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米沢藩の生命線「板谷街道」を想う(3/4)
11 米沢藩の罪人処刑場があった追分
現在の吾妻町から伸びる道と交錯するあたりから松川を挟み対岸へは大橋を渡るが、渡ったそこが橋場(橋本)である。現在大橋は無く、その少し南に永久橋が新造されて架けられている。
当時米沢女子短大と吾妻町を結ぶ線に大橋が架けられていた様である。かつては橋の基礎杭があったと言われるが今では見られない。松川を渡った地が橋場で、そこからから通町に交差するところを追分と言った。ここで罪人の身内は最後の別れを惜しんだ。
このあたりは米沢藩の罪人処刑場であった。城下の北には北山原のキリシタン処刑場があるが、当時米沢藩には南北に処刑場があった。追分から南へ白旗松原に沿って進むと八幡神社があった。今は無く跡が残るだけである。当時、通町は二本の道があり東側を通町、西側を裏町といったが板谷街道の要衝であった。だが板谷街道筋でここ通町ほど激変したところはない。通町の上り下り沿いの町は昔のままだが、松川と通町の間の荒地は開発整備がなされ、住宅街・女子短大・商店・松川小学校等ができて当時の面影は微塵もない。板谷街道はその中に埋没してしまっている。
上杉氏時代、ここ通町には原方衆が配された。通町には真言宗金蔵院、裏町には天台宗龍覚院があった。現在では金蔵院は廃寺となったが龍覚院は残っている。田中氏の見解によれば、2つの寺院は事ある時の原方衆の集合場所だったのではないか、又、砦の意味もあったのではと言う。原方衆は米沢城下の郊外に屯田兵として配された。狭い城下には上級中級家臣しか住めなかった。下級家臣は食うものにも困窮した。その解決策に農耕武士として配されたのが原方衆なのであった。土佐の長宗我部氏に一領具足と言う制度があるが、思想は同じものであったろう。原方衆は西は遠く玉庭や館山に、南は南原の石垣町や芳泉町に、東は花沢や山上、通町に配された。追分と関根羽黒神社の中間に一里塚があった。一里塚は街道の両脇に土盛りされ松の木が植えられていた。距離を読む為の目的と旅人の休息所の役目を担っていたものだろう。全国各地の街道にも同様のものがある。関根に入ると、町の入口である羽黒神社付近で街道は左に折れて町の様子が見えない。羽黒神社周辺には四、五軒の旅籠があった。参勤交代の折、羽黒神社で藩主一行は休憩し、旅装束に着替えて見送る人達と別れを惜しんだのだ。当時は旅の途中で行き倒れ息を引き取ることも多々あったから、今生の別れともなりかねないことだった。
12 敬師の里羽黒神社
江戸からの帰りに又、ここで休憩しお迎えの家臣と帰城した。ここは又、上杉治憲の敬師郊迎址として国指定史跡となった。上杉鷹山は師細井平州を迎える為に、米沢城郊外のこの地に至ったのである。寛政8年(1796)9月6日の昼下がりだったと言う。平州が3度めの来訪の時だった。
羽黒神社は現在も当時の面影を残している。茅葺屋根は朽ちていて長い年月の経過が見てとれたが先年改修がなされた。ここから少し行き右に折れれば普門院に至る。普門院の山門の手前に当時成就院と言う支寺があった。又、羽黒神社の隣には当時円通寺という支寺もあった。現在では何の痕跡も見られない。歴史の中に消えたのだろうか。修験寺であったと言う。米沢城下を出た最初の宿場町が関根で当時は賑わったのであろう。因みに会津街道にも関の部落がある。これは関所の意味であろう。
【関根〜板谷間〜産ヶ沢】
関根の赤石川を渡り南へ進み、途中の分枝を左へ行けば七渡を経て水窪へ至る。右に折れて尾崎坂を通って大沢へと続く。これが板谷街道である。尾崎坂を登り切った左側に山の神があると記されているが見つけられない。坂を下り、現在では右手に奥羽線が通るがその踏み切りをわたり更に川沿いに進む。やがて岩場の清流の中に小振りの滝が見えてくる。小僧ヶ滝と言う。滝の高さは3間くらいだろか。当時からこの程度だったのだろうか。このあたりに移転する前の普門院があったと言われる。普門院の小僧が滝に身を投げたことに由来すると言う。
更に進むと市野々の部落に出る。今は2軒しか家はないが、当時はもっとあったのかもしれない。小国街道にも市野々と言う集落があるが、山里にはあちこちに見られる。山里の小集落と言う意味だろう。志賀の琵琶湖には大津と草津の湊があるが、大津は大きな町の湊、草津は田舎深いところの小さな湊と言う意味だが、この山間部の市野々と言うのは侘しい山深い集落と言う意味だろう。奥羽本線のガードをくぐると直ぐに左手に庚申塔が三基あると記されているが、今ではこれもない。朽ち果てたのかもしれない。道の右側に清流が見え隠れする。しばらくして清水部落である。坂道を下ると坂の途中に右に行く道がある。そこを行くと大小屋部落にでる。左に道をとり大沢宿へと向かう。大沢は寛永以前は石佛(いしぼとけ)と言う地名だった。
13 昔の面影を残す大沢宿
面白いもので前田慶次郎も慶長6年(1601)、福島側から板谷街道に入り、この大沢を通り11月18日に宿を求めている。元大沢小学校の坂を登り左に折れると大沢宿である。関根は準宿場でここ大沢に至ると本当の宿場となった。
大沢宿は現在も集落として人が住んでいるが、かなり過疎化が進行している様である。宿場の入口も幾分右に折れている。宿場の中ほどに枡形があり、そこを過ぎてすぐ右にかつて斉藤五右衛門の屋敷が建っていた。宿場の中心はこの枡形の周囲で五右衛門の屋敷前あたりには高札場があった。今は空き地で面影はない。旅籠は当時、米沢屋・秋田屋・村上屋・福島屋・えびす屋等があったと言う。今も米沢屋の茅葺屋根の家が現存し往時を彷彿とさせてくれる。タイムスリップした気がする。
宿場町はどこも同じ様な形式で家並みが連なる。家屋が道に対して縦に接し似た様な様式の家造りが並ぶ道に対し、横に接した場合は本陣とか脇本陣とか大きな家になる様だ。斉藤五右衛門宅は参勤交代の米沢藩主の宿でもあった。米沢藩から苗字帯刀を許された身分であった。大沢の出口は又、枡形になっていた。ここから少し行くと右側に雪舟大明神と刻まれた石塔がある。雪道の旅の安全や物資の輸送の安全を祈り、村で立てたと言われる。石塔には文化年間に斉藤五右衛門が立てたと言う文字がある様だ。左手には住吉神社もある筈なのだが社はなく分からない。田中氏が検証された頃とはやはり大分変わったのかもしれない。大沢宿は藩政時代の様子が見てとれる貴重な宿場である。
大沢を抜けると右手に丸山が近づき、左手に駒形が見え、やがて笠松温泉の建物が見えてくる。今もご夫婦が春から秋にかけて営業している。見かけは粗末だが内部は広々としていて山小屋風の建物である。以前は吾妻十湯の一湯にあげられていたが、湯の温度の関係から今ははずれている。江戸時代には無かった比較的に新しい旅館である。笠松温泉から少し進むと左側に庚申塔が4基立っている。古いもので元文年間の文字が見える。享保年間の後で西暦1740年頃である。旅人の安全祈願を願ったものだろう。その先には長根橋がある。現在は新しく架け替えられているが、当時は粗末な板橋だっただろう。橋下には激流がほとばしっている。長根橋を渡りしばらく進むと右手に姥湯温泉に行く姥湯道が開けていた。姥湯は米沢市史によれば天文年間(1530年頃)に発見されたと言う。
14 板谷街道にある赤穂藩家老大野九郎兵衛の墓
又、途中の滑川温泉は寛保2年(1742)に大沢の庄屋斉藤五右衛門が発見したのだと言う。更に行くと愈々板谷街道最大の難所板谷峠にさしかかる。この峠は米沢の絹問屋藤倉富蔵の努力で嘉永元年(1848)に新道が開通している。
嘉永元年と言えば幕末に近く、ペリーが浦賀沖に来航した5年前である。江戸表が外国船の来航で騒がしくなる寸前であった。それ以前の旧道は鉢森山(標高1003㍍)の頂上付近をまわるコースで、高所の街道でかなり険しかっただろうと想像できる。鉢森山の北側の斜面は現在、栗子スキー場のゲレンデになっている。
その旧道板谷峠の大沢側の笹峠と言われるあたりに本助(ほんたすけ)があった。そして板谷側には新助(しんたすけ)があった。"たすけ"と言うのは休み所で、茶屋のことであったらしい。時には旅人の荷物を運んだりして手助けしたことから言われたようだ。板谷峠は冬も閉鎖された訳ではなく、雪深い道を難儀をしながら旅人は峠を越えていた。今では想像もできないことだった。
峠を越えると漸く下り坂になり、馬場平と言う比較的平坦なところに出る。ここには大野九郎兵衛の墓があり、米沢市民には名の知れた史跡である。米沢の敵であった赤穂の人間の墓を米沢の領地に建てると言うことはそれ相応の覚悟が必要であったと思う。現在でも墓はあり、誰かは分からないが香華と供養の花が絶えない。時折人が訪れるのであろう。墓石には埋葬された者の名も戒名もない。世を憚ってのことだろうか。
播磨国赤穂藩5万石には二人の家老がいた。一人は大野九郎兵衛、もう一人は大石内蔵助良雄である。大野はやり手の財政に明るい実務肌、大石は昼行灯と言われ茫洋とした大物で好対照の二人だった。おそらく藩主浅野内匠頭長矩の刃傷事件がなければ大石の出番はなかったであろう。吉良上野介を仇とする赤穂浪士は本懐を遂げるも、討ち入り前に二人の家老はどこで吉良を討つかと思案した。大石は吉良邸に討ち入りを企図するが、大野は吉良が逃亡しそうな所と言えば、実子上杉綱憲が藩主である米沢かもしれないと、この板谷街道まで下ってきたと言う。
大野は板谷街道に潜んで米沢入りする吉良上野介を討ち果たそうと構えていた。だが吉良が江戸本所で討たれると、大野の役目は終り仲間達とここで従容と腹を切ったと言われる。大野の名声は大石と比べそう高くはないが、お家を想う赤穂藩の重臣としてはいささかも劣らない。浪漫を掻きたてられる逸話である。
15 米沢藩主の宿泊施設「板谷御殿」
大沢宿より板谷宿まで2里12丁、漸く板谷宿に至る。現在は国道13号線の西栗子トンネルと東栗子トンネルの間から脇道に逸れて、簡単に板谷に着くことが出来るが、当時は大変な思いをしてやって来た。
板谷にはJR板谷駅もあり、交通の要衝には今も昔も変わらない。現在ではジークライト㈱が操業し、差当たり工場宿場とでも言おうか。町は廃れていて往時の繁栄は見るすべもないが町は存続している。当時、江戸時代の宿場の全盛時代には11軒の旅籠を数え、板谷御殿、寺院、神社、飲み屋、店など五十数軒が軒を並べていたと言う。元禄年間には48戸の民家があったらしい。
文政年間(1818〜)町の長さは5百米にも及んだ。11軒あった旅籠で屋号が分かっていたのは三軒だけだった。松坂屋・越後屋・大阪屋であった。大阪屋の先祖は「大坂の陣」で敗れて板谷に逃げてきたと言う。それで屋号を大阪屋としたらしい。上杉氏は西軍に加担した為、落ちぶれた西軍の敗残兵の子孫が上杉氏を頼ってきたことは事実である。上杉氏は「義」を重んじた。その為に"来るものは拒まず"で、逃げ込む先は上杉氏しかなかったとも言えよう。
板谷には米沢の藩主の宿泊施設として、特別な板谷御殿と言われる建物があった。大沢から上ってきて板谷宿に入ると、木戸を抜けると直ぐ左手にあった。しかし今では跡形もない。藩主は板谷宿の本陣であった宗川名右衛門のところに宿泊した。宗川名右衛門は本陣で且つ造り酒屋であった。銘柄は「吾妻正宗」と言った。そして板谷御殿には御殿将と言う役目の者がいた。これは五十石以上の三手組と言われた五十騎組、与板組、御馬廻組から選ばれたと言う。
馬廻組は主君を守る親衛隊で、上杉氏ばかりではなく何処にも存在した。御殿は東西46間、南北36間のかなり大きな建物だった。板谷の番所は本口番所と呼ばれ、米沢15万石の領内に五つあった役屋の次に重要な番所であった。役屋は支城とも言われて重要な役割を担っていたのである。又、文政年間には板谷には西光寺と言う寺院があった。西光寺は米沢城下東寺町の極楽寺の隠居寺であった。板谷小学校の所にあったらしいが今は無い。
明治31年6月、板谷を襲った大火が板谷の町を総なめにした。今でも昔のまま残っているのは、福島側出入口にある大山祇神社だけである。境内には古い石塔が数基立っていて、宿場を永年見てきた。