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上杉家執政として米沢藩初代藩主上杉景勝を補佐した直江兼続403回忌供養法要が、祥月命日に当たる令和3年12月19日、米沢市中央5丁目にある東源寺(楠 裕行住職)で開催され、約20人が出席した。主催したのは、直江兼続の顕彰活動を行っている米澤直江會(梁川勇二会長)で、米沢市内のほか、神奈川在住の歴史ライター今福匡氏や東京からの参加者もあった。
法要に先立って楠裕行住職が挨拶し、「景勝公は1619年12月19日に逝去され、今年で403回忌になる。400年を超えて法要ができるというのは奇跡。3年前に仏教が信仰されているチベットを訪れたが、チベットでは輪廻転生、来世に生まれ変わるために人々は現世で功徳を積んでいく。生まれ変わるという信仰のために先祖供養なく、亡くなったら鳥葬で遺体は鳥が全部食べて何も無くなってしまう。日本は火葬して遺骨をお墓に埋葬し先祖供養をする。自分の寺では400回忌法要のために関係者が集まると話すと、チベットの人は理解不能だった。先祖供養は日本に仏教が入る前からこの感覚はあったと聞くが、これは日本の文化になっているのではないか。先祖を大事にして今を生きる、この考え方は大事かと思う。
戒名には、お釈迦様の弟子としての証として意味のほか、その人物の大事な生き様を伝えるメッセージになっている。その戒名は地域のために、皆のために頑張ったから付けられたと思えば、そのメッセージから私たちが生きるためのヒントを与えられる。」と挨拶した。
続いて楠裕行住職が読経供養を行い、参列者は次々と焼香を行って兼続の冥福を祈った。
直江兼続は元和5年(1619)12月19日、江戸桜田にある鱗屋敷で享年60歳で亡くなり、菩提寺だった米沢の徳昌寺に葬られた。寛永14年(1634)にお船の方が逝去すると直江家は断絶し、その後、徳昌寺は破却され、直江兼続夫妻の墓は米沢の林泉寺に移された。
兼続の戒名は、林泉寺の位牌では「達山全智居士」と刻まれてあり、逝去当初よりのものと考えられるが、東源寺のものは「英貔(えいひ)院殿」という院殿号が冠せられていることから、兼続100回忌法要の際に追贈されたものと考えられる。兼続の直属家臣団である与板衆は、この東源寺で兼続の法要を行ってきた。東源寺には、他に兼続の妻、お船の方、兼続の息子、平八景明の位牌が置かれている。
東源寺の現在地は徳昌寺が破却された後に、兼続の家臣平林家が下屋敷だった土地を寄進して建立されたもので、東源寺は元々、現在の長野県飯山市にあり、開基は兼続の母の実家尾崎家である。