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竹田 歴史講座

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文教の杜ながい、池田月潭の人と作品の魅力を語るトーク

4 今年が没後100年となる画人池田月潭(げったん)の作品を紹介する「野に生きた絵師 池田月潭没後100年展」の最終日にあたる10月9日、月潭の人と作品の魅力を語るトークイベントが長井市十日町にある文教の杜ながい(旧丸大扇屋)で開催された。
 池田月潭(本名 龍治)は明治14年、元庄内藩士の子として東京神田に生まれ、明治28年、村田丹陵に師事し、明治36年11月、「能楽羽衣図」が日本美術協会主催美術展覧会で褒賞三等を受け、この頃から桐生、長野、鶴岡など各地で画会を開く活動を始め、弟(龍三)が仕事の関係で長井町(現長井市)に住んだことから、長井市には今も月潭の作品が数多く残されている。

1 トークイベントには、東北芸術工科大学准教授の金子朋樹氏と、月潭の縁戚にあたり、これまで月潭の調査、研究を行ってきた池田道正氏(鶴岡市在住)の2人が、1時間半にわたって月潭の魅力を紹介した。
 はじめに、道正氏は平成23年、月潭の弟の孫にあたる池田道晴氏(仙台市)からの問い合わせで、月潭の調査、研究を始めるきっかけとなったと述べた。両家は縁戚にあたり戦後もつながりを持っていた。
 当初は月潭という名前を調べても何も出て来なかったが、道晴氏所蔵の月潭遺品の中に「絵画番付」というものがあり、そこに名前が掲載されていたほか、他の美術冊子でも月潭がトップの方にランクされていることを知った。美術界からはかなり有望な画人という評価がなされていたことを初めて知ることになる。
2 道正氏は、道晴氏にお願いして除籍謄本を取得、お寺の行き過去帳を調べ、学校に行って学籍簿を見せてもらったりと、月潭の生涯についての年表をまとめることができた。
(写真左=トークを行う池田道正氏〈左〉)と金子朋樹氏)
 また月潭は几帳面な人で、亡くなる年の大正12年1月1日から8月23日まで(同年9月1日に東京で関東大震災に遭遇し、それがもとに11月に死去する)の懐中日記を残している。そこには、誰が月潭を訪問したかや、どこに行ったかなどが記され、月潭の日常生活を垣間見ることができたことや、「揮毫休む」などとあり、作品作りを休んだ日が月に、1、2度あったことが書かれてあった。月の大半は「揮毫」と書いてあることから、1年に300点から350点を描いたとすると、10年で3700点を描いたのは間違いないと道正氏は述べた。
 また月潭の人となりを紹介し、
1. 愛好家の需めに応じ続ける生活をする人
2. 愛好家と月潭を結ぶ人たち(美術商、表具師)との交流を大事にする人
3. 家族をいつも見守り、暖かく寄り添う生活をし続ける人
だったとした。
 道正氏は、月潭が(関東大震災に遭わずに)長生きしたとすれば、別の方向(質)に進んだのではないかと考えられるが、その矢先に亡くなったと述べた。また鶴岡市にある長福寺の天井絵にはユーモアがあると述べ、作品の半分以上が鶴岡市湯田川(温泉地)にあった遊郭の名字が描かれていることを紹介した。

3 金子朋樹氏は、明治時代、日本に「洋画」が流入し、西洋顔料も入り、「日本画」と「洋画」という制度ができ、明治から大正の美術界は、日本画と洋画の狭間で揺れ動いたとし、その結果、月潭を含む多くの画家たちが画材や画題で実験的な試みを行うことになった時代背景を説明した。
 また月潭の作品からは、中国の北宋時代の北宋画、南宋時代の南宋画の影響、また「画の六法」といわれるもの、遠近法の「三遠」の技法が感じられるとし、特に「富士巻狩」の絵には遠近法が生かされていると述べた。他に月潭は、あえて中心をずらして余白を作り、画面の中にリズムと呼吸を生み出し、とりわけ「常盤御前」を描いた作品は余白の取り方が非常に巧みだとした。
 さらに月潭の作品からは、逡巡(迷い)もあるとする。少し西洋的手法で描いてみたいという思いもあってか、墨で地面を着色したものがあるほか、染料、顔料、墨を混ぜて絵の具に使用いるものがある。緑色を描くために緑青(ろくしょう)を使っているが、当時としては緑青は非常に高価な絵の具だったと述べた。