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竹田 歴史講座

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歴史寄稿 置賜地方につながる城、片倉城(八王子)

                              文  斎藤秀夫
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 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子市在住。著書『男たち の夢 ー城郭巡りの旅ー』(文芸社)『男たちの夢ー歴史との語り合 いー』(同)『男たちの夢ー北の大地めざしてー』(同)『桔梗の花        さく城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)
        『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)
        『城門を潜って』(同)                             

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片倉城跡公園(写真提供 八王子市公園課)

 『新編武蔵国風土紀稿』によれば、東京都八王子市片倉町にある片倉城は、
「伝え云う、応永(一三九四〜一四二八)の頃、大江備中守師親(おおえびっちゅうのかみもろちか)在城せりと。此城古(このしろいにしえ)は東南北の三面は沼にして、西には高き平地あり。その所に侍の屋敷町などありしと云う。今見る所は西より片倉村の真中にさし出て、高さ五六丈の山なり」
 とある。この師親は鎌倉時代、源頼朝の信頼が厚く、幕府の公文所(後に政所)の別当(現在の総理大臣に相当)を勤めた大江広元の四男季光(すえみつ)の六代目に当り、のち元春と名を改めた。そして彼こそ、戦国時代中国地方を席巻した安芸(今の広島県)毛利氏の祖となった人物である。そういうことから見ても、この師親が関東に移って、片倉城を築くなどいうことは考えにくい、との説が一方にはある。むしろ、室町時代の前期に、この師親と同じ大江の血をひく、長井道広が築城したといおう説の方が有力視されている。勿論、これにしても確定したものではないが、どちらかの武将が築いたにせよ、この片倉城は、山形県にある置賜地方と、深い関係にあることだけはまず間違いない。
 大江広元の次男に、時広がいる。彼は文治五年(一一八九)に源頼朝が起こした奥州征伐に従軍し、藤原泰衡(奥州藤原氏三代秀衡の子)の将良元を出羽国御舘山(現山形県西置賜郡飯豊町)の柵に攻め、これを討ち取った功によって、長井庄(現山形県長井市)の地頭職(文治元年=一一八五=源頼朝が行家(ゆきいえ)〈頼朝の叔父〉・義経〈頼朝の弟〉を捕らえる名目で、荘園・公領に置いた職。御家人が任命され、荘園・公領内の警察・刑事裁判権をもち、次第に在地領主として成長して行った)に任じられた。彼が長井姓を名乗るのはこのためだが、これではまだ、片倉城とのつながりは見えてこない…。
 ところが、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』(あづまかがみ)に、そのつながりを示す記述があった。現在の八王子市から町田市北部一円にあたる横山荘の地頭職は、横山氏であったが、時兼(ときかね)の代の建暦三年(一二一三)五月二日、和田義盛の乱(義盛の子義直・義重及び甥の胤長が、鎌倉幕府の執権、北条義時の暗殺を計画、これが露見するに及んで挙兵した事件)に際して、彼は義盛に与(くみ)して討死。乱後の五月七日、
「横山荘は大膳大夫に与えられた」
 そう記されているからだ。さらに、同書の八月二十日の項に、
「前大膳大夫広元朝臣(あそん)」
 とあることからして、大膳大夫は、大江広元を指し、横山荘は、大江一族が支配することになったと、断定してよい。

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片倉城本丸跡(写真提供 八王子市公園課)

 新人物往来社発刊の『日本城郭大系、埼玉・東京編』にも、
「広元の次男時広を祖とする長井氏は、評定衆(ひょうじょうしゅう、鎌倉幕府の執権北条氏の指揮下にあって、政治と裁判の最高議決機関)に列するなどして関東の名門に数えられ、室町時代には扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(あの江戸城を築いた、太田道灌の主筋に当る)に仕え、所領の一部に片倉を含む旧横山荘を有していたと考えられる」 そう記述してあった。
 片倉城を築いたとされる道広は、長井時広から数えて六代目に当る人物だが、足利尊氏に従って各地を転戦したのち、応永九年(一四〇二)奥州の伊達氏との戦いに破れ、戦死した。そのことは『米沢里人談』に、「至徳(しとく)年間(一三八四〜八七)、政宗(伊達家九代目の当主で"伊達中興の祖"と称された人物。十七代目独眼竜政宗は、この傑物にあやかるようにと、名付けられた)が大挙して長井高畠城に軍を進め、長井氏の将新田遠江守(にったとうとうみのかみ)を破って、長井地方を掌握した」
 とあり、学習研究社発刊の『伊達政宗』にも、
「伊達氏は、出羽国置賜郡長井荘の長井道広を討ち」
 とあるので、道広がこの時戦死したのは確かであろう。ちなみに、片倉城は長井広秀の構築とする資料もあるのだが、彼も時広から数えて六代目(時広−泰秀−時秀−宗秀−貞秀−広秀)であり、死亡した日も応永九年七月二十九日となっているので、この両者は、同一人物と見ていいであろう。それに道広は法名であって、本名については、明らかになってはいないのである。

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片倉城空堀(写真提供 八王子市公園課)

 二〇一五年三月。私は長年住みなれた都心を離れて、八王子市に居を移した。引越の後片付けも一段落し、どうやら心にも余裕が生じたので、ぶらりとまた、大好きな城巡りを開始した。八王子市には、八王子城や滝山城といった、小田原に本拠を構える北条氏(鎌倉幕府の執権、北条氏とは別の一族)の支城がいくつかあるが、この二つの城は一度行ったことがあり(勿論、またじっくりと散策する予定ではあるが)至近距離に中世の城址があることを知ったので、手始めに、片倉城を訪れてみようと、考えたのである。
 JR八王子駅から横浜線に乗ると、一つ目の駅"片倉"が、今回の目的地である。駅から歩いて五分ほど行ったところに、小高い丘があり、長年の体験から、そこが片倉城であることが、すぐにわかった。この城址は今は市民公園として整備され、長崎の"平和祈念像"を製作した北村西望の彫刻や"西望賞"に選ばれた作品が、展示されてあった。遊歩道があり、それを登って行くと、城の主郭部分にたどりつく。途中の道わきに紫色をしたカタクリの花が咲いていて、中年の女性が二人、嬉しそうにそれを眺めているのが、印象に残った。
 この片倉城は、湯殿(ゆどの)川と兵衛(ひょうえ)川にはさまれた小比企(こびき)丘陵の舌状部分に立地し、その東側に二の郭(くるわ)と本郭が配置されてあった。土塁で盛られた二つの郭は空堀で隔てられており、橋(掲載した写真参照)で連絡されている。広さは二の郭の方が倍ほどあるが、本郭には狼煙(のろし)台があったと伝えられている。
 —うーん、これはいい拾い物をしたぞ!
 私は心の中で、そう呟いていた。今は雑木林に邪魔されて、視界はあまりきかないが、そのころはさぞかし、周囲の情況が読み取れたに違いない。そう思わせる地形と、スケールを持つ城址であった。もっとも現在の遺構は、長井氏時代のものではなく、その後、関東を支配した北条氏の四代目氏政の弟で、滝山城主である氏照によって大改修が加えられた時のものである。
 —それでも、この片倉城は置賜地方とつながっているのだ…。
 私には、それが無性に嬉しかった。
 —これだから、城巡りはやめられない。
 そうとも思った。いい旅となった。また、歴史の深さを知ることが出来たからである……。


(2015年6月7日11:10配信)