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竹田 歴史講座

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火種塾「米沢藩 中・下級藩士の仕事と家計」をテーマに
 


1 鷹山公と郷土の先人を顕彰する会(先人顕彰会、小嶋彌左衛門会長)が主催する「火種塾」が、令和4年11月6日、米沢市の我妻榮記念館で行われた。
(写真右=講演を行う佐藤正三郎氏)
 今回は、米沢市上杉博物館学芸員の佐藤正三郎氏が「米沢藩 中・下級藩士の仕事と家計」と題して講演を行い、上杉博物館がこれまで開催した展覧会の中で、「戊辰戦争と米沢」(2018年度特別展)、「米沢藩 武士のお仕事」(2019年度)、「米沢城 上杉氏の居城」(2020年度特別展)、「上杉鷹山の生涯 藩政改革と家臣団」(2021年度特別展)などの調査研究に携わり、米沢藩の組織、階層と序列、機能などの究明の必要性を感じたと述べた。中・下級藩士の「仕事」の理解するポイントとして、階層と序列、番方における「軍役」という仕事、役方を整理し、軍役の仕事は戦闘とそれに準じる供奉や警護があったとした。
 米沢藩の階層は、最上位である「侍組」(96人)、中堅の「三手組」(約900人)、下級だが実務を担う「三扶持方」(約700人)と「三扶持方並」(約300人)、部下の「訴文組」(約1,100人)、兵隊の「足軽」(約1,900人)から構成され、侍組は俸禄が1,600石〜200石、足軽は1人扶持2石が多い。1人扶持とは、武士1人(家族も含め)の生活を維持するのに1日5合の米と算定し、1か月に1斗5升、1年に1石8斗が支給されるが、米沢藩では寛政11年(1799)より1石5斗6升に変更された。「訴文組」というのは、自分の名前で直接藩に申請が可能か否かで、「否」の場合は、上役を通すことが必要な階層だった。服装も階層による区別があり、陣笠は平笠が中級以上、とっぱん形(三角形)が下級だったが、戊辰戦争の際には袖に階級章が使われたと述べた。
 また米沢藩は、戦闘を前提とした組織と部隊編成になっていて、侍組、三手組は各組内から頭(隊長)を排出し、戦闘の中枢を担い、三扶持方以下は、各組から頭(隊長)が選ばれ配属されたが、それは補助的な役割だったとした。
2 俸給の扶持は、基本給+役職に伴う加増(手当)で、下級藩士は当主以外の次、三男などは他家に養子に入ったり、苗字を買収して扶持を複数得るなどが行われたという。
(写真左=講演の参加者)
 藩士の数が特に多かった米沢藩は、特定名目の低利貸付が行われた。それは武具修繕、鉄砲購入、軍馬購入、江戸勤番、産業振興のためで、これは「公的ローン」とも言えるもの。また内職として筆づくりが行われて、扶持の数倍の売上を上げる者もいた。また広い武家地邸宅の一部に借家人を置くという借家経営が行われ、米沢藩では人数は規制したが禁止はなされなかったという。これは武家奉公人(行列時の従者や家庭内労働力)の確保にもつながった。
 藩士が金融に関わるケースもあり、借用証文類が見受けられるという。例えば、幕末の志士と言われる雲井龍雄が書いた債権取立と帳面付が残されている。組単位での積立金の存在があり、御用使者勤などで上京を命じられた時に借りるお金として、これは相互扶助の意味合いがあった。
 佐藤氏は、今後は一家庭単位で家計全体を把握できる史料を探したいと話した。おばあさんが残した「黒井文書」以外、現在は確認されていないが、近年は収集資料が増加していることから発見の可能性もあると述べた。中・下級の米沢藩士の具体的な仕事や暮らしぶりを知ることができる、とても興味深いテーマの講演だった。