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寄稿 「鶴ケ岡城の変遷」 斎藤秀夫

寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
saito18 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』
(同)、『城門を潜って』(同)


 
 山形県の北西部、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)を東に望み、米どころ庄内平野を流れる内川(赤川の本流)の西岸標高十五メートルほどの平地に、十三万八千石の酒井氏の居城鶴ケ岡城(鶴岡市馬場町)がある。
(下図=「出羽国庄内鶴岡城絵図」(鶴岡市郷土資料館所蔵))

tsurugaoka-1 鶴岡市郷土資料館所蔵の縄張図を参考にしながら、その城の規模を探って行くと、本丸の総面積は八.四ヘクタールほどで、高さ三.六メートルの土塁と深さ三メートルの堀によって囲まれ、藩主の御殿が敷地内に建てられてあった。本丸の南東部には中の門が設けられ、その門を潜って中の橋を渡ると、二の丸が配されており、そこにも幅十八メートル、深さ一.八メートルの堀と、本丸と同程度の土塁が築かれていた。その堀は現在でも残っていて、土塁には杉や、桜の木が植えられている。郷土の産んだ作家藤沢周平氏はその著書『花のあと』の中で、その堀端の桜を、
「豪奢で豪奢がきわまってむしろはかなげにも見える眺めだった」
 と、その美しさを讃えている。その堀の外側にあるのが三の丸で、内川を東限としtsurugaokajou-2て三方に堀と土塁を構え、防備を固めるとともに城外への出入口として、十一ヶ所東西南北に木戸を設けた。とはいえ、最初からこの鶴ケ岡城が今記した姿をしていたわけではなく、その名前も、当初は大宝寺城といわれていたのである。そこで、どうして城の規模が拡大し、名前も変えられたのか、そのあたりのことを、少し調べてみることにしよう…。 (右写真=鶴ケ岡城址に建つ荘内神社)

 中世のころまで、出羽国庄内は大泉庄と呼ばれ、藤原保房(やすふさ)という遙任国司(ようにんこくし=国司に任命されても、赴任して執務することを免除された)がいて、留守所を置いていたが、実際は奥州平泉の藤原氏の勢力下にあった。しかし、文治(ぶんじ)五年(一一八九)源頼朝が武力をもって藤原氏を屈服させた際、その恩賞として大泉庄を賜ったのが武藤資頼(すけより)の弟、氏平(うじひら)であった。そして、その六代目に当る長盛(ながもり)が、
「文和(ぶんわ)二年(一三五三)家督を継承して居住した」
 と『筆濃余理(ふでのあまり)』にはあるので、その館が、大宝寺城、つまり、鶴ケ岡城の前身と捉えてよいであろう。
tsurugaokajou-3 別の文献によると、築城したのは武藤資頼だとする説もあるのだが、けれど、この資頼は九州の少弐氏(しょうにし=鎮西〈ちんぜい〉奉行〈九州地方の管理、成敗をつかさどる役職〉)を名乗っており、大泉氏となったのは弟の氏平であること、また、築城されたのが一三〇〇年代(その時代には、すでに資頼はこの世にはいない)であること。この二点の事実から判断すれば、やはり、大宝寺城を造営したのは長盛であると、考えるのが妥当であろう。(写真左上=堀の傍に建つ「大寶館」、鶴岡が生んだ偉人の功績を讃える資料展示施設)
 その後、この一族は少しずつ勢力を拡大させ、文明(ぶんめい)年間(一四六九〜八六)以降には、羽黒山の別当職を兼ねるようになった。さらに、寛正(かんしょう)三年(一四六二)九月には、そのころの当主大泉淳氏(きょうじ)が、足利八代将軍義政から出羽守に任じられ、この頃から地名の大宝寺をその姓に使用するようになったと伝わっている。そして、その勢力は、大泉庄を中心とする田川郡一帯から、最上川以北の飽海(あくみ)郡、由利郡の一部にまで及ぶようになった。だが…、それから数年後、世にいう"応仁の乱"が起きると、日本の各地で下克上が日常化し、ここ庄内地方でも、大宝寺氏と砂越(さごし)氏との抗争が激しくなった。この砂越氏は大宝寺氏の庶流で、最上川をはさんだ余目(あまるめ)の北の砂越城(飽海=あくみ郡平田町)を居城としていたが、文明十年(一四七八)に城主砂越氏雄(うじかつ)は『蜷川親元(にながわちかもと)記』に、
「足利義尚(よしひさ=九代将軍)に取り入り、信濃守に任じられて飽海郡下を配下にした」
 とあるように、川北の勢力を背景として本家筋の大宝寺氏と、真っ向から対立する姿勢を見せた。そのため、大宝寺側では万一の場合に備え、最上川の河口にある酒田(古くは坂田と書き、その由来は砂潟、あるいは狭潟にあるとされている)に東禅寺城(のちの亀ケ崎城)を築いたが、永正(えいしょう)九年(一五一二)氏雄は兵を率いてこの城を襲った。そのことは『羽黒山在庁年代記』に、
「大宝寺氏と砂越氏が争戦し、東禅寺、大宝寺衆干戈(かんか)をとって参戦し、千余人討死」
tsurugaokajou-7 そうあることからも確認出来る。こうして、勝利を得た砂越氏ではあったが、その翌年には敗北し、一時その勢力を弱体化させた。されど、一歩一歩地力を回復させると、天文(てんぶん)元年(一五三二)に大宝寺氏の本拠地大宝寺城に攻め入り、城を攻略、このため大宝寺城は亡所(ぼうしょ=住む者がいない所)となり、大宝寺氏は晴時の時代に、本拠を鶴岡市の北西約五.五キロメートルの地点にある尾浦城(鶴岡市大山三丁目)に移したのである。この地は標高約二七四メートルの高館山から平野部に細長く突き出た丘陵の先端部分(比高は四十メートルほど)にあって、前面に障害物がなく、小国を経て庄内平野へ達する、旧越後街道の出入口を眺めることが可能な要地にあった。その様子を『大山町史』は、こう記述している。(写真右=尾浦城址に建つ碑)

「人馬の登はんを許さない急斜面に囲まれた太平山の頂上にあり、三十間に二十間の西の丸、三十二間に十六間の本丸、十六間に十七間の櫓からなり、西は深い塹壕(ざんごう=城の回りの堀)をもって区切られていた」
 と。このような堅城と、室町幕府や上杉氏の権威を後ろ盾として実力を養った大宝寺氏は、十八代目の義氏(よしうじ)の代となる天正(てんしょう)二年(一五七四)最上義光と抗争すべく、伊達氏との連合を画策するや、近隣への進攻を開始した。
turgaokajou-4まず、余目城(東田川郡)の余目氏を攻略すると、横山城(同)の横山氏、藤島城(同=写真左)の土佐林(とさばやし)氏らを切り従え、庄内地方の支配を確立させた。義氏がそのような性急で苛酷な武断政策が行えたのも、上杉謙信の声望と軍事力を頼ってのことであり、その謙信が天正六年(一五七八)三月十三日に死去すると、たちまち周辺の国人たちの反発が強くなった。最初に背いたのは飽海郡の観音寺城の主、来次氏秀(きすぎうじひで)であった。その背後には最上義光の暗躍があり、天正十一年(一五八三)三月六日、その義光に内通する家臣前森蔵人(まえもりくらんど)によって、殺害される運命にあった。『奥羽軍談』によると、この義氏が討たれたのを知って、人々は、
「過半義氏を疎(うと)み果たる事なれば、さのみ(さほど)に慕ふ族(やから)もなし」
 そうささやき合ったというから、彼に人望がなかったのは確かであった。さらに、それに勢を得た反義氏派の国人たちが蜂起し、庄内地方は一時大混乱となった。そのため、義氏派の国人たちは反対勢力と談合して、義氏の弟義興(よしおき)を尾浦城主とし、前森蔵人を東禅寺城に据えることによって、事態の収拾を図ったのである。けれど、最上川以南をおさえる義興は、いぜんとして上杉氏を頼っており、最上川以北を地盤とする前森蔵人は義光の支援を受けていたから、両雄並び立たずの言葉が示すように、天正十五年(一五八七)十月、ついに打倒義興の軍を起こしたのである。
 それを見定めるや、すかさず動いたのが義光であった。彼は大軍を率いて国境の六十里越えを突破、庄内地方を蹂躙(じゅうりん)し始めたのである。対する義興は、月山山麓に最上軍を迎え撃つのだが、後方から前森軍の襲撃を受けて自決し、約四百年にわたって庄内地方を支配していた大宝寺氏は、事実上の滅亡となったのである。tsurugaokajou-6 その後、この地域はいったんは義光の所有するところになるのだが、翌十六年(一五八八)八月、その義光は、謙信の跡を継いだ上杉景勝の援助を受けた木庄繁長と十五里ケ原で戦って敗れ、手に入れたばかりの土地を、手放さざるを得なかったのである。(写真右=十五里ケ原合戦場に建つ戦死者の供養塔、鶴岡市大山町友江地内)
  新たに庄内地方の支配者となったのは、繁長の次男義勝(よしかつ)であったが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉による奥州仕置が開始されると、義勝と父の繁長は一揆扇動の疑いでその翌年、大和(今の奈良県)に流罪となり、替って、上杉景勝の臣直江兼続の宰領するところとなった。兼続は、この地が交通の要衝にあり、新しい時代の城郭に適していると判断、堀を広く深くし、土塁を堅固にするなどの修理工事を行うのだが、それが完全に整備されないまま、この庄内地方を去ることになる。その原因となったのが、慶長五年(一六〇〇)九月十五日に行なわれた"関ヶ原の戦い"であった…。

 戦いに勝利した徳川家康は、石田三成に与したとして、上杉景勝に会津百二十万石から、米沢三十万石への国替えを命じると同時に、自分に加担した義光に、秋田由利郡と飽海、櫛引(くしびき)、荘内三郡を加増させ、その領国経営を委ねたのである。これまでの二十四万石から五十二万石の大守となった義光は、大宝寺城を己の隠居城とすべく、兼続の計画を踏襲するかたちで、城の改造を続行させた。さらに、治水事業にも力を注ぎ、城下を水害から守るために、赤川の本流を熊出(くまいで)で締切って流路を変え、青竜寺川を十九.三キロメートルほど開削して、灌漑用水路としたのである。そして、城の改修工事がほぼ完成するのは、慶長八年(一六〇三)三月のことであった。それを機に、義光は大宝寺城を鶴ケ岡城と改名することにしたのである。なんでもそのころ、酒田の浜で大亀が捕えられたのを吉兆として、東禅寺城をtsurugaokajou-5亀ケ崎城、これと対比する意味をこめて、大宝寺城を、鶴ケ岡城と改めたと伝わっている。(写真左=亀ヶ崎城址、現在の酒田東高校地内)
 ただし、最上氏時代の鶴ケ岡城は、『鶴岡昔雑談』によると、
「当城は柴垣も交わる土居に囲まれた本丸のみで、御殿も萱葺(かやぶき)の小規模なものであった」
 という。それでは、冒頭で示した縄張を持つ城郭になるのはいつごろの話かというと、元和(げんな)八年(一六二二)七月十八日最上氏が改易となり(慶長十九年〈一六一四〉正月十八日に義光が死に、孫の義俊〈よしとし〉の代になってお家騒動が起きてしまい、所領すべてを取り上げられ、最上氏の旧領は数名の大名に分割された)新たに十三万八千石を賜って入府した、酒井忠勝の時代になってからである。以後、忠当(ただまさ)、忠義(ただよし)の三代、およそ五十余年の歳月をかけて、最上時代の城を本丸とし、それを囲むようにして二の丸、三の丸と拡張して行った結果なのである。それから二百五十年、明治維新に至るまで、鶴ケ岡城は酒井氏の居城としての役割を、担って行くことになるのである。
 機会があれば今回の続編として、その酒井氏と鶴ケ岡城の関わりについても、触れてみたいとも考えている…。

☆参考資料
・日本城郭大系 山形、宮城、福島編 新人物往来社発刊
・探訪日本の城 奥羽道 小学館発刊
・名城をゆく 山形城 小学館発刊
・山形県の地名 平凡社発刊
・戦国人名事典コンパクト版 新人物往来社発刊
・戦国時代人物事典 学研パプリツシング発刊 
・広辞苑 岩波書店発刊

☆資料提供 鶴岡市郷土資料館 

(2019年2月23日17:10配信)