戦後の米沢における児童文化や地域の文化の発展に大きな足跡を残し、山形県の最高文化賞である齋藤茂吉文化賞、米沢市功績賞などを受賞した故髙森務氏(1909〜2016)の業績を紹介する「髙森務回顧展 子どもたちとふるさと米沢のために」が、8月3日(土)から8月22日(木)まで、よねざわ市民ギャラリー「ナセBA」で開催されています。
会場入口には、髙森務氏と一緒に長い人生を歩んだ人形「青空雲右エ門」が紹介され、その誕生が戦争と深い関わりがあったことを述べています。
現在の松が岬公園招魂碑の場所に、昭和32年にオープンした「児童センター」は、観覧車や豆電車、空中ブランコなどがある当時の県内で唯一の本格的な遊園地で、中村隆行氏によるペーパークラフトで、児童センターがリアルに再現されました。
昭和36年から高畠町立屋代小学校校長として勤め、学校図書室に「ひろすけ文庫」を設け、米沢で「広介先生を偲ぶ会」を設立、広介童話を広めたほか、ひろすけ文学碑を各所に建立しています。
昭和33年には、吉野正八氏の発案であ「米沢こども新聞」が発刊され、昭和38年、米沢児童文化協会が設立され、新聞の発行を担いました。
歴史関係では、髙森務氏らが中心となり復活した「直江会」で、直江兼続の顕彰と市民への啓蒙活動を行いました。自らの人生を振り返った「生まれ育って90年」など、著作も展示されたほか、自らが作詞・作曲した曲も紹介されています。沖縄の人たちとの交流も多くの写真で紹介されました。
昭和21年に、米沢青年文化連盟が、画家の黒澤悟郎氏と高森務氏が中心となり発足しました。昭和24年には、米沢美術連盟が結成され、疎開中だった桜井祐一氏(彫刻)、遠藤桑珠、福王寺法林(日本画)各氏らとともに髙森氏も運営にかかわり、3人が上京する中で、髙森氏は同志と米沢で美術グループ「緑光会」を結成しました。会場には、髙森氏が描いた水彩画や緑光会会員の作品も展示されています。
平成28年に106歳で逝去し、今年没後8年となる髙森務氏ですが、今なお、米沢市民に大きな影響を与え続けています。同氏を慕う友人や遺族らが所蔵する絵画や資料など約200点を展示しながら、同氏が米沢の文化の進展に果たした多くの活動を紹介する内容となっています。