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会津街道に幕末の残影を追う(2/3)
庄内藩士本間友之助の案内で、良順と弟子の一行は会津から塩川に抜け熊倉宿を経て大塩宿に至った。大塩で止宿し、そして萱峠を越えて桧原宿に着く。桧原から最大難所の桧原峠を越えて綱木に下り、綱木で再び止宿し、更に米沢藩士の先導で綱木峠を越えて関に至った。米沢城下はもう直ぐであった。米沢では藩主上杉茂憲の意向を受けた使いの者が出迎えていた。藩主の意向は、良順に藩医として留まり 藩士達に蘭学と西洋医学を伝授して欲しいと言うもので、強い懇願を受けていた。力づくでも米沢に留めたい強い様子であった。
だが良順は米沢に留まる気はなく、庄内を目指して北上し上山から脇街道を経て寒河江に抜けた。その後寒河江から六十里街道を越えて庄内鶴岡に入っている。さすがに米沢藩藩主の意向も無視できず、米沢には門弟の三浦煥と渡辺洪基を置いてゆくことにした。事態を察知した二人の申し出を容れたのであった。
良順は庄内に活況を感じ取っていたが、気
苦労と旅の疲れからリュウマチの病を発症し、湯田川温泉で温泉治療もしている。その滞在中に、仙台に来ていた幕府海軍副総裁の榎本武揚から手紙が届いた。それは榎本が蝦夷地へ向かうのに際し同行を強く要請するものであった。幕府軍の軍医として蝦夷地での活躍を期待していたのである。至急の報せに良順は庄内を後にして仙台に向かった。その時良順は笹谷峠を越えている。仙台で良順は予想もしないことに輪王寺宮に会う機会を得た。宮は奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されていたのである。
塩釜から船で寒沢に赴き、手紙の主である榎本に会った。しかし仙台で思いがけず土方歳三に出会ったことで良順の運命が変わってゆく。土方の意図は良順に江戸へ戻って、新しい時代に向けて西洋医学を開花して欲しいと言うものだった。土方の説得に決心した良順は江戸へ舞い戻ることにした。江戸では一時、新政府軍により朝敵として捕縛されるが、政府高官の判断で許され新政府の軍医となった。以後近代医学の発展の貢献した。良順がもし米沢に留まっていたならば、米沢藩の医学界は近代医学の道を先駆けていたかもしれない。
良順は庄内藩と米沢藩を比較して庄内藩に好意を抱いているようだ。幕府に恩義を感じる良順からみれば、米沢藩は腰が引けていて気概のない姿勢に嫌気をさしていたのだろう。庄内藩は会津藩と同様に、新政府に対し徹底抗戦しようとしていた。佐幕派医師として庄内藩の力になりたい言う存念が働いていたのだろう。
案の定、米沢藩は新政府軍の前に、いの一番に降伏している。戦国の名門上杉氏の遺風はひとかけらもなかったのである。以後、仙台藩が降伏し、慶応4年9月22日ついに会津藩がぼろぼろになって降伏した。良順は幕府軍の不甲斐無さを痛感したかもしれない。しかし良順の会津日新館に於ける治療は革新的であった。良順は当時の先進近代医学を身につけていた。その目で見た山間の辺境、会津の医療はかなり遅れていた。戦いが会津城下に及んでくる従い傷病兵の数が急速に増えてくる。
一つには傷病兵の傷の回復が遅いのに気を揉んでいたが、良順は長崎で経験したあることを思い起こした。それは傷病の回復には滋養が大切であると言うことだった。その為に"牛肉を食す"と言う当時の会津では想像もできないことであった。慣習からして牛を殺して食すなどと言うことはなかったのだ。藩の重役達は挙って反対した。牛は農耕には欠かせないと言う、屠殺などはもってのほかだと批判した。だが良順は藩主松平容保に訴え
出て、粘り強くを説得し承諾を得た。近郷近在の農家に飼われていた牛を屠殺して牛肉とし、野菜と混ぜて患者に食させたのである。その効果は適面であった。傷の治りを早くし体力回復も見違えるようになった。因みに日本で最初の牛の屠殺は、伊豆下田の玉泉寺に於ける米国領事ハリスの求めでなされている。安政3年(1856)の事であった。もう一つは、鉄砲に撃たれた者の傷の手当てについてであった。当時は鉄砲に撃たれると血止めをして、直ぐに包帯や布を巻いてた。だがこの方法だと体内に鉄砲の鉛弾が残っており、直ぐに化膿してしまいそれがもとで命を無くす要因にもなっていた。良順は西洋医学を学び外科手術も収得していたので、その経験から先ず鉛弾を摘出し、焼酎で傷口を消毒し焼きごてで血止めをしてから包帯を巻いたのである。この方法で傷病兵の死ぬ割合が飛躍的に下がったのである。いずれも古い会津の医療では対処できないことであった。長崎留学の経験が生かされることとなった。このことが会津藩主松平容保に良順への思いを一変させることになる。奥州の一会津藩で抱えるべき人材ではないと考え、会津から逃して日本の為に良順を生かすべきだと思ったのではなかろうか。会津を出るように諭したのである。この戦時の会津からの脱出が後の良順を大成させることになった。
6.輪王寺宮能久親王
江戸上野で挙兵した彰義隊と縁の深い輪王寺宮もこの会津街道を会津から米沢に逃れて来ている。輪王寺宮能久親王は伏見宮邦家親王の第九子であり孝明天皇の父仁孝天皇の猶子となり、明治天皇の叔父にあたっている。後に輪王寺宮は北白川宮となり、明治新政府の下で軍人として世に出た。台湾に出征し当地で病死している。
若き輪王寺宮は上野の東叡山寛永寺の公職にあり、その当時、徳川幕府15代将軍の徳川慶喜が新政府に恭順の体を表わし寛永寺に蟄居して謹慎していた。それは朝廷の勅許の御沙汰を待っていたのである。宮はその時、徳川幕府側に付かねばならない苦しい立場に置かれていた。新政府軍は江戸を攻めるべく有栖川熾仁親王を東征大総督として送り込み駿府城に入っていた。やがて江戸城は新政府軍に接収され、将軍の慶喜は江戸を出て水戸に退き謹慎した。
だが新政府軍に抵抗する旧幕府の臣達は彰義隊を発足させ、上野山に籠って抗戦した。宮は徳川慶喜の助命を新政府に嘆願すると有栖川熾仁親王への直接嘆願となって行動に移している。そしてこの彰義隊とともに上野寛永寺に門主として立て籠もった。慶応4年5月の新政府軍による上野山攻撃を辛うじて逃れ、羽田沖から幕府の軍艦長鯨丸にて江戸を離れ平潟に上陸した。その後、平を経て三春に至り、会津へ向かった。
その時、会津には幕府の幕閣、備中松山藩主板倉勝静・唐津藩主小笠原長行らが集結していた。江戸が落ちた以後、この会津が幕府の中心になっていて、最後まで新政府に抗じようと考える多くの幕臣らが、奥州の会津を目指し来ていたがさらに北の蝦夷地にも新天地を見い出そうとしていた。
その最中、奥羽にも大きなうねりが起きてくる。新政府に対し、旧幕藩体制の下に奥羽越列藩同盟が結ばれようとしていた。宮はその盟主に擁立される状況に追い込まれた。宮は会津から仙台に向おうとして、その途次に米沢に立ち寄った。宮とその随行は会津は発ち塩川へ、熊倉を経由して大塩へと進み、桧原に着く。そこには連絡を受けた米沢藩からの迎えが来ていた。
一行はこの会津街道を通り綱木峠を越えて米沢城下に入った。米沢では城下南口の照陽寺に仮設の休憩所が置かれ、藩主上杉茂憲が出迎えていた。宮は米沢城下に入り歓待を受けた。それから仙台へ向かうべく米沢を発つ。高畠から二宿峠を越えて七ヶ宿街道を通り、白石に至ると岩沼を抜けて仙台に着いた。仙台では藩主伊達慶邦が出迎えていた。
仙台城下では東照宮下の仙岳院に於いて、伊達慶邦から宮に対して奥羽越列藩同盟の盟主への就任を要請されている。だが奥州での新政府軍との戦いは各地で旧幕軍側諸藩が劣勢になっていた。仙台では伊達慶邦から悪い情報が知らされた。それは米沢の上杉斉憲が降伏したことであった。"戦い利あらず"と早々に降伏を決めたのである。
世子の茂憲が明治元年9月11日、新発田城に赴き、総督仁和寺宮嘉彰親王に降伏状を提出したのだ。同時に仙台藩も軍門に降ることとしたと言うものだった。
宮にすれば青天の霹靂だったに違いない。最後まで抗戦を信じていた米沢藩と仙台藩が大した抵抗もせずに軍門に降った。暗澹たる気持に襲われる。正直、"頼むに足らず"の感が否めなかったであろう。
やがて戊辰戦争の戦火も収まり江戸は東京と改められた。宮は罪人として東京へ送られることになった。宮は仙台を出て途中で白石に入った。白石は奥羽越列藩同盟の会議が行われた因縁の地である。感慨も一塩だったに違いない。白石を出てから桑折宿に至り、さらに福島宿から奥州街道を上り東京に向かった。だが新政府は旧幕府側についた宮の東京入りを拒んだ。そのまま京都へ送られること になる。有栖川熾仁親王が冷たい視線を投げかけた為である。
宮は今度は東海道を京へ下ることとなった。京では伏見宮に預けられることになる。宮と行動を共にした寛永寺の覚王院は獄に繋がれ、厳しい追及を受けた。そして"全ての責任は自分にあり"と宮を庇う証言をして、そのまま覚王院は自ら食を断つと衰弱死した。輪王寺宮は京では幽閉の日々を過ごした。やがて明治2年に解放されると伏見宮家に戻った。
そして明治天皇の命により還俗し伏見満宮となる。明治5年には北白川宮家を相続した。後に陸軍に籍を置いた。陸軍中将まで進級し第4師団長にまで昇りつめた。
明治28年、日清戦争が始まると台湾征討近衛師団長として出征したが、現地でマラリアに罹り死去している。皇室に生まれながら、一時は追われ人となり、再び皇室に戻り、軍人として異郷の地で国に殉じた。まさに波乱万丈の人生だった。宮が会津から米沢に入った時、宮の目に米沢はどのように映ったのだろうか。
7.土方歳三
幕末の京で勤皇の志士を震え上がらせた、あの新撰組副長土方歳三も又、この会津街道を抜け桧原峠を越えて米沢に入った。だが歳三は城下には留まることなく素通りしている。高畠から二井宿峠を越え、七ヶ宿街道を白石に抜け、仙台へ急いだ。土方は心が急いていた。仙台では幕府の軍艦が停泊し、幕府海軍副総裁の榎本武揚が待っていたからである。
会津を終生の戦場とは考えていなかった土方は、新天地蝦夷に望みを賭けていた。それは榎本の新しい国の創造に想いを寄せていたのかもしれない。土方の「鳥羽伏見の戦い」の以後を振り返ってみようと思う。
近藤、土方らの新撰組は海路、江戸に戻ると、勝海舟により江戸を厄介払いされる。甲陽鎮撫隊と名を変え、甲州へ出陣するも好機を失し、「勝沼での戦」に敗北し、江戸へ引き揚げることとなる。だが江戸は負け戦の部隊を受け入れるほど甘くはなかった。千葉の流山に再集結し出直すことを余儀なされた。近藤勇は大久保大和と、土方歳三は内藤隼人と夫々変名し、新政府軍の目を欺こうとした。だが新政府軍に知れることとなり、局長近藤勇は捕縛された。それは兵の中に京都で新撰組に痛めつけられた者がいて、その者が近藤の顔を覚えていた為に、偽名を使っていたが素性が露見してしまったのである。土方は辛うじて捕縛を逃れる。だが近藤は板橋にて斬首された。
土方は盟友近藤の想いを胸にしまい込み、代わって新撰組を先導する。先ず土方は新政府軍に押えられていた宇都宮城を奪回せんものと攻め、これを攻略した。宇都宮城は東北へ向かう為の関門として押えておかねばならなかった戦略上の要衝である。だが新政府軍も直ぐに巻き返してきた。土方は負け戦に如何ともし難く、さらには足を怪我するにおよんで宇都宮城を逃れることを決意し、日光方面へ向かい会津下野街道を北へひた走った。
さらに田島を抜けて会津若松へ至った。会津では東山温泉にて足の治療に専念した。そして盟友近藤の死を惜しみ東山天寧寺に供養塔を建て、近藤の菩提を弔った。だが会津にも新政府軍攻勢の報せが次々と入るようになる。特に白河戦線で会津軍が敗北すると、新政府軍の鶴ヶ城攻撃が俄かに現実味を帯びてくる。会津軍は迎撃する作戦をたて、その要衝を絞り込んでゆく。それは勢至堂峠と母成峠であった。