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会津街道に幕末の残影を追う(3/3)
当時、白河から会津若松に入るには、猪苗代湖と湖周の山々が自然の障壁となっていた。南から馬入峠勢至堂峠・諏訪峠・三森峠・御霊櫃峠・中山峠・母成峠と言う峠越えの道があったが、多くの軍勢が越せるのは勢至堂峠・母成峠であった。会津軍はこの二つの峠に軍勢を出して迎撃する作戦をたてた。
土方は旧幕軍伝習隊の大鳥圭介、会津藩兵らと母成峠に台場を築き迎え撃つことにした。だが兵数で勝り近代兵器を有する新政府軍の前に敗戦止む無きにいたり守備の陣を突破される。
土方は急ぎ会津若松に戻るが会津を離れる決意をする。この時旧隊員斉藤一が会津と運命を共にするとして残留した。土方は斉藤に新撰組を託して北へ逃れることにした。
こうして会津若松城下が戦場になる会津戦争が始まる直前に土方は会津を離れた。先ず向かった先は米沢であった。当時、米沢藩は奥羽越列藩同盟の指導的立場にあり、会津とは幕府側で安全地であった。米沢に行くには桧原まで行かねばならない。桧原へは猪苗代から迂回して山間をすり抜けて桧原に入る道と、塩川から大塩に抜けて萱峠を越えて桧原に至る道とがあった。だが猪苗代方面は新政府軍が「母成峠の戦い」で勝利し、猪苗代城に入って街道を制圧しているかもしれず、土方は塩川から熊倉、大塩の会津街道を行くことを余儀なくされる。
本来なら猪苗代から山間に入り桧原に入った方が一目につかないのである。桧原に至った土方は桧原峠を越え、関を抜けて米沢城下に疾駆した。だが城下に留まることなく仙台へ急いだのである。仙台で榎本と合流し艦船で蝦夷渡島半島の鷲の木に上陸した。以後、旧幕軍は大沼沿いに南下し、新政府軍に支配されていた五稜郭を攻略した。
勢いはさらに西進して松前城を攻略し、江差まで兵を進めた。ここで幕府軍艦開陽丸の座礁と沈没を見ると言う悲劇に遭遇した。江差の北の乙部に上陸した新政府軍の函館進攻を食い止めるべく、「二股口の戦い」で激戦を重ねる。だが大勢は如何ともし難く、前線は後退し戦場が五稜郭を主戦場とする陸戦と、箱館湾の海戦に移行している。
土方は一本木関門で敵陣に突撃するが、被弾して命を落とした。享年35歳であった。土方の戦死を待つかのように箱館戦争は終結して、慶応4年1月3日から始まった戊辰戦争はここに幕を下ろした。明治2年(1869)5月のことだった。
函館の土方歳三の墓には線香が絶えることは無く、香華を手向ける老若男女の姿がひっきりなしである。綱木にあれば、土方歳三の髪を靡かせて街道を急ぐ姿が孤影の如く想像できよう。局長近藤の下にあって、憎まれ役を一手に引き受け、新撰組を厳しく束ねてゆく土方は、やはり幕末乱世に於ける統率者の一人であったことは疑いないことである。土方のような無私の人は強いから、尚且つ始末が悪い。会津街道を超えた者の中でも異彩の人であった。
8.松平定敬
会津戦争で忘れてならない人が松平定敬である。定敬は会津藩主松平容保の弟で桑名藩主である。混乱の京都に於いて、兄容保は幕府の要請で新たな職制である京都守護職に就いていた。弟定敬は京都所司代の任にあり、兄弟で京都の治安にあたっていた。
本来京都の治安は江戸幕府創設以来、京都所司代の任務であった。初代の所司代は徳川家康の信頼厚い板倉勝重が務めている。幕末になると尊皇攘夷の過激分子が横行し、
治安が悪化して所司代の手に負えなくなった。そこで幕府は新たに京都守護職なる部署を創設し、その初代守護職に会津藩主松平容保を据えた。その着任の裏には福井藩主松平春嶽の工作があったとも言われる。
会津藩初代藩主保科正之の家訓が足枷となった。その家訓とは「幕府に大難が降りかかった際には、幕府の為に最善を尽くせと言うものだった。謂わば「幕府の藩屏たれ」と書かれていた。この事が後代に会津藩に避けようもない難儀をもたらしたのである。容保は要請を断ることができずに守護職就任を受け容れる表明をした。会津藩は重臣らが意見を異にして内部分裂した。だが藩主の命には従う他はない。ここから会津藩は苦難の道を歩むこととなる。やがて維新の戦火は会津にもおよび、容保は鶴ヶ城に籠り戦いを指揮した。
だが新政府軍の近代火器の前には、戦いの劣勢はいかんともし難く、そのような情勢下に定敬が京より兄のもとへ駆け付けてきたのである。実弟定敬の来援にどれ程心を強くしたことだろうか。だが兄と共に死ぬ気でいる定敬に、容保は米沢藩へ逃げ延びて援軍の要請をするように命じた。会津と運命を共にするのは己一人でいいと思っていた容保は、弟定敬には逃げ延びて欲しかったのであろう。
兄の強い意思を感じた定敬は米沢へ向かう決意を固めた。ここにも歴史の一コマがあり、松平定敬がこの会津街道を必死の思いで駆け抜け、米沢藩に援軍の要請を懇願しようとした姿を見るのである。
しかし米沢藩は新政府軍の勢いが奥羽越列藩同盟軍を凌駕し、降伏する諸藩も出るにおよび、米沢藩も降伏の模索をしている最中であった。朝敵会津の援軍要請の使者を城内に入れることに難色を示し始めていた。米沢藩は会津への援軍どころか、逆に新政府軍に降伏を勧める方向に転換した。
定敬は米沢城内に入れずに、そのまま仙台へと向かうことになる。そして榎本武揚と蝦夷に赴き箱館戦争に従軍する。会津の死地にある兄容保を想った時、定敬の心は如何ばかりであったろう。
米沢藩と言い仙台藩と言い、戦国時代の上杉謙信や伊達政宗の気概は微塵もなく、凡そ武門の気風は希薄な存在でしかなかった。一人会津藩だけは武門の意地を示した。松平定敬の悔しい心情が忍ばれる会津街道であった。
9.堀粂之助
"もう一人会津戦争で忘れてならない会津藩士がいた。堀粂之助である。会津の危急を報せ援軍の要請を命じられ会津を出たものである。城下を出るだけでも命掛けであった。城下には新政府軍の兵が満ち溢れ、落城も時間の問題と化していた。
何とか友藩の米沢藩に援軍を出して貰いたい会津藩は、一藩士の下級藩士堀粂之助と吉村寅之進の2名を抜擢した。だが米沢藩は已に利あらずと早々と恭順に傾き、会津藩の要請に応えることはしなかった。
松平定敬と同じであった。しからば仙台藩に頼もうと吉村は説得するが、君命を果たせぬとあらば潔く死をもってお詫び申しあげるしかないと覚悟を決める。
そしてその夜、遺書をしたためて旅籠の主人に頼むと、腹を切
って死んだ。慶応4年9月4日のことだった。会津藩降伏の18日前のことだった。享年31歳と言う。
米沢の東寺町の西端龍泉寺に堀の墓がある。香華を手向ける人は今も跡を絶たない。堀と吉村はどのような気持ちで会津街道を駆けて来たのだろうか。
一刻も早く米沢に入り、米沢藩に会津の願いを聞き入れて貰いたい一心であったろう。だが無情にもこの必死の願いは断たれた。責任感溢れる堀粂之助が自刃にまで追い込まれるその心情を察する時、何とも言えない悲しみに襲われるのは何故だろう。奥羽越列藩同盟とは一体何ぞや、米沢藩は同盟を先導する立場にありながら、これを放棄した。上杉の「義とは何ぞや、と疑念を持たざるを得ない幕末の悲劇であった。
願い
会津街道は上杉氏の移封以後、その主役を板谷街道に譲った。だが幕末に息を吹き返すように再び輝いた。その主役は上述の偉人達であった。時は移ろい会津街道は又、昔のように静寂を取り戻している。だが廃道には絶対にしてはならない。それは米沢が全国に誇れる街道であるからである。
否、寧ろ再び活況を取り戻すことができないものか、心から願うばかりである。
10. 終りに
近年、会津街道の関地内、立石郷が伊達政宗による慶長遣欧使節を託された「支倉常長生誕ノ地」であると判明し、新たな賑わいを創出している。
常長は元亀元年(1570)に父山口常成の子として、長井庄立石村に生まれたとさ
れる。7歳の時に叔父支倉時正の養子となり、この故郷を離れた。以来、伊達政宗の近習となるや政宗が企画した欧州派遣の外交使節としてその才能を見出され、慶長18年(1613)10月石巻の月ノ浦を出航し、我が国最初の太平洋・大西洋横断に成功した。そしてイスパニア王国・ローマ教皇に謁見すると云う大偉業を成し遂げたことはつとに知られている。まさに支倉常長は郷土の誇りである。
このことは幕末より遡ること凡そ2百年も前のことである。近代日本は西欧列強に追いつき追い越せを国是として興起になっていたが、支倉常長は江戸時代の初めに風穴を開けた時代の先駆者と言っていい。
幕末に偉人たちが駆け抜けた会津街道の"関"はまさに時代の先端を見届けた証人であろう。(完)