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竹田 歴史講座

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11 山形県河北町、東根市、村山市をめぐる戦国時代

          文・写真  米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形
 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。
 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。


一、はじめに

 現在の山形県河北町、東根市、村山市の周辺の戦国時代の歴史を調べたいと思い、城跡や城主の菩提寺などを巡り歩いた。地方の戦国武将の動きを見ると、それは中央の幕府の動きと連動する部分がある。群雄割拠の状態だった戦国時代の武将たちが自分の支配地を拡大するために、いかに武力、陰謀、策略を用いて、争いを繰り返していたかの歴史でもある。

二、東根城をめぐる争い

6 現在の山形県東根市周辺は、鎌倉期から南北朝期にかけては小田島氏の支配下に置かれていたが、南朝方であった小田島氏の退潮により、応永2年(1395)最上氏の一族天童頼高が入部して東根氏を称し7代続いたという。
(写真右=東根城本丸跡、現東根小学校)
 最上八楯(延沢氏・尾花沢氏・飯田氏・楯岡氏・長瀞氏・東根氏・成生氏・六田氏)の盟主である天童氏は、10代頼久の時に有力国人衆である延沢氏、成生氏等の離反により、天正12年(1584)10月山形城主である最上義光の攻略によって盟主の地位を奪われたが、天童氏は伊達氏を頼り、その家臣となり1千石を封じられ準一家として命脈を保った。
 天童合戦では東根城主東根頼景は、天童城主天童頼久の弟であったため天童氏側に与したものの、家臣である里見氏の叛乱などに遭い、東根城も落城する憂き目にあった。尚、東根氏は別に坂本氏を称したともいう。
 その後、最上分限帳などによれば、後継の一族である里見氏が東根領1万2千石を知行したが、元和8年(1622)、最上氏の家督相続争いに伴い改易され、事実上廃城となり、寛文元年には破却されたと言われている。別名を小田島城とも言う。
5 以後、山形藩領、白河藩領の代官陣屋時代を経て、寛保2年(1742)からは幕府領となり、漆山代官陣屋の出陣屋が置かれた。代官陣屋は東根城跡の二の丸、現東根小学校校庭の南付近に置かれたと推定されており、安政2年(1855)には松前藩の代官屋敷に転じて幕末までその支配を継続した。
(写真左=樹齢1000年を超えるケヤキ)
現在の東根小学校の建つ地が東根城の本丸の跡である。シンボルマークの様に樹齢1000年を超える欅の巨木が本丸跡にある

 縄張りを見てみると案内には村山盆地の北東部、白水川北岸の河岸段丘上に築かれた平山城である。沼地を自然の濠として防御に利用して構築された。城の規模は東西400m×南北500mほど、主郭に推定される現在の東根小学校を中心に、西から南に二ノ郭、東側に三ノ郭を配した。北側に外郭が廃されていた。
 東根氏は、清和源氏新田流里見氏天童氏の一門で、初代は天童頼直の子、東根頼高。宗家の天童氏は戦国時代に最上氏から自立するようになり最上義光の時代には最上八楯を形成し、東根氏もこれに加わる。特に東根頼景は天童氏から入っており、結びつきを強めた。しかし最上八楯は後に最上氏に敗れ、東根氏も里見景佐の裏切り(最上義光方に付く)による内部崩壊の末、壮絶な討死をする。
  慶長出羽合戦後、東根氏は山形藩重臣として東根城1万2千石を与えられた。1620年の景佐の死後、子の東根頼宣が継いだ。この時、景佐の遺書に⎾最上家はあと3年しか持たない⏌といった内容の事が記述されることに注目されていた。そして彼の予言通り、2年後の元和8年(1622)、最上氏は改易され、東根氏は後に徳島藩蜂須賀氏に仕えた。

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三、清和源氏の流れを組む里見景佐の墓

7 里見景佐は天正12年(1584)8代目の東根城主となり、元和6年(1620)12月に没した。翌年、景佐の嫡男である親宣により五輪塔が建立された。
 宝形造の覆堂は元禄5年(1692)に建造され、東根市内では最古の木造建築である。里見氏は清和源氏の流れで、鎌倉時代の中期以降、北条氏が執権として実権を握り、三浦氏や安達氏などの御家人と対立した時期に、寒河江に下向した大江氏と同様に、里見氏も出羽に下向したものと考えられる。
 その後、天童に拠点をおいた里見頼直は天童氏を名乗り、その子頼高を東根に分封した。宗家の天童氏は戦国時代に最上氏から自立するようになり、最上義光の時代には最上八楯を形成し、東根氏もその一翼を担っていた。特に東根頼景は天童氏から入っておりその結びつきは強かった。
 しかし、一族は一致して結束していたわけでなく、東根城は最上義光に攻められて落城した。最上派だった里見景佐は義光に臣従し、出羽合戦でも功を挙げ、戦後山形藩重臣として東根城1万2千石を与えられ東根氏を名乗った。景佐は東根城主になると城を大規模に改修し城下町も整備、現在の東根市の基礎を築いた。元和6年(1620)景佐の死後は子の親宣が継いだ。
 里見家の菩提寺は養源寺という。創建は元弘3年(1333)に猪野沢の山麓に堂宇を建立した事が始まりとされ、軌叟宗範和尚が開山した。寺号は初代東根城主坂本頼高(天童頼直の4男)の法名養源寺殿華屋椿公大居士に因む。歴代東根城の城主から庇護された。一時荒廃したが慶長9年(1604)に現地東根城の三の丸に移り、里見景佐が中興開基となり里見家の菩提寺とした。

四、最上家改易後に東根に土着した横尾家

 横尾家の祖先は戦国時代現在の山形県全域を支配した最上義光の重臣で長谷堂城を任されていた志村伊豆守光安である。志村光安は慶長5年(1600)長谷堂城攻防戦で上杉家執政の直江兼続率いる圧倒的な兵力の上杉軍から長谷堂城を守り抜き、その後も上杉軍追撃戦や、庄内地方の上杉軍掃討戦にも従軍し、その功により東禅寺城3万石を与えられた。
 元和8年(1622)に最上家がお家騒動で改易されると志村家の本家筋(山形藩の家老を歴任し最終的には水野家の第一家老となっている)や重臣達が他家に預かりの身になる中、志村家の一族の内一家が横尾家と名を変え東根城の三の丸にあたる当地に土着し、代々郡中総代名主を勤めた。
 明治以降も地主として大きな影響力を持ち、明治21年には醸造業を興している。現在でも座敷蔵や酒蔵などが残り、中庭には当時酒造りに使用された⎾梅ヶ枝清水⏌がこんこんと湧き出ている。

五、普光寺の鐘

 普光寺の鐘は正平11年(1356)に当時の東根城主である小田島長義が寄進した。普光寺の鐘の鋳造は大工左エ門大夫景弘で願主は比丘紹欽、住職は比丘閑叟希孚、大檀那は小田島長義。正平11年6月24日に奉納、形状や工法から平安時代から鎌倉時代にかけての鐘の特徴が見られ製作年代が明確な梵鐘のでは山形県第2位の古さを誇る。高さ1m、口径70㎝、乳状突起5列5段四方、銘文は四字一句で七陽の韻、陰刻、唐草文様は陽刻。普光寺の鐘は製作年代が明確で意匠にも優れて貴重な事から昭和16年に国重要美術品認定、昭和52年に山形県指定有形文化財に指定されている。

六、三浦一族佐原氏の系統とも伝承される小田嶋氏

 小田嶋長義は南北朝・室町時代前期の武将で、小田嶋荘の地頭だった。長義の父は時季といい、父の兄弟には義春や義行らがいた。小田嶋氏は平姓であり東根の伝承に残る三浦一族佐原氏だとしている。
 小田嶋荘の地頭職は小田嶋義春以降、子の政義・孫の宗義と相伝されたらしく、この二人は鎌倉にも出仕していたようだ。長義には彦五郎という子がいたが、事蹟は不明。長議の一族は中条氏の流れをくみ、執権との閨閥関係から小田嶋氏を初め刈田氏、和賀氏とともに北条氏の側近、いわゆる御内人として東国に地頭や領主とし配置され、現地に大きな基盤を敷いていったという。
 建武2年(1335)に足利尊氏が反旗を翻して南北朝の内乱へ突入する。奥州としては北朝が優勢だったが、出羽国はまだ南朝勢力が相当の力を持っていて大江氏、北畠氏は羽黒山の衆徒と結んで勢力が強大だった。小田嶋長義は南朝方に好意を寄せていた。長義は興国7年(1346)に鎌倉から東根城に移り住み、正平2年(1347)に城郭を修理した。

七、山形城主最上満家が隠居した長瀞(ながとろ)城

17 築城時期、築城主体ともに不明。伝承では建長年間(1249―1256)頃、西根氏により築かれたという。又応永31年(1424)山形城主最上修理大夫満家が嫡子の左京大夫頼宗に家督を譲って長瀞城に隠居したと伝わる。 その後は最上満種や最上満宗の居城になったとも。戦国期には天童氏を盟主とする⎾天童八楯⏌長瀞左衛門尉が在城したが、天正12年(1584)天童城主天童甲斐頼澄が山形城主最上出羽守義光に滅ぼされると、長瀞城も最上勢の攻撃を受けて落城したという。
 その後、長瀞城は最上義光の弟長瀞義保、矢桐相模守が在城し、長瀞城の整備・改修を施したようだが、元和8年(1622)最上氏が改易になると長瀞城も廃城となった。その後、長瀞城址には山形藩鳥居氏の代官陣屋が置かれ、鳥居氏、保科氏と城主は変遷した。
18 寛文11年(1671)、保科氏の会津転封に伴い天領となり、幕府が元締陣屋を置いて直轄した。その後、寛政10年(1798)、米津出羽守通政が武蔵国久喜からこの地に入り、長瀞藩を立藩し、陣屋を新たに築いて米津氏が明治維新まで在城した。
(写真左=長瀞城跡二の丸堀)
 尚、戊辰戦争の際、長瀞陣屋は薩長軍の攻撃を受けて焼失し、明治4年に廃藩置県により廃城となった。縄張りは、長瀞城は村山盆地の中央北部、乱川扇状地の末端微高地に築かれた平城である。城の規模は推定550m四方ほど、主郭を中心に主郭の周囲を二ノ郭、三ノ郭で回字状に囲った典型的な輪郭式縄張りが採用され、それぞれ一の堀、二の堀、三ノ堀で仕切られていた。主郭は規模が150m四方、二ノ郭が300m四方ほど。築城当初、長瀞城は主郭のみの単郭の方形舘と想定される。本丸の中心には後年、本陣が置かれた。尚、三の郭北西部に位置するのは禅会寺である。山門が長瀞城の大手表門だと言われている。

八、最上満家が開山した禅会寺(ぜんえじ)

23 禅会寺の創建は応永22年(1315)、長瀞城の城主最上満家(最上家4代当主)が竹室良巌大和尚(向川寺4世)を招いて開山した。嘉吉3年(1443)満家が死去すると菩提寺となった当寺に葬られたとされ、戒名⎾禅会寺殿虎山威光大居士⏌に因み禅会寺の寺号になった。
 江戸時代初期に最上家山形藩主から改易になると衰微する。だが元禄年間結城九右衛門が再興し堂宇の再建や境内の整備が行われた。山門は長瀞陣屋の大手門とも言われ江戸時代に描かれた絵図と酷似してる事から推察される。本尊は釈迦牟尼仏。

九、溝延城
 
1 溝延城のある溝延は、最上川とその最大の支流である寒河江川との合流点にあり、溝が延びるような地形であることにその地名の由来がある。溝延城は東を最上川、南を寒河江川で囲まれた天然の要害である。
 南北朝時代、寒河江城主寒河江時茂の嫡男茂信が築いた。寒河江城から見て寒河江川を挟んだ対岸に城を築いたのは、当時南朝側に属した寒河江氏が北朝側に属した旧領北寒河江荘の経略を狙った。河北町の歴史によれば、溝延城は茂信が構築した南北朝時代と比較すると、時代が下るにつれてその重要性を失ってゆき、庄内地方と村山地方を結ぶ六十里越街道の村山側出口の要衝白岩城の重要性が高まっていった。そこで室町時代中期の溝延城4代である満教は弱体であった白岩城に入って城を強化するとともに、溝延には叔父尊広の子孝満を容れて実権を城代安孫子氏に与えたという。
 天正12年(1584)、寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると、天正年間のうちに廃城にされたという。縄張りを見ると、溝延地内本丸を中心に築かれた平城で、三の丸まで構成される。本丸の規模は東西145m、南北160m、二の丸は東西312m、南北300mでほぼ正方形をなすが、三の丸の堀跡はあまり鮮明ではない。溝延城が築かれた当初は本丸だけの単郭式方形館だったと考えられている。


十、大久保館

 村山盆地の北西部、最上川西岸の河岸段丘上に築かれた平山城(比高10m)が大久保館である。単郭の城館と推測される。城の規模は東西130m、南北150mほど。築城時期は不明。最上家3代満直の3男満頼が大窪殿と称していたことから、15世紀初頭頃、満頼が村山郡の最上川西岸に所領を分知され、大久保館とした。現在は大久保小学校の校地と一般住宅地となっている。 


十一、白鳥城

3 白鳥氏は前九年の役(1051―1062)で、源頼義・義家父子に討たれた安倍頼時の八男安倍行任が岩手県伊沢郡白鳥町から逃れて、出羽の葉山山麓に潜伏し、白鳥冠者八郎と名乗ったのが始まりとされる。後に山下に居館を構え白鳥郷と名付け、代々白鳥氏と称した。又、寒河江大江氏、谷地中条氏の一族という説や、白鳥郷の館主として勢力を伸ばした国人領主との説もある。
 白鳥氏が史上に現れるのは南北朝時代からで、応永9年(1402)鎌倉公方と9代伊達政宗の戦いでは、最上氏、大江氏共に鎌倉公方方に付いた。羽陽北仙伝記によれば、戦国時代の永正9年(1512)山形城主最上義貞が北進の挙に出た時、白鳥氏は義定に属して出陣したと記されている。白鳥氏は葉山修験の勢力を背景に寒河江大江氏と共存しながら、最上川西岸一帯に勢力を伸ばした。
 天文11年(1542)伊達稙宗・晴宗父子が争った⎾天文伊達の乱⏌の際に、白鳥長久は谷地城に移り勢力を拡大し、天正2年(1574)には最上義光と最上義守・伊達輝宗連合軍の戦いを和解に導いた。勢力を拡大する白鳥氏に対して、最上義光は十郎長久の排斥を目論むようになり、天正12年(1584)は謀略を図り長久を山形城に招いた。義光は病を装い御寝所に案内し、一巻の書を差出した。長久がそれを受け取ろうとした時、抜き打ちに斬殺した。
 その後、最上義光によって谷地城、寒河江城は攻め滅ぼされ、白鳥氏一族郎党は滅亡した。縄張りを見ると、白鳥城は樽石川の左岸、西から東方向に張り出した丘陵先端に築かれた山城で、ピーク部分を主郭に北側に二の郭を配置した小規模な連郭構造の城郭である。主郭の西側は堀切で丘陵基部と遮断し、堀底は北東・南東方向に延ばして城域と丘陵部を完璧に遮断している。主郭の規模は東西30m、南北30mほど、二の郭とは高さ3mの段差で区画され、西側縁部には高さ1mの土塁が築かれている。城から眼下に村山盆地が手に取るように見える。

十二、谷地城
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 谷地城の創建は、弘治年間、中条長昌により行われたとされる。中条氏(ちゅうじょう)は武蔵七党横山党の一族であり、鎌倉幕府の成立に貢献した中条家長を祖とする。評定衆や尾張守護を務め出羽国小田島荘の地頭職を得る。
 小田島荘に入った中条氏庶流は、小田島氏を名乗り南北朝時代を迎える。南朝に与した小田島氏は結城氏の配下に入って小田島荘の代官となったが、結城氏が北朝に寝返ると程なく叛旗を翻し、小田島荘を掌握した。だが北朝の斯波兼頼が出羽に下向し、小田島氏は領地の大半を捨て谷地へ閉塞した。
 応永3年(1396)、留守藤原家継より中条備前守が上田鍋(河北町弥勒寺)を与えられて、応永13年(1406)にも先例により小見郷、小堤郷が安堵されている。ただし、北寒河江荘の吉田・堀口・三曹司・両所・窪目については、鎌倉円覚寺領として、山形に拠る斯波氏の支配下にあった。
 中条長国―長政―長衡―長胤―長昌と、北寒河江荘を支配するが長昌で断絶する。その後、永禄・元亀頃には谷地北方(村山白鳥)の国人領主白鳥氏が勢力を扶植し、天正10年頃まで白鳥長久が城主として城郭を整備した。天正12年(1584)城主長久が最上義光に誘殺されると最上氏の攻撃を受けて落城、最上氏配下の斎藤光則が在城した。
 慶長5年、慶長出羽合戦では庄内から侵攻した上杉軍の攻撃を受け9月18日までに落城。下秀久の支配をうける。10月1日、関ケ原の敗報に触れた直江兼続率いる上杉軍本隊が撤退するも下秀久は籠城し、7日間の籠城戦の末降伏した。直江兼続に余裕がなく、上杉軍の撤退を下秀久に知らせなかったとされる。下秀久はそのことから一時最上氏に仕えたが、後に再度上杉氏の家臣になったという経緯がある。
12 その後、最上氏蔵入地として支配されたが、元和8年最上氏の改易により廃城となった。縄張りを見ると、三重の堀に囲まれた輪郭式平城である。本丸の規模は南北260m、東西120mで土塁で二分される。本丸外側は基底部幅14mの土塁で囲まれている。一の堀は最大幅50mであるが、おおよそ30mである。二の丸は南北500m、東西350mの長方形をなす。一の堀沿いに街路をとって屋敷を配し、二の堀沿いに土塁を積んだ。二の堀は最大幅50mである。三の丸は旧谷地本郷をほぼすべて囲み、水堀跡の低地をなす。今では三社宮が谷地城本丸跡である。ここには土塁が残る。 
 歴代城主➡中条長昌―白鳥長久―斎藤光則―下秀久

十三、最上義光の謀略で殺された白鳥十郎長久

14 東林寺は、河北町谷地乙にある曹洞宗寺院である。東林寺の創建は応永3年(1396)、虎渓良乳禅師により開かれたのが始まりとされる。本尊は阿弥陀如来。当初は白鳥村にあり土豪である白鳥家縁の寺院だった。
 白鳥十郎長久が中条家の領地を引き継ぎ谷地に入部した際、白鳥家の菩提寺である種林寺とともに谷地城の城下町に移された。最上地方に勢力を築きながら、最上義光に謀殺された白鳥十郎の墓は、白鳥氏の菩提寺である東林寺の境内にある。
 戦国期、出羽最上地方は最上氏、寒河江大江氏、そして白鳥氏らが割拠していた。それに米沢の伊達氏、庄内の武藤氏らの大勢力が周辺を拡大しつつ最上地方を狙っていた。白鳥氏の出自に関しては、前九年の役に敗れた安倍頼時の八男行任の子則任の後裔とする説があるが、地元出身の豪族とする見方もあり定かでない。南北朝期には白鳥氏は大江氏とともに南朝方に属して活動、寒河江氏とは緊密な関係にあった。白鳥氏は南北朝期の争乱を生き抜き、戦国期には寒河江氏との関係を維持しながら最上氏と結ぶなど、一定の勢力を保持していたようだ。
 白鳥十郎長久は、最上義光の時代、寒河江氏、天童氏と結び最上氏の圧力に対抗しようとしていた。白鳥長久は先祖伝来の白鳥城から谷地に居城を移し、谷地城を大改修すると同時に城下町を整備し、農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせた。又、家臣を城下に住まわせ市場を開設し、商業の隆盛にも力を注いだ。
 天正5年(1577)、長久は織田信長に名馬白雲雀を献上し、信長はこれをいたく喜び、返礼として書状とともに虎革や豹革などを贈っている。長久は奥羽の地にありながら、中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していた。そして織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとした。このような長久の行動は当然ながら最上義光を刺激した。このとき、義光は天童氏に武力で制圧したが、白鳥氏に対しては、長久の武略を警戒して婚姻による懐柔政策をとった。
15 最上氏と白鳥氏は姻戚関係となり、義光は長久を山形城に招いたが、長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。そのため義光は重病と偽り、⎾今後の事は長久に託したい⏌と再三にわたり長久に使いを送った。
(写真左=東林寺にある白鳥十郎長久墓)
 天正12年(1584)長久は家臣達に反対の声もあったが、ついに山形城に出向いた。義光の枕元に案内された長久は、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられ斬殺された。長久を謀殺した最上義光は、直ちに白鳥氏の家臣らが籠る谷地城を攻めてこれを攻略、ついで白鳥氏と同盟関係にあった寒河江氏も攻め滅ぼし、最上地方を手中にした。

十四、谷地城主白鳥氏のルーツ

 白鳥氏が史上にあらわれてくるのは南北朝の頃からである。⎾後太平記⏌に出羽国の南朝方の武将として白鳥冠者義久がみえており、併せて寒河江小四郎の名も見えている。白鳥氏は寒河江氏とともに南朝方に属して活動、大江氏とは緊密な関係にあったようだ。
 その後、15世紀中頃の康生元年(1455)、享徳の乱に際して幕府が古河公方足利成氏を討伐しようとした。白鳥氏は南北朝の争乱を生き抜き、戦国時代には最上氏に味方して出陣するなどしながら、一定の勢力を保持していた。
 白鳥氏の名を挙げたのは十郎長久である。長久は諸系図などから十郎義久の子に生まれ、⎾出羽風土略記⏌には城取十郎武任とあり、武任の任の一字を用いているのは安倍氏の通字を用いた可能性を思わせる。戦国時代の白鳥氏は寒河江大江氏と関係が強かった。長久の叔父長国の一女は寒河江兼広の妻に、二女は寒河江一族の溝延氏の妻になっている。白鳥氏は南北朝以来の寒河江氏との盟友関係を維持していたのである。多分寒河江氏とは代々姻戚を結んでいたものと思われる。それが白鳥氏の出自を大江氏に結び付ける一因になったのであろう。長久のもう一人の叔父義広の娘は天童氏の妻になっており、白鳥氏は寒河江氏、天童氏と結んで最上氏に対抗しようとしていたようである。
 天文11年(1542)、伊達稙宗と嫡男晴宗の父子が争った⎾天文伊達氏の乱⏌に際して、白鳥某が最上家援軍の仲介の労をとっている。この白鳥某とは、十郎長久であろうと思われる。十郎長久は先祖伝来の白鳥城から谷地に居城を移し、最上地方の戦乱を巧みに泳いで最上・伊達両氏の仲裁をつとめるまでの存在に成長した。谷地城はもともと中条氏の居城であった。戦国時代の中頃には中条氏は断絶した。。その後に白鳥氏が進出したものと思われる。
 谷地城は村山平野を望む要地にあり、谷地城を継承した長久は、城を大改修すると同時に城下町の整備に取り掛かる。さらに長久は農業はもとより諸工業生産の保護奨励にも力を入れ、城下に鋳物師や刀鍛冶、大工などの職人を住まわせた。また、家臣を城下に住まわせたことで、彼等の食糧や生活必需品を賄うため、毎月2と6の日、月に6回市場を開設し、商業の隆盛にも注力した。このような長久の城下町づくり、経済振興策は同時代に生きた織田信長に相通じるものを感じさせる。こうして十郎長久は河北地方を掌握していった。そして長久が勢力を拡大するほどに、一方で戦国大名化していく最上氏との対立は避けられないものへ進展する。

十五、最上義光と対立した白鳥十郎長久

 最上地方の大勢力である最上氏は長く内訌に揺れたが、義光を家督を継承したことで俄かに勢力を拡大し、戦国大名として大きく台頭した。これに対して天童氏、白鳥氏らも戦国大名を目指して独自の領国支配を展開し、天正5年(1577)、長久は織田信長に使を出し、名馬白雲雀を献上している。長久の贈り物に接した信長はいたく喜び、返礼として書状とともに虎皮、紅花などを贈った。長久は奥羽という辺境の地にありながら、よく中央の政治動向に通じ、天下の情勢を的確に判断していた。そして織田信長に従属することで、最上義光に対抗しようとしたのであろう。このような長久の行動は、当然ながら最上義光を刺激し、義光は長久の排斥を考えるようになる。
28 義光は白鳥氏と同様に自立した戦国大名を目指した天童氏は武力によって没落させたが、長久に対しては婚姻策をもって対したのである。おそらく義光は長久の武略を警戒して、婚姻策により長久を懐柔し、機会を見て謀殺しようと図った。
(写真左=山形城址大手門(枡形門)、米沢日報デジタル提供)
 いずれにしろ、最上氏と白鳥氏とは姻戚関係に結ばれ、義光は長久を山形城に招いた。しかし長久は義光の謀略を警戒してそれを受けなかった。それではと、義光は重病と触れだし今後のことを長久に相談したいと再三にわたり長久を誘い出したのであった。 さすがの長久も義光は本当に重病なのかも知れないと思うようになり、ついに山形城に赴くことに決した。これは謀略だと家臣らは反対した。だが長久は⎾恐れる必要がない⏌と出かけた。
 義光の枕元に案内された長久は、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられた。剛勇で鳴らした長久もこれにたまらず、呆気なく斬殺されてしまった。天正12年(1584)のことである。

十六、戦国時代の終焉
 白鳥十郎長久が殺害されたとき、織田信長はすでに亡く、豊臣秀吉が信長の天下統一事業を継承していた。長久の死の翌天正13年には、秀吉は関白となり、⎾応仁の乱⏌以来およそ1世紀にわたり続いた戦国時代も終焉を迎えた。長久を謀殺した最上氏は57万石の大大名になったが、義光の孫義俊の代に家中内紛によって大名の座から転落した。長久が丹精こめて修築した谷地城も最上氏の改易により廃城となり、その後完全に取り壊されて跡形もなくなった。かくして白鳥氏の名残は全く失われてしまった。

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 最上義光は長久の娘(あるいは養女:日吉姫)を嫡男義康の妻に迎える為として、蔵蔵から谷地へ至る⎾向去り道⏌むかさり を蔵増親景に命じて造らせる一方、その縁談が破談となり白鳥長久を山形城へ誘い出し暗殺すると、向去り道を一気に攻め上がり谷地城を落城させた。長久の父義久は室町幕府12代将軍足利義晴の庶子であるという説がある。
 元和2年(1616)、33回忌法要が円福寺16世高岳弘覚法印により営まれ、墓が建立された。この塔は文化元年(1804)東林寺28世大円淳鏡と谷地名主衆中により再建された。
 戒名;大陽院殿丹山膺公大居士 ようこうだいこじ
 妻:吉川政時娘
 子:弘覚、日吉姫(最上義康正室)、栄源院(津軽為信側室)

(2023年2月6日11:35配信)