がニュース報道の世界を変える時代ー
            
         米沢日報デジタル 配信元
         米沢日報デジタル新聞「米沢日報」発行元
                株式会社置賜日報社 代表取締役社長 成澤礼夫

narisawa 秋冷の候、皆様ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。そして、日頃、当社の報道業務に対して、ご指導、ご鞭撻を賜り誠にありがとうございます。
 今年、令和3年(2021)は、米沢日報復刊70周年・米沢日報デジタル10周年の節目を迎えました。
 ここで米沢日報をめぐる歴史を簡単に紹介したいと思います。「米沢日報」は明治40年に政友会系の新聞として米沢で発行されていた「米沢実業新報」が「米沢日報」に題字を変更したことで初めて使用されました。以降、大正6年、大正8年の二度にわたり米沢大火に見舞われ、社屋や印刷機械が全て焼失し休刊の止むなくに至りました。ただし、この当時の新聞と現在の米沢日報は、資本、そして人的なつながりはありません。米沢日報という題字を掲げていた先輩たちがいたということを紹介しております。
honda 先の戦時中は印刷用紙などの物資の統制があり、一県一紙という情報統制時代となります。戦前、山形新聞、終戦直後から米澤新聞で記者をしていた本田昇二郎氏は、昭和25年、株式会社中奥日報社を立ち上げ、以後10年にわたって中奥日報紙を発刊しました。
(写真右=ライシャワー駐日米国大使を米沢市に迎えた本田昇二郎氏、「仏教の治生産業」より転載)

 本田氏と当時の社員をめぐるやりとりなどを見ると、本田氏の大らかな性格や当時の世相を感じ取ることができます。本田氏は社長在任期間中に1期山形県議会議員となっています。
 本田氏が発行した本に、「仏教の治生産業」がありますが、この本を当時のライシャワー駐日米国大使に贈呈したところ、大使がわざわざ米沢に来て本田氏と会談し、その時の写真が本の中に掲載されています。米沢日報復刊30周年の際には、本田氏が記念式典、祝賀会に出席しました。現在の米沢日報の号数は、この中奥日報からの累計となっています。
 昭和36年、中奥日報紙の社員を引き継いたのが桑島茂氏で、米沢織物の社長が新聞社社長と異色の人物が経営にあたりました。この時に新聞の題字を再び「米沢日報」に採用しました。この当時、米沢ではテレビはまだ本格的には普及しておらず、新聞がマスコミを代表するものでした。桑島氏の同級生に吉野正八氏などがいて、当時の青年たちが新聞発行に大いに燃え、米沢の言論を盛り上げました。
 米沢納涼水上花火大会は、昭和37年に「県南広告花火大会」としてスタートしたのが前身で、これも吉野正八氏のアイデアでした。しかし、この当時の新聞は、記者が書いた原稿を活字工が一字一字逆さになっている活字を拾い、版を組み印刷するという現在から考えれば、途方もない労力を必要としました。したがって多くの社員を抱え、人件費の負担で経営は苦戦を強いられ、ついに力尽き、桑島氏の米沢日報紙は3年余りで休刊となります。
 その米沢日報紙を引き継いだのが、衣料品店みどりやの社長だった虎井義明氏です。虎井氏は「みどりや新聞部」として新聞発行を継続し、後に同社社員だった鈴木朝吉氏が代表となり、虎井氏から引き継ぎました。
 昭和49年、「みどりや新聞部」の組織から、株主を集めて「米沢日報」を題字とする株式会社置賜日報社が設立されました。社長は坂田勇吉氏です。坂田氏はこの頃、米沢では米沢日報を含めて一時日刊紙が3社体制となり、経営的に極めて厳しい状況だったことから、昭和52年、紙面サイズを大判からタブロイドに変更し、かつ日刊紙から週刊紙とし、編集・印刷を外部の印刷会社に委託することで、編集・印刷部門の大幅な合理化を図りました。タブロイド、週刊紙化にあたっては、東京で発行されている夕刊フジを見た虎井氏のアドバイスがあったと聞いています。
 坂田氏は、元中学校社会科教員というキャリアを活かし、政治、社会面で鋭い切り口で論評を加え、特に「参吉の目」のコラムは、自由奔放な内容で書かれてあり、読者の人気を博しました。また選挙報道では各選挙事務所をくまなく回り、候補者との個人的な関係もあって、選挙情勢分析は一目置かれる存在となりました。
 酒井巖氏を会長として、「置賜の発展を考える会」を置賜日報社内に事務局を置き、置賜の首長、議員、市民に参加してもらって「ビジョン討論会」を開催し、広域合併による置賜の自治体の地域間競争力の向上を訴えましたが、平成8年6月、坂田社長は志半ばで急逝しました。
zadankai その後を受けて、平成8年9月、成澤礼夫が第六代社長に就任しました。米沢日報紙の現状分析を行い、編集をDTP自社編集に切り替え、タブロイドから大判印刷に変更し紙面の充実を図りました。
(写真左=米沢日報の歴史座談会)
 しかしながら、読者層の高齢化に伴う購読部数の減少が予想され、新聞を取り巻く環境は年々厳しくなり、米国ではインターネットの普及による地方紙の廃刊が聞かれるようになりました。
video そのため、平成26年9月をもって、週刊新聞「米沢日報」の定期刊行を休止し、平成27年1月から「米沢日報デジタル」(前身は平成23年1月1日より正式配信を開始した米沢日報ウェブニュース)というインターネットを用いた動画でのニュース提供をする方式に切り替えました。
(写真右=ニュースをビデオで取材)
 その後、新聞米沢日報も「米沢日報デジタル」を補完するものとして、年に4回程度発行しています。
 令和2年1月以来の新型コロナウイルス感染症の影響により、社会、行政が急激なデジタル化に変わってきました。今後のデジタル社会を見据えて、当社としてどんな技術が必要とされるか、それに向けての設備導入も必要となってきています。
hp(写真左=米沢日報デジタルのホームページ画面)

 私、成澤礼夫は、平成8年9月に株式会社置賜日報社社長に就任させて頂いてから、令和3年9月をもって満25年となりました。これまでの皆様のご支援、ご厚情に改めて厚く御礼を申し上げ、挨拶といたします。

                      敬具


【経営理念】

一、新聞人としての良識と誠意をもって、
  広く社会の文化の向上に貢献する。
一、厳正中立の立場を堅持し、読者の期
  待と批判を真摯に反映した紙面を通
  し、地域のオピニオンリーダーとし
  て活動する。
一、読者、スポンサーをはじめ全ての顧
  客との相互の発展を期する。
           平成8年9月制定

(2021年11月5日米沢日報紙掲載)