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竹田 歴史講座

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寄稿「天守と石垣に魅せられて」斎藤秀夫


saitohideonew  寄稿者略歴
 斎藤秀夫(さいとうひでお)
 山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)


「私は城が好きである。あまり好きなせいか、どの城址に行っても、むしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を、心の中でしてしまうほどに好きである」
 これは、国民的作家である司馬遼太郎氏が、『街道をゆく"大和・壼坂みち"』の中で述べている言葉だが、この私も、その城址の散策を始めて、そろそろ四十年近い歳月が流れようとしている。城址巡りを始めたころは、天守がないのは城ではない。そう考えていた。そのため、北アルプスの支脈、標高2,857メートルの常念岳を背にしてすくっと立つ松本城(長野県松本市)には、私が住んでいる東京都から一番近い現存天守ということもあって、これまで、三度ほど足を運んでいる。そしてそのたんびに、この城を眺める自分の心に、変化が起きていたことを、改めて認識したのである…。

 最初に松本城を訪れた時は、果して、この城を築いたのは誰か?ということであった。そこで旅先から戻り、文献を調べてみると、まず室町時代の初期に、足利尊氏に従っていた小笠原貞宗が信濃守護になり、『信府統記』に、
「林村より卯(う)の方(東)十七町(約1.8キロメートル)小笠原家の要害」
 とあるように、林城(松本市里山辺)に城を築いたことが解った。この城は大城と小城に分かれていて、筑摩・安曇野(あずみの)・伊奈地方に勢力を伸ばした、小笠原家(貞宗以降、長朝−貞朝−長棟〈ながむね〉−長時〈ながとき〉とつづく)代々の居城であった。だが、天文(てんぶん)十九年(1550)の『笠系大成』にも、
「林の城より少々防ぐと雖(いえど)も終(つ)いに落城」
 とあるように、同年七月十五日、当時の城主長時を打ち破ってこの城を奪い取った武田信玄は、林城をすぐに破却して、今の松本市本丸にある小笠原家の支城深志(ふかし)城に大改修を加えて、東信濃と北信濃への進出拠点としたのである。信玄が林城を壊した理由としては、大城は標高846メートルの金華山の頂に、小城は標高787メートルの福山の頂にあって、大規模な構えをしているとはいえ、これからの武田家の発展にはむしろ不向き、そう判断した結果であろう想定される。一方、領国を追われた長時・貞慶(さだよし)父子は、旧領回復の悲願を胸に秘めて諸国を転々とし、好機が訪れるのをひたすらに待った。

 天正(てんしょう)十年(1582)六月二日、日本中を揺るがす大事件"本能寺の変"が起きた。その三ヶ月前には、宿敵武田氏も滅亡していたから、貞慶は徳川家康の支援を受けて旧臣たちを集め、深志城に攻め入り、念願の本領回復を成就させ、同年七月、深志城を松本城と攻めたのである(なお長時は、翌年の二月二十五日に死去)
 二度目に松本城を見学した時には、
「この城の天守は、なんで黒いのだろう?」

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千鳥破風と入母屋破風の構造の違い

 そんな疑問が生じた。世界文化遺産にも登録されている姫路城(兵庫県姫路市)は、日本城郭史上最高の傑作、そう表現しても過言ではない見事な城だが、その天守の壁は白亜で、このため"白鷺城"の別称を持つ。この壁の色の違いは、いったいどこから来ているのだろう?そう思うと、ますます気になってしかたなかった。第一、天守の壁が黒いのは、何も松本城だけではない。平成二十八年年(2016)四月の地震で、大打撃を受けた熊本城(熊本県熊本市)、あるいは千鳥破風(掲載した図参照)が美しい松江城(島根県松江市)、さらには岡山県岡山市にある岡山城も"烏(う)"城と呼ばれている。反対に白亜の天守の壁を持つ城は、姫路城以外にも福山城(広島県福山市)があるし、天守こそ現在は残っていないが、築城当初は『慶長(けいちょう)見聞録』に、
「夏も雪かと見えて面白し」
 そう書かれ、同じく『見聞軍妙』にも、
「殿主(天守)は雲井(空)にそびえておびただしく、なまりかはら(鉛瓦)をふき給えば雲山の如(ごと)し」
 そう形容された江戸城も、白亜の天守を持つ大城郭であった。
「これには何か理由がある」
 そう考えた私は、その城を築いた武将たちに興味を持った…。柿渋(かきしぶ)と煤(すす)からなる墨を塗った板を張る下見板張の松本城天守は、徳川家康のもとを放れ、豊臣秀吉の傘下となった石川数正・康長(やすなが)父子による改築である。それまでの城主小笠原秀政(=貞慶の子)は天正十八年(1590)、小田原北条氏滅亡とともに下総古河(しもうさこが=現在の茨城県古河市)へ転封となる。松江城はこれも秀吉の家臣堀尾吉晴の造営したものである。さらに岡山城は、毛利から豊臣に寝返った宇喜多直家(秀家の父)が天正元年(1573)の秋に、もともとあった石山城を大改修して、己の活動拠点としたのである。熊本城はご存知のとおり、加藤清正が築いたものである。つまり、黒壁の天守を持つ城は、豊臣秀吉の家臣によって建設されたといって良いであろう。
 一方、荒壁−中塗といった工程を経て、最後に漆喰(しっくい=石灰)を塗って仕上げる白漆喰の壁を持つ姫路城は、家康の娘婿池田輝政、西国大名への押さえ福山城は、家康のいとこにあたる水野勝成(かつなり)によって築かれている。そして、初代の江戸城も、白亜の天守であった。これは、単なる偶然であろうか?
 そういえば、慶長二十年(1615)五月七日、徳川方に攻められて陥落した大坂城を描いた『大坂夏の陣図屏風』を眺めると解るのだが、天守の一重目と三重目に入母屋(いりもや)破風を設け(掲載した図参照)、最上階には金の鷺が舞い、金の虎がにらみを利かす五重で漆黒の大天守が鮮やかに描かれている。そして、この大坂城を築いたのは、いうまでもなく秀吉その人である。だからといって、豊臣系の武将が造営した天守の壁はすべて黒で、徳川系の武将が築いた天守の壁は白、そう断定する根拠は何一つとしてないのだが、私なりの推測でいうと、天下を統一した秀吉は、関白となった。そして、この関白の正式な衣冠装束は黒袍(こくほう=袍とはまるえりのことで、位階によって服色を異にしている)なのである。
 これに対して、源氏を称した家康は、征夷大将軍に任じられた。この武家最高の役職は、源氏にしか認められておらず、しかも、源氏の旗印は白であった。ゆえに、二人は黒と白にこだわった…、そう捉えても良いのではないか。一歩退いて、秀吉の場合はただ無邪気に、黒を好んだだけなのかも知れないが、家康の場合は、意識的に白に固執したのではないだろうか。つまり、天守の壁の色が黒から白に変わったことによって、時代も豊臣から徳川へと推移したことを、領民たちにはっきりと理解させる必要があった…、どうも、そんな気がしてならないのだ。

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松本城

 三度目に松本城を訪れた時は、この城は角度を変えて眺めると、まるでその表情が違うと感じたものである。現在我々が眼にする松本城の原型を築いたのは、先っきも記したように、石川数正・康長父子によって、1番目の写真の左部分に見える乾(いぬい=北西の意)小天守が、文禄(ぶんろく)二年(1593)にまず完成(ただし、数正はその前年に死去)、次いて慶長二十年(1615)写真の右手に見える大天守が増築され、渡櫓(わたりやぐら)で、乾小天守と結ばれる連立式の天守となった。
 この北西の方角から眺めた松本城は、いかにも無骨で、戦いを常に意識した表情をしている。大天守の下部に、石落し(いしおとし=石を落下させ、矢を射下ろして敵を防ぐ)が設けられてあるのが、その証拠である。ところが、場所を替え、反対側の方角から同じ城を遠望してみると、平和な時代の開放的な雰囲気が漂ってくる。

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南東方向からの松本城

 2番目の写真、大天守の脇に見えるのが辰巳(たつみ=南東の位)付櫓で、よく見ると、この櫓には石落しがない。辰巳付櫓はその右の月見櫓とともに、寛永(かんえい)十年(1633)松平直政(なおまさ=家康の孫)によって増築された。このように、同じ城をたびたび散策して行くうち、自分の眼も次第に肥え、当初は天守がないのは城ではない、そう考えた自分を、強く恥じるようになって、やがて天守よりも、むしろその天守を支える石垣に、より魅かれるようになって行った。

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伊賀上野城の高石垣

 3番目の写真は、三重県伊賀上野市にある、伊賀上野城の高石垣である。この見事な石垣は、加藤清正・黒田官兵衛(如水=じょすい)と並ぶ"築城三名人"の一人、藤堂高虎によって築かれている。熊本城、あるいは丸亀城(香川県丸亀市)の石垣の一部には、天端(てんば=石垣のてっぺん)に向かうに従って反り返る扇の勾配(おうぎのこうばい)、又は忍(しのび)返しともいわれるものが取り入れられているが、伊賀上野城の石垣は、気持ちよいほど一直線に伸びている。また写真をさらに注視すると、石垣の隅の部分が、長い石と短い石とで、交互に組み合わさっていることが読み取れる。これを算木(さんぎ)積というが、算木に似ていることからその名が付いた。算木とは和算で用いる計算用具のことである。
 すばらしい石垣から眼を放し、歩きかけた私であったが、ふっとその足が止まってしまった。突然、面白いことに気がついたのだ。どういうことかというと、この伊賀上野城は慶長十六年(1611)に、先っきも記したように、家康の命を受けた高虎が工事を完成させた。関ヶ原の戦い(1600年)で勝利を得たとはいえ、まだ大坂城には秀吉の遺児秀頼を中心とした一大勢力が、家康の前に立ちはだかっていた。そこで家康はその大坂方を牽制(けんせい)すべく、築城の名手高虎に堅固な要塞を築くよう厳命したのである。そして、この城が完成した三年後に、大坂夏の陣(その前年には冬の陣)が起きているから、いかに家康がこの城を重要視していたかが解るであろう。現に大坂方と戦って万が一、徳川方が不利な状況に追い込まれた時は、
「自分(家康)は上野城に引き籠(こ)もり、大樹(たいじゅ=秀忠のこと)は江洲彦根(滋賀県彦根市にある彦根城)へ入れさせる」
 そう述べていたことが『藤堂家記録』には書かれている。そのため、この高石垣は西の方向、要するに大坂方を迎え撃つ造りになっていた。そして、30メートルもの高さが必要であったのである。ところが、高虎が伊賀上野城を大改修する前は、筒井定次(順慶の養子)の居城であり、その定次時代に築かれた石垣は今も"筒井古城"として、同じ城内に残っているのだが、その石垣の方角は、藤堂時代の高石垣とは正反対な、つまり、豊臣方を守ろうとする構えになっていたのである。なるほど定次は、秀吉から羽柴の姓を賜っているほどだから、徳川方の攻撃に耐えうる石垣を積み上げたのも、うなずける話ではある…。
 先っき少し触れた福山城五重天守の北面外壁も、搦手(からめて=城の裏門)口の防衛強化のために、鉄板で被われていたというから、仮想敵国に対する備えは、常に厳重さが求められていたのである。今の天守は昭和四十年(1965)に再建されたものである。このように、石垣一つを観察するだけでも、時代の流れを読み解くことが出来るのである…。
「私をよく観察して下さいね」
 そんなふうに、石垣のささやき声が聞こえるようになったら、城址巡りも一人前といって良い。この石垣が日本の城に出現するのは、天正四年(1576)正月、織田信長が琵琶湖のほとりに造営した安土城(滋賀県近江八幡市)が、最初であるとされている。もっとも、最近の発掘調査によって、信長が永禄(えいろく)六年(1563)から工事を始めた小牧山城(愛知県小牧山市)にも石垣が存在していたことが、確認されている。しかしそれでも4番目の写真の観音寺城(安土城のすぐ隣りにある)には、それ以前に、すでに石垣が築かれていたのである。というのも、天文五年(1536)潮東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の一つ金剛輪寺に、

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観音寺城の石垣

「御屋形様(多分、当時この地を支配していた六角定頼、承禎(=しょうてい)の父のことであろう)石垣打申」
 とあり、さらに『馬場文書』の弘治(こうじ)二年(1556)の中にも、石垣普請の記述が見えることから、石垣の導入は、必ずしも信長が最初ではなかったことになる。天守そのものにしても、信長の安土城をもって、その創始とするといった文献が数多く見られるが、これも永禄三年(1560)奈良県奈良市にある眉間寺山(みけんやま)に松永久秀が築いた多聞城は、
「日本城郭史上、天守を持つ近世城郭の発祥となった四層の多聞櫓を持つ、独創的な構造の城郭であった」
 と平凡社発刊の『奈良県の地名』にはそう書かれている。さらに、五年後(1565)にこの城を訪れたポルトガルの宣教師、ルイス・デ・アルメイダは『日本見聞集』の中で、
「ヨーロッパにもない美観である」
 そう絶賛しているから、天守もまた、信長の独創ではなかったことになる。
「櫓と天守とはまるで違う」
 そう理論的に追究されたら、この私には反論できないが、けれど江戸幕府をはばかって、伊達政宗の重臣片倉小十郎が、宮城県白石市に築いた白石城天守を、あえて大櫓と呼ばせた例もある。しかもこの大櫓は、土佐(今の高知県)二十四万石の高知城の天守の規模に匹敵する。ゆえに安土城が必ずしも日本で始めてとなる、天守を持つ城ではなかったと私は考えているのである…。もう一つ加えておくと、楽市楽座(領主の保護による市場税・商業税を免除した商業振興政策)の導入も、信長が編み出したものではなく、さっき記した観音寺城の城下では、天文十八年(1549)十二月十一日付の『六角氏奉行人連署奉書(今堀日吉神社文書)に、
「石寺新町(観音寺城の城下町)儀は、楽市たるの条」
 とあって、信長がその制度を導入する以前にも、六角定頼によって、すでに行われていたことを証明している。そのことから、よく織田信長を称して革命児という人がいるが、石垣・天守の造営、あるいは楽市楽座の開始と、これらの事例を見る限り、すべて彼のオリジナルではなかったことが見えて来るのである。第一、彼は家臣の謀反にあって命を落としているのだから、当時の武将たちの間で、信頼が厚かった人物ともいえないであろう。今一度信長という武将を、考え直す必要があるのではないか、そんな気が強くしている。

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上田城の石垣

 ま、それはそれとして、石垣が日本歴史の動向を、静かに見守って来た生き証人であることは確かであろう…。5番目の写真は、2016年のNHK大河ドラマの主人公、真田信繁(のぶしげ=幸村)の父昌幸が築いた上田城(長野県上田市)にある石垣の一つである。太郎山という山から掘り出した、高さ2.3メートルほどの緑色凝灰岩で"真田石"と呼ばれている大石である。なるほど、この巨石が話し出すことなどはあり得ない。けれど、心を無にしてじいっとその場にたたずんでいると、
「あのう…」
 とやがて石垣たちが、ぽつりと何かを、この私に語りかけて来る気がするのである。
「実はですね、斎藤さん、この城の中では、昔こんな出来事があったのですよ」
 恐らく彼らにしても、すべての人に対してそうつぶやくわけではあるまい。心から、天守と石垣を愛する人物にしか、己の心情を告白したりはすまい。
「私は城が好きである」
 冒頭に紹介した司馬氏の言葉は、やはり名言というほかはない。

(2017年1月21日15:20配信)