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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)
現在私が住んでいる東京都八王子市には、歴史ファンの心を魅了する、いくつかの寺院が残されている。たとえば、市内の台町(だいまち)三丁目には、甲斐(今の山梨県)の守護である武田信玄の娘松姫が静かに眠る、信松院(しんしょういん)がある。
彼女は悲劇の女性で、かつては、尾張(今の愛知県)の織田信長の嫡男、信忠の婚約者であった。だが、元亀(げんき)三年(1572)十二月二十二日、父の信玄が三方ケ原(みかたがはら=静岡県浜松市)台地で、三河(今の愛知県)の徳川家康と戦った際、信長が家康に援軍を送ったことに激怒した信玄が、一方的にこの婚約を破棄してしまったのである。以後、両家の関係は悪化し、天正(てんしょう)十年(1582)三月十一日、信玄の跡を継いだ勝頼は、織田軍に攻められて自害、行き場を失った松姫は、兄勝頼の妻の実家である北条氏を頼って、その領国内である八王子へと逃れて行った。そして、彼女がその後の人生を送ったのが、信松院なのである。
さらには、松姫と共に逃れて来た姪の小督 (こごう=彼女は勝頼のすぐ下の弟、仁科盛信〈にしなもりのぶ〉の娘)の墓も、市内大横町の極楽寺に存在しているのである…。
そこで、桜がちらほらと咲き始めた三月末のある晴れた日、私はそんな八王子の街を、ぶらりと散策してみたのである。なぜなら、文献を調べていて、弘治(こうじ)三年(1557)発給の『北条氏朱印状(年代から推測して、四代目氏政のものであろう)』の中に、「八日市市場西蓮寺」、
つまり、そのころこの寺の周辺で、市が開かれていた、ということが解ったからである。
西蓮寺、この真言宗の寺院は叶谷町(かのうやまち。この名前をぜひ記憶に留めておいて欲しい)に接する大楽寺町にあって、山門を潜ると右手に、寄棟造(よせむねづくり)の屋根を持つ、幅三間(約4.8メートル)四方の堂があった。歴史を感じさせるその建造物の左側には、解説板が設置されていたので、すぐにメモに取ることにした。「西蓮寺・薬師堂。室町時代末期の建立で、虹梁(こうりょう=化粧梁の一つ、奈良時代には梁の上部に、やや反りを持たせてあったことから、その名が付いた)の一部に焦げた跡がある。これは『新編武蔵風土記稿』によれば、天正十八年(1590)六月、小田原攻めに際し、上杉景勝の家臣が八王子城攻略に当って、堂内で炊事をしていたためであると伝えられている」
—なに?、上杉景勝だと?
その名前を書き終ったとたん、私の胸はどきんとなった。この武将はあの平成の大横綱、優勝二十二回を誇る貴乃花(現在は貴乃花親方)が尊敬していて、その弟子の一人、今年の大阪場所で十一勝四敗で敢闘賞を受賞した貴景勝(たかけいしょう)のしこ名にしているほどであり、この私自身も、非常に興味を覚える武将の一人なのである。そこで、この人物について、少し触れてみることにした。
上杉景勝が兵一万を従えて、春日山城(新潟県上越市)を発ったのは、天正十八年三月上旬のことであった。出陣先は関東で、北国街道を南下して、十五日には海津城(長野県長野市=1番目に掲載した写真は、城内に置かれてある解説板を写したものである)に入り、その後、一万八千を擁する加賀(今の石川県)の前田利家・利長父子、信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸三千、さらに、小諸城(同小諸市)の松平(依田)康国四千の兵と合流して、三月十八日、信濃と上野(こうずけ=今の群馬県)の境にある碓氷峠(うすいとうげ)を越えて、上野国へと入った。その上で、総勢三万五千となった大軍がまず目ざしたのが、峠の麓にある松井田城(碓氷郡松井田町)であった。この城を預かる大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は、三年前に城の大改修を行っていたから、防衛能力は高く、苦戦を強いられたが、四月十九日、ようやく陥落させることが出来た。上杉・前田を主軸とする連合軍は、投降した政繁を道案内に立てて、四月末までに、厩橋城(まやばしじょう=前橋市)、箕輪城(みのわじょう=群馬郡箕輪町・2番目の写真は、城内に建つ石碑を写したものである)などの、北条方の支城を次々に攻略して行った。だが、そのほとんどが、
「松井田城が落ちた!」
と聞くや否や、戦意を失った敵兵自らが城門を開いた不戦勝であった。こうして、上野国を席巻した連合軍は、武蔵国(今の埼玉県と東京都、それに、神奈川県の一部を含む)に兵を進め、北条氏邦(うじくに=四代目氏政の弟)が守る、鉢形城(はちかたじょう=埼玉県大野郡寄居町)を包囲した。五月十三日に、豊臣秀吉が景勝に宛てた指示書が残っていて(上杉家文書)松井田城受取後は、
「早々鉢形へ詰寄(つめよ)らるべく候」
とあって、この城の攻撃は、五月半ばごろから開始されたものと想定される。けれど、この鉢形城は、長亨(ちょうきょう)二年(1488)に訪れたことのある万里集九(ばんりしゅうく)がその著書『梅花無尽蔵』(ばいかむじんぞう)の中で、
「城壁は、地軸から万尺も高くそびえたち、鳥ものぞくことが難しいほどだ」
そう表現したほどの、天然の要害であったから、容易には落すことが出来なかった。この時、浅野長吉(のちの長政)や木村吉清らの部隊も、城攻めに参加するよう命じられていたのだが、一向に攻めかかる様子を見せず、五月二十五日業を煮やした秀吉から、
「早々鉢形面へ押詰め、景勝・利家に相談し、取巻き候て、様子毎日註(注)進申上ぐべく候」(浅野家文書)
との督促状を送り付けられる始末であった。この秀吉からの叱責は効を奏し、さしもの鉢形城も、五万余騎に膨れ上がった豊臣軍の前には成す術(すべ)もなく、六月十四日ついに開城となった。その後、浅野らの別働隊は深谷城(埼玉県深谷市)へと向かい、上杉・前田らの主力部隊は、いよいよ、八王子城を目ざすこととなった。
六月二十三日の払暁(ふっぎょう)より、八王子城攻略は開始されたというから、景勝率いる上杉軍が、西蓮寺に宿営したというのは、それより、一、二日前の出来事であったに違いない。むろん、寺の境内に全軍が収容されたわけではなく、景勝以下、重だった者だけが寺を使い、その他の家臣たちは、周囲の民家に分散して泊り、足軽たちに至っては、野宿を強いられたものと思われる。
ところで、この西蓮寺の境内には、華川(はなかわ)と呼ばれる小川が流れていて、蛍の名所にもなっていた。そこで、景勝の身の回りを世話する家臣たちは、その清水を利用して米を炊き、その際、薬師堂の虹梁を焦がしてしまったのかも知れない。しかしながら、私の友人で山形県東置賜郡川西町在住の、渡邊氏の説によると、
「その時景勝は薬師堂に籠って、護摩(ごま)を焚(た)いていたのではないか?」
となるのである。というのも、景勝の叔父である上杉謙信(景勝は謙信の姉、仙桃院の子)は、信仰の厚い武将であったから、戦いに赴く時には、必ず春日山城内にある毘沙門堂(びしゃもんどう)に入って、戦勝祈願の護摩を焚いていた。護摩は煩悩を焼きつくし、悟りを体現する目的で行われるもので、この叔父を敬愛している景勝が、西蓮寺の薬師堂で同じことを行ったとしても少しも不自然ではなく、その上、主君景勝が謙信同様、信仰の厚い武将であることを知っている家臣たちが、西蓮寺の庫裡(くり=台所)ではなく、薬師堂の内部で、果して炊事をするであろうか?その点が大きな疑問である。もし、西蓮寺に不動尊が祀られていたとすれば、景勝が薬師堂に籠って、護摩を焚いていた可能性の方が高い、と、渡邊氏はさらに述べるのである。そこで、改めて文献を調べてみると、
「西蓮寺の本尊は、不動明王(不動尊)坐像である」
そう記されていたから、どうやら、渡邊氏の推理は当ったというべきかも知れない。いずれにしろ景勝は、寺の境内の一角に床几を据え、自分の身の回りを世話する家臣たちの作った握り飯を頬張りながら、敵の動きを、じいっと見守っていたものと思われる。また、そのころは西蓮寺からは、八王子城が遠望出来たというから(現在は高層ビルなどによって、だいぶ視界はきかなくなってはいるが…)あるいは物見(偵察隊)が戻って来るのを、今か今かと、待ち望んでいたとも考えられる。
合戦当日、景勝率いる八千の上杉軍本隊は西蓮寺近くの叶谷町から、副将である直江兼続率いる二千の遊撃隊は楢原(ならはら)から、二手に別れて進軍を開始した。この隊列の組み方も格別めずらしいことではなく、さきの渡邊氏は、
「景勝の旗本衆(五十騎組)と兼続配下の与板衆との間には、対抗意識が強く、別々に出陣することが、いわば慣習化していた」
というのである。確かに兼続は、与板衆を率いる与板城(新潟県三島=さんとう=郡)の城主、直江景綱の娘お船の婿となって、その地盤を受け継いだ人物であったから、景勝の旗本衆からすれば、武将としての能力は十分に認めながらも、複雑な感情を、兼続に対して抱いており、それが与板衆との反目に結びついたのではないだろうか?…。 ま、それはそれとして、景勝率いる上杉軍の本隊は、濃い霧の中を月夜峰(八王子市元八王子町)から出羽砦(同城山手)をまず攻め、抵抗する北条兵を撃破すると、そのまま尾根を伝って、廿里谷戸(とどりやど)に至り、御霊谷(ごれいや)に突入した。けれど、この地は御霊谷川が上流で三筋に枝分かれしており、その上、城のすべての外郭に通じていたこともあって、北条軍の反撃はすさまじかった。己の非を悟った景勝は、即座に作戦を変更して、『慶安古図』(けいあんこず=1648=に描かれた絵図)に、
「太鼓曲輪、景勝従(彼はこの合戦の二年前に、朝廷より従三位、参議に任じられている)是(これ)を攻む」
とあるように、太鼓曲輪へと迫って行った。するとそこからは、城主氏照(氏政の弟であり、氏邦の兄)が平時居住している御主殿が眼下に見えた。しかも、そこに至る連絡道も認められるのである。
—よし!
景勝は心の中でそう呟くと、さっと采配を振りおろした。
「それものども、進めや進め!」
普通の武将なら、そう大声で下知するところであろうが、景勝は極めて無口な男であり、行動のみが、彼の意思表示であった。それを見た家臣たちは我先にと、連絡道を駈け下った。同時に、御主殿から北条方も繰り出して来て、激しい攻防となった。けれども、数に勝る上杉家は、じりっじりっと前へ進み、一人、二人と、御主殿へとにじり寄った。やがて、集団となって石段を駈け登ると(3番目の写真は、虎口からその石段を写したものである)
主殿正門(写真左の上の方に、その門の頭部分が見える)を打ち破って、雪崩のごとく突入、館に火を放った。この時、城主氏照は北条氏の本城である小田原城(神奈川県小田原市)応援のため留守であったが、御主殿を占拠した上杉軍本隊は、一段と高所にある無名曲輪、さらには最後の砦となる、本丸目ざして突き進んだ。
一方、搦手(からめて=城の裏門)口からの攻撃を受け持つ兼続率いる上杉軍遊撃隊の動きに付いては、『武徳編年集成』が、こう描写している。
「上杉景勝の有力家臣藤田信吉(のぶよし=もと武田信玄に仕える。武田家滅亡後、景勝の家臣となる)の手の者に、平井無辺(むへん)という八王子素性の者がいて、藤田はこれを先導(道案内)にして、東方の渓間の水の手道を伝い、三の丸一庵(いちあん)曲輪に押し登り、逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐために、茨の枝を束ねて結った柵)を取り除き、これ即(すなわ)ち平井無辺の一番功名を遂(と)ぐる搦め手をば、景勝が先手、安田上総介(かずさのすけ)競い攻める」
と。曲輪を預かる河野一庵は、阿修羅のような形相で、敵に立ち向かって行くのだが、やがて力尽きて、息途絶えたのである。この一庵曲輪の陥落が、八王子城攻略の、大きな引き金となったことは間違いない。というのも、合戦が終った十日後に、直江兼続が常陸(ひたち=今の茨城県)の佐竹義宣(よしのぶ)に宛てて、
「八王子之事頓相済、満足被申候」(八王子城のことにわかにあいすみ、満足している)
という、書状を送っているからである。
以上の記述からも解るように、謙信が鍛え上げた上杉軍団の強さは、景勝の代になっても健在であり、それを十分に証明したのがこの"八王子城攻略"であった…、そういっても良いのではあるまいか?
※なお、この作品の中の、八王子城攻略の記述に当っては、前川實=みのる=氏著『決戦!八王子城』(揺籃社発刊)から引用したことを、つけ加えておく。
(2017年5月27日13:50配信)