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竹田 歴史講座

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結城豊太郎のひ孫、青木裕子氏(中央大教授)が講演


1 令和5年度結城豊太郎記念館友の会研修・講演会が6月3日、南陽市のえくぼプラザで行われ、結城豊太郎のひ孫で、現在、中央大学法学部・大学院法学研究科教授の青木裕子氏が、「曽祖父結城豊太郎からのメッセージ〜父青木明が受け継いた書などから見る曽祖父の人柄とその時代〜」と題して2時間にわたり講演した。当日は結城豊太郎記念館友の会会員ら約60名が参加した。(写真右=講演する青木裕子氏)
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4 結城豊太郎は7子に恵まれた。裕子氏は四女康子氏の孫に当たる。裕子氏は2017年より記念館主催の中学生ふるさとづくり作文コンクールの特別審査員を務めている。裕子氏は政治思想史が専門で、18世紀のイギリスの啓蒙思想、とりわけ、スコットランドの歴史、哲学者アダム・ファーガソンの研究、著作など多数。博士(学術)
(写真左=結城豊太郎 写真提供 南陽市立結城豊太郎記念館)

 はじめに裕子氏は曽祖父結城豊太郎から父昭氏の時代に至る家族の写真を紹介し、昭氏は昭和6年生まれで東京大学卒業後、日本銀行に入行、ニューヨーク支店長、大阪支店長を歴任、同行理事を務め、日本証券金融株式会社社長、会長を務め、曽祖父と似たキャリアを積んできたと紹介した。
 裕子氏が講演会にあたり調べた結果、昭氏の人柄などが結城豊太郎に非常によく似ているのを知ったことは収穫だったと述べた。また祖母は1993年に亡くなったが当時の結城家や親戚などを鑑みると、結城家には独特の気風や文化があると感じたそうだ。それは「進取の気風」であり、「リベラル」、「国際的感覚」だとした。他に結城家の人たちは、皆率直な物言いが特徴で、結城家の姉妹はとても賑やかおしゃべりで有名だったという。
2 さらに曽祖父と父の特徴として、お茶や中国の古典的文化が好きだったことや、ハイカラだけれども日本文化をこよなく愛したことも似ているとした。昭氏がニューヨーク支店長を終えた頃に、赤湯に初めて来たが、その頃に南陽市の工藤宗一郎先生(元南陽市結城豊太郎記念館館長)にお世話になったという。結城豊太郎記念館が今の形になった時に、工藤先生から色々な相談があり、工藤先生や顕彰会の方がたの尽力で立派なものができたと述べた。裕子氏が初めて赤湯を訪れた時に工藤先生と会ったが、その時に印象は「古武士のような人」で、工藤先生が若い時に結城豊太郎と一緒に汽車での長旅をした話の中では、結城豊太郎は寡黙な人だったというエピソードを伺ったそうである 。
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 裕子氏は結城豊太郎の性格として、「情愛の深い人」だったと述べた。特に若者たちに対してとても熱いメッセージを残したとして「金融財政事情」という冊子に掲載された記事を紹介した。そこには「真の若者たれ」と題して、「若い人に何を望むか。愛する者に世と人を見つめることであると言いたい」と述べ、「若者らしい若者が少ない」と嘆いていることを紹介した。
 裕子氏は、普段大学生と接しているが、これを読むと考えさせられ共感できるところがあるという。それは学生がとても周りの空気を読もうとし、先生に従順で忖度し自分の率直な意見を言わない、周りと合わせようとする学生が多いと感じる点である。だから曽祖父が言っていることは時代を超えて今も共通すると考える。それは若者に限らず、社会全体がそのような風潮になっているのではないかということである。
 それでは曽祖父が「真の若者たれ」という場合、どのような人であるべきかと言おうとしたのか。裕子氏は「他の人がどう思うかということではなく、まずは自分がどのように考えるか」を大事にして、自ら判断、行動する人ということではないかと述べた。周りの人の出方ではなくて、忖度でもなくて自分の正しさを追求する人ということを言いたいのではないかと考える。
3 さらに結城豊太郎は赤湯や米沢藩という故郷に対する愛情が深い人だったとした。明治、大正、昭和初期に活躍し偉くなった人にも関わらず、あまり官僚的な冷たい感じがしない。物事を型通りに見るとか、ステレオタイプ的ということからはかけ離れた人だったとし、とても反骨精神があって体制側の人だけれども、雲井龍雄のような体制側に抗う人が好きというところがあったと述べた。曽祖父結城豊太郎が発するいろんなメッセージには、「自由な心を持ち、志の高い立派な人になれ」というメッセージが多いとした。
 令和5年8月1日(火)8時30分から9時まで、南陽市にある東正寺で結城豊太郎墓前祭が営まれる。結城豊太郎記念館友の会会員らは命日に墓参し、遺徳と業績を偲ぶことにしている。(写真左上=結城豊太郎の墓、東正寺)