慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、新政府軍の攻撃を受けた会津藩は、藩主の命により堀粂之助と吉村寅之進を奥羽越列藩同盟の一員であった米沢藩に派遣しました。2人の藩士は9月3日米沢に到着して援軍要請を行いましたが、米沢藩はすでに新政府軍に対して降伏恭順を決定していたため、この求めに応えることができず、9月5日、堀粂之助は君命を果たし得なかったとして宿にもどり自刃しました。
11月9日、NPO法人雲井龍雄顕彰会(屋代久理事長)が主催する第21回堀粂之助墓前祭が米沢市大町4丁目にある龍泉寺で行われ、吉村寅之進の子孫である荻昌弘さん(札幌市在住)や同顕彰会会員ら15名が参加しました。墓前祭では、龍泉寺住職による読経、堀粂之助の辞世の句が吟じられ、参加者は堀粂之助の遺徳を偲びながら次々と焼香しました。
墓前祭に続き、ホテルモントビュー米沢において、米沢市上杉博物館学芸員の佐藤正三郎氏が「堀粂之助に関する書簡と、その時代背景を考える」と題して講演を行い、会場の参加者と質疑応答を行いました。
また、荻昌弘さんが仙台藩に援軍を求めに行ったとされる吉村寅之進の米沢以降の足取りとして、寅之進の父親が筆記したものが見つかったとして紹介しました。それによれば、吉村寅之進は仙台藩に行ってのち、会津に戻り、会津城で敗戦を迎えたとされています。