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文 斎藤秀夫
寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子市在住。著書『男たちの夢 ー城郭巡りの旅ー』(文芸社)『男たちの夢ー歴史との語り合いー』(同)『男たちの夢ー北の大地めざしてー』(同)『桔梗の花さく城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)
「館跡 浅川(多摩川の支流)の北岸なる丘によりてあり、何人の館跡なるや定かならざれど、土人(里人)は平山武者所季重(すえしげ)が住居の跡なるよしといへり」
『新編武蔵風土記稿』にそう紹介されている平山季重は、武蔵七党(平安末から鎌倉期に武蔵国で活躍した中小武士団)の一つである日奉(ひまつり)氏の出である。日奉というのはその名の通り、太陽を奉斎(神仏をつつしんでお祭りする)という意味で、平山の起こりは、日奉宗綱の四男直季(なおすえ=真季とも書く)が、多西(たさい)郡船木田荘平山郷(現在の東京都日野市平山)に館を構え、土地の名を苗字にした時からである。平山季重はその初代八郎直季の子で、元服すると間もなく(残念ながら彼が生まれたのがいつかは、正確にはわかっていない)京へ上り、後白河天皇が即位した久寿(きゅうじ)二年(一一五五)に、滝口の武士に選ばれている。この役は御所の最奥を守るのが任務で、武勇及び容姿に優れていないとなれない、狭き門なのであった。
翌年(一一五六)七月、崇徳上皇と後白河天皇、さらには摂政関白の藤原忠通と、その弟の頼長との対立が激化して、いわゆる"保元の乱"が起きるが、季重は後白河天皇側の源義朝(頼朝・義経の父)の軍に加わって初陣を遂げた。彼は『保元物語上』で、
「西には日次悪次(ひつぎのあくじ)平山」(日次は日奉、悪次は強いという意味)
そう書かれる男であったから、その記述を裏切らない活躍を見せ、後白河天皇側の勝利に貢献した。その恩賞として、季重は義朝から、福生村(ふっさ=現東京都福生市)を与えられた。『鹿児島甑(こしき)島小川系図』にも、
「保元三、福生村の御下文を賜る、平山武者右衛門尉(うえもんのじょう)」
とある。さらに後白河天皇が上皇になった際には"院武者所"(いんのむしゃどころ=御所や上皇自身の警護にあたった武者)に抜擢されている。
それから三年後(実質は一年半ほどだが)に"平治の乱"が起きた。これは、"保元の乱"以降も貴族や武士同士の対立が続き、特に乱後、権力を掌握した信西と、それに与する平清盛に不満を抱いた藤原信頼と源義朝とが、清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って、挙兵した事件である。この時平山季重は、義朝の嫡男義平(頼朝は三男)の配下十七将の一人として、参戦している。
争いの当初は、信西が殺害されるなどして、信頼・義朝側が有利であったが、熊野詣から京に戻った清盛が、平家軍を率いて応戦したため、たちまち形勢は一転、信頼は斬罪、義朝は、源氏の地盤である東国へ逃げる途中の尾張(今の愛知県)で、長田忠致(おさだただむね)によって殺されてしまい、季重も近江(今の滋賀県)から平山郷へたどりつくのがやっとという有様であった。その後の季重の動きは明確には分かっておらず、彼が歴史の舞台に再び登場するのは、それから二十一年後のことである。
治承(じしょう)四年(一一八〇)八月十七日、"平治の乱"後、平家に捕えられ、伊豆の蛭が小島(現在の静岡県伊豆の国市にあって孤島ではなく、陸つづきになっている)に流されていた源頼朝が、打倒平家の兵を挙げるが、それを知った季重は、頼朝軍に加わることを決意する。同年十月二十日、平維盛(清盛の嫡孫)を総大将とする平家軍を、富士川で破った頼朝は、十一月、今度は佐竹秀義の居城金砂城(かなさじょう=茨城県久慈郡金砂郷)を攻めた。関東の地盤をより強固にしたい頼朝にとって、同族でありながら平家と好みを通じ、己の背後を脅かす秀義の存在が、邪魔だったのである。金砂城は『常陸紀行』に、
「石壁数丈(せきへきすうじょう=壁の高さ数メートル)、其奇険絶峻(そのきけん、ぜっしゅん=まさに断崖絶壁である)」
そう称される堅城であったが、攻撃開始から五日後に、見事陥落させることが出来た。その時の様子を、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』では、こう描写している。
「熊谷次郎直実、平山武者所季重は折々先頭を進み、身命を顧みず凶徒(佐竹軍)の首を多く獲る。仍(よ)って其の賞傍輩に抽ず(ほうばいにぬきんず=他の部将たちと比べて、抜群の働きである)」
さらに、時は流れて、元暦(げんりゃく)元年(一一八四)となった。年が明けて間もなく、頼朝から従兄弟に当る木曽義仲討伐の命を受けた義経は、大軍を率いて京へと向かった。一方、
「鎌倉軍、京に進攻!」
その情報を入手した義仲は、琵琶湖に源を発する宇治川の川中に、大綱、小綱を張り、橋を落して敵を迎える陣を敷いた。正月二十日、両軍は宇治川で対峠するが、渡川出来ないことを知った義経の顔に、一瞬、困惑の表情が浮かんだ。するとその時、義経の背後に控えていた一人の部将が、ひらりと馬より飛び降り、残っていた橋桁の上に駈け登るや否や、
「やあやあ、我こそは武蔵国の住人、平山武者所季重なり!これより皆の、先陣つかまつらん!」
そう大音声をあげて、橋桁を進み始めたのである。どっと、源氏の兵士たちの間から喚声が起り、遅れじ!とばかりに、二人の若武者がその背後を追った。佐々木高綱と、梶原景季(かげすえ=景時の子)であった。これをもって"宇治川の先陣争い"は、この両者によって演じられたと、一般的には語られているが、最初に橋桁を渡ったのは季重で、そのため彼は、源氏方武士の、
「豪座随一」
そう讃えられたのである。
同年二月四日、源氏は宿敵平家を討つべく範頼(のりより=義朝の六男)は五千の兵を、その弟義経は三千の兵を率いて京を発った。前者は生田の東門(大手口)から、後者は西門(搦手口)から、攻撃を仕掛けようとする作戦であった。そうはいっても西門を攻めるには、現在の兵庫県須磨区に位置する一の谷の北側にあって
「馬も通えぬ」
と表現された鵯越(ひよどりごえ)の嶮を通過しなくてはならない。これには戦さ上手の義経も困り果て、
「誰か、案内知ったる者はいないか」
そう叫んで、後をふりかえった。すると、真先に反応したのが、またしても季重であった。彼は義経の前に進み出て、
「此の山の案内、知って候」
そう答えた。それを聞いて、他の部将たちは、坂東(関東)育ちのおぬしが、出来るはずはない、そう一笑に付したのだが季重はひるまず、
「鹿付の山は猟師知り、鳥付の原は鷹匠知り、魚付の浦は漁師が知る。軍を籠めたる山中は武士が知るべき筈である」
そう述べたと伝わっている。とたんに、義経ははっしと膝を叩き、全軍に突撃命令を下したのである。この"鵯越逆落し(ひよどりごえのさかおとし)"の成功によって平家は敗走するが、実に平山季重の活躍には目ざましいものがあったといってよい。
後年の文治(ぶんじ)五年(一一八九)七月十九日に源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡(三代秀衡の子)征伐に向かった際にも従軍し、頼朝が藤原国衡(彼は泰衡の兄であったが、母が秀衡の側室であったため、家を継ぐことが出来なかった)の軍に囲まれて窮地に陥ち入った時に、季重はこれを助けている。それ以降、頼朝の彼に対する信頼はさらに厚いものとなり(勿論、一度は主君の推選なくして右衛門尉に任官し、頼朝の怒りを蒙ったこともあるのだが)建久(けんきゅう)三年(一一九二)八月九日、頼朝の次子実朝(鎌倉幕府二代将軍頼家の弟)が誕生し、季重は鳴弦(めいげん=弓の弦を引き鳴らして、魔を払うまじない)の役をまかせられた。さらに建久六年(一一九五)三月十日、頼朝の奈良東大寺大仏殿供養への供奉(ぐぶ)にも参加している。平山季重とは、それほど有能な家臣であった。
しかしながら、主君頼朝は彼を評して、
「顔はふわふわとして、希有(けう)の任官かな」
そう表現している。頼朝という大将は、他の御家人たちに対しても、
「目はねずみ眼(まなこ)にて…」とか、
「大虚言(おおそらごと)ばかりを能として、えしらぬ(下らない)官好み」
などなど、あるいは、「色は白らかにして顔は不覚気(ふかくげ=おろかもののようだ)」人の欠点を、さんざんにいいたてる人物であった。このあたりに、彼が今一つ日本人に愛されない原因があるのかも知れない…。
いずれにしても、平山季重居館跡周辺を散策しながら、ふと、そんなことを考えたりしている。なお、今は市民の憩いとなっている平山城址公園には、平山氏時代の見張所があったとされるが、果して本当に城が存在したか否かは、はっきりとわかっていないのだ。ただ、現場に立って上下、左右を見渡すと、険しい崖が迫り、遠くの山並みも一望出来た。要するに、この地に、城が築かれても少しも不自然ではない。そんな雰囲気は確かにあった…。
(2015年7月3日8:00配信)