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竹田 歴史講座

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(一社)支倉常長日西文化協会が10周年記念講演会
 

 米沢市を拠点に活動する一般社団法人支倉常長日西文化協会(九里廣志理事長)の10周年記念講演会が、7月2日、米沢エクセルホテル東急で開催された。
 2014年、伊達政宗の命を受け、支倉常長が率いた「慶長遣欧使節団」がスペインに派遣されて400年となり、「日本・スペイン交流400年事業」がスペインで盛大に行われ、その際、「支倉常長生誕の地 米沢」を紹介してもらうため、米沢市長は東北のアーティスト「soul & beat 天地人」に親書を託し、マドリッドなど4都市市長に届けられた。これを契機に実行委員会が立ち上がり、2015年に「支倉常長誕生祭」、2016年に「日本スペイン文化交流フェスティバル2016」、2017年に協会の設立へと至り、以降、毎年、グローバルな文化交流活動を行っている。

1 この日の講演会には、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)館長、東北大学名誉教授の平川新(あらた)氏が招かれ、「伊達政宗と支倉常長の冒険ーその世界史的前提ー」と題して1時間余りにわたり講演を行った。(写真右=平川新氏)
 この中で平川氏は、15〜17世紀の大航海時代の世界情勢について触れ、スペインとポルトガルが世界各地の進出先で衝突し、1494年にトルデシャリス条約で、アジア・アフリカはポルトガル、アメリカや南米(ブラジルを除く)、太平洋のほとんどをスペインの支配領域として棲みわけを行ったことや、1529年にサラゴザ条約でアジア極東の線引きを行い、日本は両勢力が支配権を主張したことなどを説明した。
 豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発布したが、この背景には来日した宣教師たちが、キリシタン大名の服従、領民・家臣の改宗強制を行うなど、日本征服の野望を露わにして、それに秀吉が怒ったからだとした。
 関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、スペインと貿易は行いたいと考えたが、日本の防衛のため禁教令を出した。一方で、伊達政宗は貿易のために宣教師の派遣を求めたこととは矛盾するとした。平川氏は「伊達領を今でいう貿易特区にしてメキシコ貿易を実現したいと考えた」とその矛盾の理由を述べ、家康がなぜ禁教令に反する政宗の計画を承認したのかについては、大阪に豊臣勢力が残存しており、家康は政宗と豊臣方の連携を懸念、家康の弱みを突いた政宗の大胆さがそこにはあったと述べた。
2 支倉常長は1613年、サン・ファン・バウティスタ号に乗り、牡鹿半島からメキシコに向けて出帆し、1615年1月、スペイン国王に面会、その後、ローマ教皇に会った。スペイン国王の回答は、政宗の求めに応じて宣教師を派遣するが、日本が布教を許したら貿易を認めるというものだったから、1920年、出帆から7年後に支倉は無念の帰国となる。政宗にはメキシコ貿易を実現できず、布教だけを容認することはメリットがなく、直ちに領内に禁教令を布達することにつながった。
 平川氏は、遣欧使節団の歴史的意義として、支倉のもたらした海外情報が幕府の鎖国政策に大きな影響を与えたことから、「鎖国への大きな転換点を作りだした」と述べた。ただそれは鎖国という閉鎖的なイメージではなく、「徳川幕府は出入国管理をコントロールした」という違った歴史の視点を示した。
 スペインが日本を軍事的に支配できなかった理由は、豊臣秀吉が朝鮮出兵に15万人も動員したという巨大軍事国家の日本をヨーロッパ人が見たからであるとした。
 イタリアのボルゲーゼ美術館が所蔵する支倉常長肖像画には、指輪やインド産生糸の絹織物の衣装を身につけており、和の文化と西洋の文化を自らの身体で融合させた姿が描かれてあり、柔軟で機転のきく、明るい性格だったと述べた。