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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)
2016年の5月7日・8日の両日、私は知人二人と、会津周辺の歴史を探る旅に出た。この旅行のプランが、実現の運びとなるまでには、多少の紆余曲折があったのだが、最終的に私とT氏とが東京駅から山形新幹線に乗り、福島駅西口で、米沢在住のW氏と落ち合う形での合意となった。
定刻通り目的駅に着いた二人は、W氏と合流、彼の車に乗っての旅をスタートさせた。最初に訪れたのが、福島県二本松市にある二本松城である(=写真左)。この城は、そのころ米沢城を本拠地としていた伊達政宗にとって、忘れられない城といってよいであろう。天正(てんしょう)十三年(1585)十月八日、政宗の父、伊達氏十六代目の当主輝宗は、二本松城主畠山義継(能登=今の石川県=の守護職=しゅごしき=畠山氏の支流)の謀略によって身を拘束され、全長約239キロメートルにも及ぶ阿武隈川(あぶくまがわ)を渡る寸前の高田原(粟の巣=あわのす=)付近で殺されてしまった(一説には政宗自身が、義継によって敵国に拉致されそうになった父親を=川を越えられたら、そこはもう畠山氏の領土である=家臣に命じて、義継もろとも鉄砲で撃ち殺したともいわれている)いずれにしても、父の弔い合戦に燃える政宗は、翌十四年(1586)七月十六日、二度目の攻城の末に、この二本松城を陥落させた。もっとも写真に映る箕輪門(みのわもん)と付櫓(つけやぐら)は、寛永(かんえい)二十年(1643)八月、丹羽長重(にわながしげ=織田信長の重臣長秀の子=)の三男光重(みつしげ)の時代に建造されたものを、さらに昭和五十七年(1982)に推定復元したものだが、しばらくその場に立ちつくしていると、独眼竜と称された男の、屈折した思いが伝わってくるようであった…。およそ二十分後、三人は駐車場に戻り、近辺の食堂で昼食を取ったのち、二番目の探訪地を目指すことになるのだが、W氏が車で向かった先は、私にとってのサプライズプレゼントであった。
二本松城を攻略する前年の十月十五日、政宗は最初の攻城を敢行するのだが、守りが堅固で攻めあぐねているうちに大吹雪となって、兵を退かざるを得なかったのである。ところがそこへ、二本松城を救援すべく常陸(ひたち=今の茨城県=)の佐竹氏・会津の芦名氏・相馬氏といった諸豪たちが、連合軍を結成し、押寄せて来るという情報が入った。
「あの生意気な若僧(当時政宗は十九歳)を今のうちに叩きつぶしておこう」
彼らはこう考え、三万の兵を集めた上で、伊達領への進攻を開始した。これに対して、伊達軍は総勢一万三千ほどの兵力しかなく、事態は政宗にとって、明らかに不利であった。
伊達氏の支城を次々と落した連合軍は、十一月十六日、会津街道と奥州街道とが交差する地点に近い、前田沢の南の原(現福島県郡山市)に布陣して、敵の出方を待った。やや遅れて政宗は、七千余(残りの六千余は、二本松城への備えとして、どうしても確保しておかねばならなかった)を率いて、阿武隈川沿いの観音堂山と呼ばれる、小高い丘の上に本陣を置いた。まもなく夜が明けた十七日の早朝、戦いの火ぶたは切って落された。しかし…であった。七千対三万では、勝負の行方は見えていたといってよい。じりじりと伊達軍は押しまくられ、政宗の本陣にも危機が迫った。が、この時、伊達の老雄鬼庭佐月(おにわさげつ=子孫は茂庭と改姓=)は主君を救うべく、冑(かぶと)もつけず綿帽子(わたぼうし=真綿を広げて作ったかぶりもの。防寒用として使った。のちに装飾化して、婚礼の際、新婦の顔をおおうのに用いた=)をかぶり、六十騎を従えて出撃、戦いの中心となっている人取橋(ひととりばし)を越えて敵陣へと突進した。左月は阿修羅のごとくに奮戦するも、やがて力尽き、多くの部下とともに華々しく討ち死にして果てた。政宗はこの七十三歳の老雄の働きによって、かろうじて窮地を脱することになるのだが、W氏は、その佐月の戦死した場所(福島県本宮市=写真下)へと、私とT氏の二人を、連れて行ってくれたのである。これはこの私にとっては、涙が出そうになるほどの感激だった。
なぜなら、私のルーツを遡(さかのぼ)って行くと、この左月に辿(たど)り着くからである。ただし、本流ではない。太い木の幹から枝分かれした何本かの枝の、そのまた未端の細い枝にしかすぎない。それでも、私の祖母が茂庭の分家の娘であることは間違いはなく、つまり、左月のDNAは、ほんの0.01%かも知れないが、私の体内には脈々と流れているのである。そう思いつつ、カメラを構えてシャッターを押そうとした。だがその瞬間、右手の人差指がかすかに震えているのが自分でも分かった。
-これが、祖母から受け継いだ血だ!
そう私は、心の中で叫びたかった。そして一枚撮り終ると、W氏に近づいて行き、かなりの力で、その肩を思わず叩いていた。
-本当にどうもありがとう。
その気持ちを相手に伝えるためにである。
我々が三番目に足を踏み入れたのは、猪苗代城(福島県猪苗代市)である。下の写真の石垣が、まず眼に入った。私の大好きな野面積(のづらづみ)である。この素朴さがたまらない。石垣の左手には長く続く石段があり、そこをゆっくり登って行くと、本丸に至るのだが、この城も、政宗ゆかりの城なのだ。
二本松城を攻略して意気揚がる政宗、その彼の胸中に新たに芽生えて来たのが、奥州制覇の野望であった。
-いやいや、それだけではないぞ。
独眼竜は、ふてぶてしくそうつぶやく。
-オレは、いずれは関東へも進出してやる。
若いだけに、彼の夢に限りはなかった。天正十七年(1589)四月二十二日、大望を胸に、政宗は米沢城を出陣、芦名氏征伐の兵を挙げた。彼の眼前に立ちはだかる最大の障害は、何といっても永享(えいきょう)六年(1434)以来、陸奥国(むつのくに)会津郡守護職に任じられている名門芦名氏なのであった。この強敵を倒さない限り、仙道筋(福島県中通り地方。現在でもここを、東北自動車道路が貫通している)を支配することは出来ない。さらには、関東への進出も不可能となる。しかしながら、この芦名氏を倒すことは、容易なことではなかった。そこで政宗が目をつけたのが、猪苗代城を本拠地とする、猪苗代氏であった。もとを正せばこの一族は、芦名氏と同族であり、源頼朝の功臣三浦義明(よしあき)を祖としている。その孫に当る盛連(もりつら)の嫡男経連(つねつら)が猪苗代城を築いて猪苗代氏を名乗り、五男光盛(みつもり)が三代目(初代が義連=よしつら・義明の子=二代が盛連)として芦名氏を継いだのである。さらには政宗にとって都合のよいことに、そのこの猪苗代氏では、内紛が起こっていたのである。父盛国(猪苗代氏十三代)と嫡男盛胤(もりたね)の対立がそれであった…。
「伊達に味方して、芦名攻略が成功したならば、そちに会津地方の半分を与えよう」
そういう甘い言葉で盛国の調略に成功した政宗は、二万三千(諸説あり)の兵を率いて芦名領内に攻め入り、五月四日にはまず、芦名氏の支城の一つ、安子ケ島(あこがしま)城を落した。つづいて高玉(たかたま)城(両城とも、福島県郡山市にある)を陥落させると、猪苗代城に入って、次の作戦を練った。一方、芦名氏二十代目の当主義広も、その間何もしていなかったわけではない。五月二十七日、須賀川城に入った義広は、二十八日には滑川(なめがわ=いずれも福島県須賀川市にある=)まで進出し、伊達郡追撃の動きを見せた。六月四日、
「猪苗代盛国が政宗に寝返った!」
との情報を耳にした義広は、伊達への進軍を取りやめ、至徳(しとく)元年(1384)に芦名氏七代直盛(なおもり)が築いた会津若松城(写真下)、もっともそのころはこの城のことを黒川城と呼び、芦名氏の本拠地であった。今のような呼び方になるのは、天正十八年=1590=に、蒲生氏郷=がもううじさと=が会津領主となって、城を大改修した時からである。彼は郷里の近江国=おうみのくに、今の滋賀県=蒲生郡日野にある若松の森にちなんでそう改名した。しかも氏郷時代の天守は現在よりも一段と大きな、七重であったといわれている)に入り、政宗と雌雄を決する覚悟を決めた。
そしてついに、六月五日辰刻(たつのこく=午前8時=)猪苗代城を出撃した伊達政宗と、一万六千の兵を擁して黒川城を発った芦名義広とが、周囲50キロメートルにも及ぶ日本第4の湖猪苗代湖畔にあって、標高1819メートル、会津富士と称される磐梯山を背後にした、摺上原(すりあげはら)で激突した。
緒戦は、兵力に劣る芦名軍が優勢であったが、午前中の風向きが、午後になって西から東に急変したことによって戦局も一転、伊達軍の勝利となった。こうして宿敵芦名氏を破り、奥州に覇を唄える基礎を築いた政宗は、威風堂々として黒川城に入った。我々が彼にならってその城を目ざしたのは、会津若松市内のホテルで一泊したのちの、5月8日の10時近くであった。けれど、ここにはかなり多くの観光客が訪れているので、城内には忍びこまず、ざっと周囲を散策しただけで、次の飯盛山へ向かった。そして、白虎隊の墓、少年たち二十名が、決死の思いで潜り抜けたとされる弁天洞門(天保=てんぽう=七年=1837=に、農業用水路として開削された)、白虎隊記念館などを見て、車へと戻った。以上で今回の会津周辺の歴史探訪は終了となるのだが、昼どきになったので、喜多方に寄ってラーメンを食べ、米沢駅へと向かい、その地で私とT氏は再び新幹線での帰省となる。だが話の最後に、ぜひ一つだけつけ加いたいものがある。W氏が私とT氏に、さらなるサプライズプレゼントを用意してくれていたのである…。
二日目の旅は、八時半スタートとなったが車を発進させると同時に、W氏が、
「まず、向羽黒山(むこうはぐろやま)城に行きましょう」
そう切り出したのである。会津若松城の近くに、そういった城があることは、地図を眺めて認識していた。
ー「一度はぜひ、行ってみたいな」
そうとも考えていた。けれどW氏に必要以上の負担はかけられない、その思いがあるから、私の口からは言い出せないでいた。それをW氏が自ら提案してくれたのである。無論私やT氏に、反対する理由などない。素直にW氏の好意に甘えることにした。四十分ほど車を走らせたであろうか。前方に小高い丘が見えて来て、
「多分、あれっぽい」
そう見当をつけたW氏は、そのままその丘を目ざして、車を疾走させた。山道にさしかかり、間もなくして視界が開けた。案の定、そこが写真下の向羽黒山城二の曲輪跡であった。『新編会津風土記』にも、
「芦名修理大夫盛氏(しゅりだゆうもりうじ=十六代目=)其子盛興(そのこもりおき)に家を譲り、永禄(えいろく)四年(1561)事を始め、数年の後城築の功成て比(ここ)に隠居す」
とある。また、芦名氏を滅ぼした政宗が、手にしたばかりの黒川城に入るのは、天正十七年六月十一日のことだが、彼はすぐその城で生活を営まず、本丸御殿などの改修を行った上で、七月六日、正式に居城としている。またその間、
「要害へ六月十七日、二十一日、七月三日、十四日と頻繁(ひんぱん)に出かけた」
と『伊達天正日記』には書かれている。そしてこの要害こそ、向羽黒山城のことだと、会津若松市編集の『会津芦名氏の時代』の記述にはある。要するに、この城も伊達政宗とはつながりがあり、米沢から二本松城→人取橋→猪苗代城→向羽黒山城→会津若松城と巡って来た今回の旅は、まさしく、独眼竜政宗の足跡をたどるルートとなった。大満足!その一言に尽きる旅であった…。改めて。W氏に感謝すべきであろう。
(2016年7月29日18:00配信)