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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)
山形県置賜郡川西町に、私の知人である渡邊敏和氏が住んでいるが、彼は“置賜民俗学会”の理事をしていて、その学会が毎年発刊している機関誌『置賜の民俗』が、この前、私の手元に送られて来た。第22号となる最新号のページをめくったとたん、私の興味を引いた文献があった。それが清野春樹氏の『小野春風館について』であった…。 彼の著作を引用すると、
「米沢市の南東に梓山(ずさやま)地区があり、山形県から福島へ抜ける国道13号線が通っている。梓山の次に刈安(かりやす)、赤浜がある。この13号線沿いで刈安の集落入り口から50メートルほど東南に、一基の石塔が建っている。(中略)ここに建つ石塔が小野春風(おののはるかぜ)屋敷の跡といわれている」
そう記してあり、その箇所を読み終った瞬間、私の胸の中ではっとひらめくものがあった。もし本当に、春風の館跡が刈安のあたりにあったとするならば(清野氏の文献には、「秋田県横手市には春風の家臣だったと伝わる二人の業績が記録され、現在でもその伝統は続いている。元慶(がんぎょう)の乱の時に小野春風に従って出羽国に入り、そのまま土着したという」と書いてあるので、その可能性は高いと思われる)
渡邊氏や、「米沢日報デジタル」を配信されている置賜日報社代表取締役の成澤礼夫氏が住む置賜地方と、現在私が住んでいる東京都八王子市とは、深い関係にある、そう気づいたのだ。
かつて私は「米沢日報デジタル」に『元慶の乱=エミシを投降させた男=』という題で、この小野春風について書いた作品を掲載させてもらったことがあり、(詳しくは本ウェブサイトを検索されたし)、その春風のことが頭の片隅に残っていたから、清野氏の文献を拝読した時、私の脳裏に閃光が走ったのである。
去年(2015)の天気のよいある秋の日、私は八王子市横山町二丁目にある八雲(横山)神社を訪れてみた。城郭関連の書物を何気なく眺めていたら、その中に武蔵七党(平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて、武蔵国=現在の東京都と埼玉県、それに神奈川県の一部が含まれる=在住の土豪が組織した同族集団、その中でも特に有力な七党)の一つである横山党の城館があったとの記述を発見した。そこで日を選んで、行ってみる気になったという次第である。自宅から歩いていけるほどの距離に目的地はあった。甲州街道を横切ってしばらく行くと、社殿があり、境内の右手には『横山神社由緒略記』と書かれた掲示板が建っていたので、さっそくメモを取った。
「延長(えんちょう)二年(924)武蔵守隆泰(たかやす)が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八雲神社)を祀り、天慶(てんぎょう)二年(939)平将門の乱の翌年に横山牧は勅使牧(国営牧場)となり、武蔵権之守(ごんのかみ=正員以外に権〈かり〉に任ずる官=)に任ぜられた小野義孝(よしたか=隆泰の子=)は小野姓を横山氏に改め(横山氏の系図参照)、八幡宮を中心に祭政(宗教と政治)一致を行い、ここに定住した。孝昭(こうしょう)天皇の皇子天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)を祖とする小野一族は、妹子(いもこ)・篁(たかむら)・道風(みちかぜ)・小町などの逸材を輩出した」
以上を書き終えて、私はふうっと大きな息を一つ吐いた。
ーそうか、横山氏のルーツは小野氏だったんだな。だけど、ちょっと待てよ。そうなると“元慶の乱”で活躍した小野春風も、この一族の人間なのであろうか…。
その確証を得たいと思った。こうなると、止まらなくなるのが私の性分である。次の日さっそく市立中央図書館に行って、いろいろ文献を漁ってみた。すると『横山党小野姓横山氏系図』の中に、確かに春風の名もあったのである!。妹子から数えて六代あとに岑守(みねもり)という人物がいるが、その弟石雄の次男が春風であり、石雄の弟の瀧雄の子孫の一人が小野小町となっていた。また道風は先っき出て来た篁(岑守の子)の孫であることも判明した(小野姓の系図参照)また、横山氏初代の義孝が小野姓から横山氏へと改称した理由も『万葉集巻二〇』に載っている宇遅部黒女(うじべのくろめ)の歌の中にある、
「赤駒を山野に放(ほか)し捕り不得(かに)て 多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」
の「多摩の横山」からの引用と想定される。同時に多摩横山が、馬の産地であったことが、この一首からも読み取れる。またこの歌の意味は、旅行く夫(椋橋部荒虫=くらはしべのあらむし=)を馬に乗せてやりたいのだが捕り逃がしてしまい、徒歩で旅にやらねばならぬのかという意味になるらしい。考えたら妹子は遣隋使に派遣された人物であり、篁は平安時代前期の文人として、これも遣唐副使に任命されている。
また、道風は平安時代中期の書道の第一人者であり、小町は『古今和歌集』に十八首の歌を残し、“六歌仙”の一人にも選ばれる才色兼備の女性であったから、義孝の体内にもこの小野一族のDNAが、脈々と流れていたとしても何ら不自然ではない。
そうしてみると、“元慶の乱”の際に見せた、春風の対エミシたちへのさわやかな対応ぶりも、さもありなんという気がして来る。このように清野氏の著作によって小野春風という人物の理解度をより深めた私ではあったが、実は、収穫はこれだけではなかったのである。何と、あの梶原景時までもが、この小野一族の流れを汲んでいたことが判明したのである…。
『新編武蔵風土記稿』によると、現在の八王子市元八王子町には、
「梶原館跡 村の中央より北に寄りてあり、山間にて濶(ひろ)さ二町四方程の地なり、昔梶原平三(へいぞう)景時が住せし所なりと云ふ」
との記述があって、これをまた城郭関連の書物で知った私は、すぐに出向いて行くことにした。JR八王子駅から高尾駅へと向かい、その北口からバスに乗って“宮の前”で下車し、四、五分歩くと赤い鳥居が姿を見せた。その鳥居を潜って参道を進むと、右手に“神木梶原杉”と呼ばれる大樹があった。景時自らが植えたとされ、樹齢約八百年、高さ30メートル余、目通りの幹の周囲が12メートルもあった。あったと記したのは写真でもわかるように、今は根株しか残っていないからだ。樹盛が急に衰え、だいぶ前に(昭和四十七年=1972=四月)、住民たちに惜しまれつつ伐採された。参道をさらに進んで行くと石段があり、登りきった眼前にこれも朱色の社殿がデーンと控えていた。その右手に解説板が設置されてあるので、ここでも書き写すことにした。
「八幡神社 当社は、康平(こうへい)六年(1063)源頼義が、鎌倉由比郷鶴ヶ岡に京都石清水八幡宮の神を奉祀したに始まる。その後、治承(じしょう)四年(1180)源頼朝(頼義−義親−為義−義朝−頼朝とつづく)が家臣に命じて、これを小林郷松ヶ岡に遷す(今比処=このところ=を鶴ヶ岡と称す)建久(けんきゅう)二年(1191)宮殿の造営が終わり、正遷座(せいせんざ=神仏の座を他に移すこと)の際、古神体を頼朝公の家臣、梶原平三景時に賜った。この地(現鎮座地)は、景時の所領ゆえ(私が当地を訪れた時、偶然にも社務所の人=しかもその方の姓は梶原であった!=に話をうかがうことが出来たのだが、それによると、もともとこの地は、景時の母の所有であったという。
実は彼の母は、先ほどの“横山氏の系図”をもう一度眺めればわかる通り義孝から数えて五代目に当る時重〈ときしげ〉の末の妹なのである。横山党は武蔵七党の中でも最大な勢力を誇っていたから、景時の母が実父孝兼〈たかかね=横山氏四代目当主=〉から、かなりの土地を譲られていたとしても不自然ではない)鶴ヶ岡に似たる所を選び、同年六月奉祀した」
ーなるほどねえ。
私は静かに、首を縦に振った。同時に、ここでももう一度、置賜地方と八王子がつながったと感じた。そう感じたとたん、少しあたりを散策したくなった。社殿の裏が、小高い丘になっていたからである(わずかだが、掲載した4番目の写真〈社殿のうしろの左手〉からも、その様子がうかがえる)登ってみると、なかなか見晴らしがよく、ここに城館があったことを匂わせる雰囲気は確かにあった。
すると、今度は、梶原景時とはいったいどんな人物であったのだろうか、それをやたらに知りたくなった。そこで小さな旅から帰った次の日から、新たな文献調べを始めるとやがて、相模国鎌倉郡(現在の神奈川県鎌倉市)に、梶原郷という地名があることがわかった。さらに『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく=源・平・藤・橘など、日本の主要な系図=)』には、
「村岡五郎忠通(ただみち)の次弟鎌倉権大夫景通(かげみち)の子景久(かげひさ)が当地に住んで梶原太郎と称したことによる」
とあった。また、梶原を名乗ったのは、そのあたりが穀(かじ=桑科の落葉高木で、成長した若い枝の皮は、和紙製造の原料となった。楮=こうぞ=のことであるともいう)の木の生えた原っぱであったからだといわれている。
景時は父景清(かげきよ=景通−景久−景長−景清とつづく=)と、横山時重の妹との間に生まれた嫡男で、治承(じしょう)四年(1180)八月十七日、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま=現在の静岡県伊豆の国市=小島といっても海の孤島ではなく、あの世界文化遺産に登録された韮山=にらやま=反射炉のすぐ近くにある)に流されていた源頼朝が打倒平家を目ざして挙兵した時、いとこに当る大庭景親(かげちか)を総大将とする平家軍の一員として、頼朝征伐に向かった。八月二十三日夕刻、三千余騎の精兵を擁する景親は石橋山(神奈川県小田原市)に布陣する、頼朝軍に襲いかかった。けれど、頼朝のもとには三百余騎ほどしかおらず、たちまち打ち破られ、夜陰に乗じて山中に逃れるのがやっとであった。だが、景親は追撃の手をゆるめず、景時とともに頼朝の捕縛に向かった。暴風雨が吹き荒れる中、頼朝とわずかばかりの従者たちは、その時大杉の洞(ほこら=神奈川県湯ヶ原町土肥=)に身を潜めていたが、景時はその存在に気づきながらも、なぜか頼朝一行を捕えようとはしなかったのである。鎌倉時代後期に成立した『吾妻鏡=あづまかがみ=』では、その時の様子をこう描写している。
「八月二十四日、梶原平三景時、たしかに御在所(頼朝一行の隠れている場所)を知るといえども、有情の慮(おもんぱか)りを存じ、この山には人跡なしと称して、景親が手を引きて傍(かたわら)の峯に登る」
と…、この行為が、その後の景時の人生を大きく変えたといってよい。なぜなら、景時の計らいで窮地を脱した頼朝は、立ち去って行く景時の後ろ姿に三拝して、
「我世にあらばその恩を忘れじ、たとえ亡びたとしても七代までは守らん」
と心中に誓ったと『源平盛衰記』にはあるからである…。
こうして二十八日、真鶴岬(まなずるみさき=静岡県真鶴市=)から舟で安房猟島(あわりょうしま=今の千葉県鋸南〈きょなん〉町=)へ渡って、捲土重来を期した頼朝は、翌年の一月以降から、この梶原景時を重く用いるようになって行く。景時も主君の期待に答えるべく懸命に仕え、元暦(げんりゃく)元年(1184)には、頼朝の弟義経の軍に加わって木曽義仲を討ち、さらに平家追討にも功を上げて、頼朝から播磨(はりま=今の兵庫県南部=)・美作(みまさか=岡山県北東部=)の惣追捕使(そうついぶし=守護職の前身=)に任じられた。この景時は、
「言語に巧みの士なり、専(もっぱ)ら賢慮(けんりょ=賢明な考え=)にかなふ」 と『吾妻鏡』に書かれたほどだから、武骨な武将の多い頼朝の家臣団の中にあっては、その才気は際立っていた。このあたりにも景時の体内には、優れた文人を何人も輩出した小野一族の血がかなり流れていたと見るべきかも知れない。
そんな景時ではあるが、一般的にはあまりよい印象をもたれていない。あの判官びいきの代名詞、源義経の行動を、ある事ない事その兄である頼朝に、告げ口したといわれ、それが人々の反感を招いたのであろうが、本当にそういった人物であったのだろうか?。
二度ほど引用した『吾妻鏡』には、景時が頼朝にあてた書状としてこう書かれている。
「廷尉(ていい=検非違使尉〈けびいしのじょう=の唐名=義経の意=〉は自専(じせん)の慮(こころ)をさしはさみ、かつて御旨(頼朝の命令)を守らず、ひとへに我意にまかせ、自由の張行(ちょうぎょう=強行=)をいたすの間」
確かにここだけ読むと、景時が義経のことを、頼朝に中傷しているようにもとれる。ただし、つづきがあるのだ。
「人々恨みをなすこと、景時に限らず云々(うんぬん)」
要するに、義経殿のわがままな一人よがりの行動には、私だけでなく家臣のほとんどが手を焼いているのです。そう報告したに過ぎないということになる。そして、頼朝自信も弟の振る舞いに、危惧をいだいていたのである。
元暦(げんりゃく)元年(1184)八月十七日、義経は、後白河法皇から検非違使尉(現在の裁判官と警察官とを兼ね、権限は強大であった)に任ぜられた。これを知って頼朝は激怒した。なぜなら頼朝は、日本で最初の武家による政権を打ち立てようとしているのだ。京都から離れた鎌倉に地に政庁を構えたのも、公家社会との距離を置きたかったからである。それゆえ頼朝は家臣たちに対して、
「勲功賞においてはその後、頼朝計らひ申上ぐべく候」
(御所からの甘い誘いには、わしの許しなくして決して乗ってはならん)
そうきつく申し渡していたのである。その矢先、頼朝が“日本第一の大天狗”と称した後白河法皇の仕掛けた罠に、義経がまんまとはまってしまったのである。平家が権力を握ると源氏を焚付けてその力を弱め、木曽義仲が京都を制圧すると、頼朝に向かってこれを討てとそそのかす、これが武力を持たない法皇の常套手段であった。
ーおまえは、そんなことまで見抜けないのか!
頼朝が激怒するのも当然であった。第一、御家人たちに対しては厳しくし、実の弟には甘い顔をしていたら、組織などは成立するはずがない。ここは厳罪に処する必要があったのである。
これが頼朝と義経の対立を生んだ最大の要因なのだが、人々はそうは思わず、あくまでも景時の悪口によって判官殿は失脚させられた、そう解釈していた。
事実、頼朝の死後景時を待っていたものは有力御家人六十六名による弾劾状であった。
「凡(およ)そ文治(ぶんじ)以降、景時の讒(ざん=あしざまにいって人をおとしいれること=)により命を殞(おと)し、職を失ふ輩(ともがら=なかま=)あげて計ふ可(べ)からず」
と『吾妻鏡』にはあるので、景時には後年の太閤秀吉の死後、同僚である加藤清正や福島正則・細川忠興(ただおき)といった武将たちに嫌われた、石田三成によく似たところがあったのかも知れない。
いずれにしてもこの弾劾状によって鎌倉を追放された景時は、正治(しょうじ)二年(1200)正月、秘かに京都に向う決意を固め、西上の途につくのだが、同月二十日亥(い)の刻(午後十時)現在の静岡県清水市にある清見関に至った所で、鎌倉幕府の命を受けた在住武士団に襲われ、
「景時、狐崎(きつねがさき)に返し合はせて相戦ふのところ、飯田四郎等二人討ち取られをはんぬ(てしまった)」
『吾妻鏡』がそう記述する最期となってしまうのである。
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみ惜しけれ」
これが景時の辞世であると伝わっている。
最後に、横山一族のその後に少し触れておくと、梶原景時が討たれてから十三年後の建暦(けんりゃく)三年(1213)五月二日、執権北条義時(頼朝の妻政子の弟)の挑発に乗った和田義盛は、一族に檄(げき)を飛ばして兵を挙げたが、この時の横山氏の当主時兼(ときかね=横山氏7代目=)は、父時広(ときひろ=時重の子=横山氏の系図参照)の妹が和田義盛に嫁いでいるという関係もあって、一族数十人を率いて鎌倉に入り、和田軍と合流した。
「そして…、若宮大路・由比ヶ浜一帯で幕府軍と戦うが、三日夕暮れ、和田軍は潰走し、横山一族は散って行った。こうして、横山氏の本流は没落し、八王子を中心とする横山荘は、大江広元の所領に組み込まれた」
と『日本城郭大系 埼玉・東京』(新人物往来社発刊)にはある。
ーうん?、大江広元?…
文献でその名を知って、私は改めてどきんとした。というのも、その人物の次男である大江時広は文治(ぶんじ)五年(1189)に、源頼朝が奥州征伐を行なった際にこれに従い、功績を上げて長井荘(現在の山形県長井市)の地頭職(じとうしき)に任じられているからである。こうしてみると、毛利元就の“三本の矢”のたとえではないが、小野春風・梶原景時・大江広元、この三本の糸を縒(よ)り合わせ、置賜地方と八王子とを結び合わせて行くと、太い線となってつながって行くのだ。そう気づいた私の胸に、たまらない嬉しさがこみあげてきた。本当に、いい発掘調査が出来たと思っている…。
(2016年6月5日11:00配信、6月12日14:30最終版配信)