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竹田 歴史講座


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1『米沢・斜平山城砦群から見えてくる伊達氏の思惑』

                 米沢鷹山大学市民教授・歴史探訪家 竹田昭弘

takeda 寄稿者略歴 竹田昭弘(たけだあきひろ)
 昭和20年、東京生まれ米沢市育ち。明治大学政経学部卒業。NEC山形 を経てミユキ精機(株)入社。経営企画室長を歴任。平成19年退社。 米沢市在住。前NPO法人斜平山保全活用連絡協議会会長。


『米沢・斜平山城砦群から見えてくる伊達氏の思惑』
 ⎯ 伊達氏は如何に蘆名氏を恐れたか ⎯

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 近年の調査によって「米沢の母なる山、斜平山」の全貌が明らかになってきた。以前から言われてきた「信仰対象の山」や「動植物の宝庫の山」から、新たに城砦群を抱えた「軍事要塞の山」を加えた、"とんでもない山"であったことが判明した。(写真上、米沢市中心部より見た斜平山東側)
 そこで"軍事要塞化したのは一体誰か"という素朴な疑問が湧いてくる。結論から先に言えば、それは伊達氏であろうと。それも16代輝宗の時に集中的に山城の軍備拡張がなされたとみている。後代の上杉氏が斜平山を利用した形跡はない。徳川の江戸幕府治下になり、戦時下に於ける山城の優位性・必要性が無くなったからである。寧ろ平城にあって領国政治の必要性が求められ、上杉氏も現米沢城の三の丸の拡張にまで迫られた。本来なら斜平山を利用した春日山城の米沢バージョンがあってもいいのであるが、その意向も見えない。拡張米沢城、これは上杉氏が前の会津時代に於ける築城の途中で中止した、神指城の再現として整備されたとみるのが妥当だろう。伊達氏のすぐ後の蒲生氏も手を入れていない。まさに伊達氏だけが隣国会津の蘆名氏を恐れて整備した城砦群であった。

 伊達輝宗は永禄7年(1564)・永禄8年(1565)・永禄9年(1566)と3回も国境を越えて会津領桧原地区へ侵攻した。だが3回とも蘆名方の国境守備隊、穴沢氏の逆襲に遭って敗北しているという事実がある。何故か伊達氏の記録にはキチンと書かれていないが、対手の蘆名氏の記録には残されている。それは伊達氏は敗戦を表に出すことを嫌ったからだろう。戦国時代には"自家の歴史に不利なことは残さない"という慣習に他ならない。よくあることである。それでは輝宗が何故桧原に侵攻したのか、という問題が浮かぶ。これも明確に書かれていないが、当時桧原地区には永禄年間に発見された金山があり、鉱山開発には独自の技術を有していた伊達氏がこれを奪い取ろうとしたことが分かる。3回も侵攻を繰り返すあたりは"かなりしつく"、その思いが半端でないことがよく分かる。
 それでは蘆名氏と伊達氏は当時、どれ位の兵力を有していたのか。比較した文献はないが、天正17年(1589)会津磐梯山麓で行われた伊達政宗と蘆名義広の「摺上原の合戦」では、兵力は伊達軍が2万3千、蘆名軍が1万6千であったとされている。だが伊達軍にはもと蘆名側であった猪苗代盛国2千が含まれているから、実質的には伊達軍は2万1千であった。政宗が蘆名氏を滅ぼしてその領地を手にした際には、伊達氏は奥州66郡のうち約30郡を持つことになり、政宗は23歳の若さで凡そ114万石をも数えたという。その後大崎氏、葛西氏領を加えると140万石にもなったというから"物凄い"と言えよう。概ね、戦国1時代には所領1万石で動員兵力は平均250名ほどと言われている。とすると、17代政宗の頃には2万強の兵力は保有できたであろう。「摺上原の合戦」時の兵力と符合する。それでは政宗の父16代輝宗の頃は「どれ位の所領か」と云うと、30~40万石位であったらしい。とすれば輝宗の時代の動員兵力はせいぜい1万前後位だろうか。これが全て城に集結する訳ではなくあちこちに分散し、戦いの時に戦場に集結する。ましてこの位の兵数になれば広い野戦での交戦でしか可能ではない。山岳戦では激減するのが通例である。文献によれば輝宗が桧原に侵攻したときの、軍勢は第1回1500、第2回800、第3回1000程で、関や綱木の民も含めてのものであった。この時の穴沢氏は500位という。兵力では伊達軍が勝っているが、山岳ゲリラ戦の様相を呈すると、越後魚沼の山間の入広瀬村を本領とする穴沢氏はまさに山岳ゲリラ戦のプロであったのだろう。伊達軍は小強軍勢に一敗地にまみれている。(写真下=小野川温泉より見渡す天狗山方面、全長2キロに及ぶ山城が続く)

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 対して、蘆名氏はどうか。政宗と対峙した義広の時の兵力は1万6千だが、猪苗代氏の兵力を加えれば1万8千になる。文献によれば第16代蘆名盛氏の時の所領は石高120万石で、5万6千余の軍勢を有した日本有数の戦国大名であったという。勿論、蘆名氏の中興であり全盛期を築きあげたが、その後、17代盛興、18代盛隆、19代亀王丸と続くがお家紛争もあって衰退した。そして最後の当主第20代義広は佐竹氏から養子に入った当主であるが、この頃には盛氏の代の半分位に減っていたのではないか。凡そ60~70万石位だ思われるが、動員兵力も1万7千位だろうか。輝宗が恐れたのは、蘆名氏本隊と桧原守備隊の穴沢氏軍勢が合体した連合軍で桧原峠を越えて侵攻して来たときである。雪崩のように5千位の蘆名勢が米沢領に討ち入る様を想像したのであろうか。
 蛇足になるが、「摺上原合戦」で蘆名義広は敗北し実家佐竹氏に逃げたが、江戸崎にて新たに4万5千石で復活する。名前も盛重と改める。その後宗家の佐竹氏が秋田転封になると、この盛重も随伴し角館に配された。名前も義勝と再度改めた。角館天寧寺に墓がある。反対に政宗は蘆名領を支配下に置き、「奥州王」へと駆け上がることになる。

 金や銀は当時からも重要な資金源で家の財政を賄う上でも是が非でも欲しいものであった。伊達氏は郡内に「矢沢金山・臼ケ沢金山・川樋銀山」という3大鉱山を有していて、4つ目の金山をと企図したとしても不思議ではない。問題はこの後である。伊達輝宗は「次は会津から蘆名勢の米沢への侵攻があるのではないか」と想定したであろう。永禄9年の3度目の紛争の後、形の上では伊達氏と蘆名氏の間で輝宗の妹を蘆名氏に嫁がせて和睦する。だが国境を侵された穴沢氏は憤懣やるかたない。穴沢氏は自分の「頭越しに和睦されたことに不満を持ち、仕返しをすべく逆に桧原峠を越えて米沢に侵攻し伊達氏を攻めようという噂もあったという。伊達氏は本拠地が襲撃されることを強く懸念したであろう。(写真右=館山城から小野川温泉方面に向かう手前に有る古屋敷館)
tahi1-3 当時会津桧原から米沢へ入るには「桧原峠を越えるルート」と、「八谷越え(入 田付峠)のルート」があった。主たる道は「桧原峠越え」であり、国境の綱木部落に至ると、そこから「簗沢に抜ける道」と「関部落に抜ける道」があった。この2つの道は「斜平山の西側山麓を走る簗沢街道」であり、その北の先には伊達氏の詰の城「舘山城」があった。又「関街道」を下りれば船坂に至り、斜平山の東側山麓を走り、その先には伊達氏の居城「米沢城」があった。蘆名氏の軍勢が一気にこの舘山城か、米沢城を衝く恐れは十分に予想された。輝宗はこの2つの城を同時に守らねばならない状況に追い込まれた。伊達氏(輝宗ら)はこの斜平山に蘆名氏の侵攻をくい止める防壁の役割を担わせることにした。

tahi1-5 一つの山塊にこれだけの城館跡があるのは珍しい。(写真左=斜平周辺主要城館跡・寺院分布:発行 NPO法人 斜平山保全活用連絡協議会)
 調査によれば、斜平山東側には南から繰返館、笹野山館、古志田館、片倉山館、斜平山稜線の北の山頂には遠見番所的な愛宕山館と羽山館が並び、夫々、船坂方面と簗沢方面を監視している。そして西側は東側と違って傾斜の勾配が緩やかであり、"おその沢"でさらにV字に分けられた斜平山分脈が南北に走る。ここに北から古屋敷館、赤芝館、舘残館が山中に潜むように配され、さらに南奥の斜面には斜平山最大の城郭である、天狗山館が広範囲に配された。中でも天狗山館は東北でも最大級の規模を誇り、伊達氏は斜平山西側をかなり危険視していることが分かる。計10ヶ所の館跡が見つかっているが、驚くほかない防備の限りである。これだけ見ても"伊達氏は如何に蘆名氏の侵攻を恐れていたのか"がよく分かる。米沢以前の本拠地伊達地方にはとても見られない構えである。だが実際には蘆名氏が米沢を攻めて来ることはなかった。それ故、遺構だけが残って現代にそれを明らかにしている。
 伊達輝宗の「3回の敗戦の仇」は、子の政宗が天正12年(1584)に穴沢氏を謀略の末に討ち滅ぼしている。さらにその翌年には主筋の蘆名氏を討つべく会津に、桧原ルートと入田付ルートの両面作戦で攻め入るがこれは敢え無く失敗に終わっている。政宗は作戦を変え、会津攻略ルートを仙道から猪苗代へ入るルートに切り替えて、天正17年(1589)「摺上原の戦い」に於いて蘆名義広を討ち破り、会津黒川を手に入れた。ここで問題となるのが、「第17代伊達政宗は何故会津を目指したのか」。その答えは斜平山城砦群のその構えから窺がい知ることができる。この際、「宿敵蘆名氏を討たねばならない」と心に決めたのであろう。併せて「会津に進出したい」という宿願もあったであろう。
 tahi1-6政宗がこの斜平山に拘った記録はない。(写真右=資福寺跡にある伊達輝宗の墓、高畠町夏刈)
 父輝宗が苦心の末に築いた城砦群は幸いにも戦火にまみれることはなかった。平穏のうちに伊達氏の離米を迎えたのであろう。遺構だけが昔を語ることになる。蘆名氏が寧ろ輝宗の子政宗の野望を恐れていたかもしれない。政宗は家督を継ぐとすぐに仙道に進出し安達・安積を暴れ回っていたから、その騎虎の勢いに蘆名氏が恐れをなし、遠く桧原を越えて本拠地米沢に攻め入ることなど思いもよらぬことであった。逆に蘆名氏は伊達氏の会津侵攻を恐れて、米沢の斜平山城砦群に対比するように、大塩に柏木城という巨大な山城を築き守りを固める策に出た。伊達氏・蘆名氏、双方ともに相手の力を過大に評価しその備えをしたのだろうか。(写真下=資福寺跡にある伊達家第九代伊達政宗(儀山)墓、高畠町夏刈)
tahi1-7 当時、東北の中原「会津」は奥州藤原氏滅亡の後、文字通り東北の中心であった。蘆名氏とはそのルーツを相模の三浦氏に繋がる武門の名門である。坂東8平氏の一角であった三浦氏は、義明の時に源頼朝の平家討伐の挙兵に加担した。その子義連は頼朝の鎌倉幕府創設に功があり、会津地方を賜った。その孫ら6人、経連・広盛・盛義・光盛・盛時・時連がいて、夫々新宮城・北田城・藤倉館・黒川城・青山城・新宮城を得て、会津の北方地方に勢威を振るった。4男光盛の後継が蘆名氏の宗家となり黒川城にあって会津を支配するようになる。5男盛時は1247年の「宝治の乱」で滅んだ三浦氏の再興に関わり、戦国時代に至る。だが北条早雲の三浦氏の本拠、新井城攻めで滅んでしまう。だがその一族蘆名氏は隆々と会津に君臨していた。
 そして地理上の長所「東北の臍」として脚光を浴びていて、新興勢力伊達氏の眼前に立ち塞がっていた。恐れを知らない政宗は不遜にもこの蘆名氏を倒そうとしていた。政宗はここに「伊達の旗」を立てたいと思ったのだろう。伊達氏は所謂「奥州王」を目指したのであり、政宗は決して天下を狙おうとは思わなかったに違いない。都から遠く離れた奥州にあって、天下を狙うにはリスクは大きい。これは中国地方で覇権を握った毛利氏が、天下を狙うことをしなかったことと相通じるものがある。"地方の盟主でいい"と考えていた節がある。後代に政宗は徳川幕府下にあって、「天下の副将軍」とも言われている。(写真下=資福寺跡、高畠町夏刈)

tahi1-8 伊達氏は天文17年(1548)に、第15代当主晴宗が父稙宗との「天文の乱」を制し当主の座に就くと、福島県桑折町の西山城から本拠を一気に米沢城に移した。「奥州の伊達氏」から「羽州の伊達氏」に変わった時である。そもそも伊達氏は天授6年(1380)に福島県信達地方から、隣国の出羽国置賜郡に支配領域を拡げてきたのだが、依然として本拠地は西山城に置いたままであった。然しながら、"何故置賜郡に足を伸ばしたのか"の理由となると明確な答えはない。「第8代宗遠と9代政宗が何故奥羽山脈を越えて来たのか」、筆者なりに考えられる幾つかの理由を挙げれば下記の通りである。
1)信達地方(信夫・伊達方面)は鎌倉から北の奥州へ大軍を移動する際の通過地点にあると云う"リスキーな場所"であること。これは源頼朝の奥州藤原氏征伐の時、この信達地区に頼朝の大軍勢が進攻し「阿津賀志山合戦」が行われたことでも証明されている。文治5年(1189)のことである。
2)信達地方は阿武隈川と云う大河を抱えており、少しでも豪雨があれば直ぐに氾濫するという厄介な場所でもあった。居城の西山城が桑折町の奥羽山脈の高い一画に築かれていることからも理解できる。それは同時に米作には不適な場所でもあったろう。今でも氾濫していて実に厄介な川であった。
3)隣国の出羽国置賜郡は冬になると降雪も多く気温も低い。夏は盆地特有の高温になる厳しい自然環境であったが、裏を返せば山の水も豊富で高温多湿な盆地特有の自然環境は米作に適した土地柄であったと言える。飯豊連峰や吾妻連峰に降った雪や雨が置賜盆地を潤していたであろう。
4)何と言っても置賜郡は周囲(西・南・東)が2千メートル級の連峰の高山が屏風のように聳え、少し北にだけ開けているという天然の要害であった。外に出ようとすれば難渋を極めたが、同時にそれは外敵の侵入も防ぐ役目も有していた。西の飯豊連峰・南の吾妻連峰・東の栗子連山とまさに「凹字の形になっている。ここに伊達氏が本拠を置いても何ら不思議ではない。
5)伊達晴宗は生母が隣国会津の第13代当主蘆名盛高の娘である。すなわち父稙宗の正室である。晴宗にすれば、実母の実家蘆名家が南に一山越えた所にあることは、親戚筋が隣国にありこの上ない安全な環境にあると判断したかもしれない。父稙宗は婚姻関係で伊達氏の勢力を大きくしてきた。子の晴宗もこれを踏襲していた。会津は重要な位置にあった。
6)室町幕府の足利将軍家に繋がる斯波氏が延文元年(1356)に村山郡に侵攻した。その後村山地方を平定し拠点を山形に置いたが、その勢力がさらに南に伸びれば置賜郡に至ることになる。伊達氏はその事を知らぬ訳がない。斯波氏に置賜郡を席巻される前にと考えても不思議ではない。
7)当時、京へ赴く為には日本海を利用して行く方が便利であった。置賜郡から最上川を利用して酒田湊に至り、船で海路を越前敦賀に上がり、近江の北に出て琵琶湖を船で渡り、大津に至る。そこから京都は目と鼻の先にあった。伊達氏は足利幕府との関係を強めようとしていた。9代政宗の正室は室町幕府3代将軍足利義満の母の妹にあたり親戚筋と云う関係にあったためである。
 ここで考えられる最大の理由はやはり「米沢が天然の要害であった」という点でなかろうか。何よりも安全・安心が「決め手」になった可能性が高い。
  
tahi1-9 15代伊達晴宗は永禄8年(1565)に次男輝宗に家督を譲り、新川館に隠居して後に福島の杉目城に退いた。輝宗は間もなく中野宗時の謀反に遭うものの、小松城に攻めてこれを制圧した。元亀元年(1570)のことである。だが輝宗は妻義姫の実家最上家の内乱にかき回される。上山城主上山満兼は宗家最上家と反目していて、輝宗はこの上山氏を支援していた。(館山城登り口にある看板)

 天正12年(1584)に輝宗は嫡男政宗に家督を譲った。伊達家中が後継で揺れる中、政宗を当主に据えて家中の一体化を図ろうとした。輝宗は隠居所を館山城内に決め、当主の座を降りた。後は若き当主政宗をバックアップする立場に終始する。その翌年の天正13年(1585)、政宗の二本松城攻めの最中、城主畠山義継の計略にかかり非業の死を遂げる。政宗はその遺体を福島の佐原、寿徳寺に運び、荼毘に付した。その後米沢の覚範寺に於いて師虎哉和尚の引導で葬儀を行うとともに、ここを菩提寺とした。輝宗の墓は高畠夏狩の資福寺に造られ今もある。この頃、斜平山には繰返不動、笹野観音、愛宕神社、羽山神社等、信仰の場が多くあった。覚範寺をここに置いたのも頷ける。やがて伊達政宗と共に岩出山、仙台と移り、北山五山にある。
tahi1-10 政宗は会津黒川を手にするとその勢威を奥会津へ伸ばすと同時に、東へも向けて須賀川城の二階堂氏を攻略する。政宗の欲望は止まることを知らず、さらに常陸の佐竹氏攻略を企図するも、ここで天下統一を目論む「豊臣秀吉」の「魔の手」が伸びてきて、頭を抑えられる。この段階で政宗の「飽くなき挑戦」は終わるのである。後は岩出山、仙台へと伊達氏は拠点を移すことになる。(写真右=館山城の山頂にある石垣)ただ言えることは「伊達氏は米沢にあってこそ光り輝くのである」。これは「長尾上杉氏が越後にあってこそ光り輝く」のと符合する。その勢威は斜平山の遺構が答えてくれている。結局、"伊達氏は政宗の米沢時代が最も盛んな時であった!"と言えよう。米沢の歴史観光を考えた時、この伊達氏への脚光は避けて通れない。

・参考文献 NPO法人 斜平山保全活用連絡協議会『斜平丘陵の中世遺構』
      制作 令和1年12月20日
      事務局 TEL 090−1934−0245
      (米沢日報デジタル掲載の了解済)

(2020年1月13日10:30配信)