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竹田 歴史講座

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福島城跡 現在は福島県庁
板谷街道 福島の始発地点(日銀支店前)
庭坂宿から笹木野の分岐点 一方は大森へ
庭坂宿 当時の面影が今も残る
米沢藩が関所を置いた国境 産ヶ沢

歴史探訪【板谷街道編】寄稿 竹田昭弘氏

米沢藩の生命線「板谷街道」を想う(4/4)

16 不明な旧街道の痕跡
 板谷番所を通り七折坂を曲がりくねって谷におり、前川の板橋を渡る。やがて現在の高野原開拓地のところへと出る。街道はここから分枝し、右に行けば五色温泉と板谷鉱山の方へ、左に行けば陸奥と出羽の国境産ヶ沢に至るが、実はこの辺から旧板谷街道は分からなくなるのである。
itaya16 現在は林道が通り、そこしか行く手立てがない。当時国境に向かう道は二つあり、一つは谷側沿いに、もう一つは山の中腹沿いに向かっていた。だが国境の前で再び一つの街道に戻る。今でも産ヶ沢に向かう途中の渓谷は凄く深く、断崖絶壁の下を前川が流れている様は圧巻である。紅葉の季節は凄いかもしれない。隠れた秘境とでも言おうか。だがこの道しか福島側に行く方法がなく、板谷街道の謎の部分である。確かに街道はあったのだが、その痕跡を見つけられないのが実情である。これから米沢と福島の県境前後を検証すべきと思っている。
 記録で見ると、当時産ヶ沢には関所があった。関所は米沢藩が設置したもので、国境警備と荷駄の取調べをしていた。米沢藩は板谷と産ヶ沢国境に番所を設けて藩内への不正侵入を防止していたのである。産ヶ沢は前川と板谷鉱山から下り流れる蟹沢川が合流したところでかなり広い河原である。今も昔のままの地形である。だが現在は砂防ダムができたりして景色は異なる。この河原が国境であった。ここから川の名が松川となる。この川は福島信夫山の北に出て阿武隈川と合流し太平洋へと注ぐ。奥羽線から眺めることができる河原はこの産ヶ沢辺りであろうか。

【産ヶ沢〜庭坂〜笹木野〜福島】
 産ヶ沢までが米沢側板谷街道である。産ヶ沢を木の橋で渡り、福島側に入ると李平(すもだいら)である。記録でみると福島側に入ると直ぐに上り坂になり、これを蛤坂と言った様である。左手に大きな石があるのが分かる。国境を越えて福島側に出ると、国境あたりの街道が又、不明瞭になってくる。
 現在でも地図上で道を追うことは出来ない。ここが板谷街道最大の謎の部分である。実際に歩いて道を確認しながら進むしか方法がないのが実情である。険しい山と幽谷の中に街道が埋没している。ここからの板谷街道の行程は田中氏の記述を軸に現場踏査の検証である。
 兎に角国境から李平まではこれも又難儀であった様だ。だが途中には石畳も現存し、当時のままに約5百米ほど保存されていると言う。

17 李平宿にある2人の偉人の痕跡
 越後街道の小国黒沢峠の石畳を彷彿とさせてくれる。この石畳のところに「史跡米沢街道」の標柱が立っていた。この標柱は奥羽本線赤岩駅から板谷駅へ行く車窓から、左手の山の中腹に見えたと言うが、果たして現在ではどうだろうか。古い事なので分からない。李平の現地を車で走り検証するも林道が古道と重なる。
 恐らくそう外れてはいないと判断するが、かなり奥深い谷を覗いたり山の頂きに出たり、兎に角板谷街道は変化に富んでいて、飽くことは無い。この李平宿には二人の偉人の蹟がある。一人は古川善兵衛であり、もう一人は安倍薩摩である。二人とも米沢藩士であった。古川善兵衛は米沢藩が30万石時代に、伊達郡と信夫郡の福島郡代であった。郡代は代官を統べる立場にあり身分の高い人物だった。善兵衛は領内で善政を布いた様だが、農民達の暮らしは一向に良くならなかった。
 そこで水利事業を行って米や農産物の収穫増加を図ろうとして米沢藩に申請し許可を要請した。だがそれは却下されてしまった。だが農民のことが念頭から離れない善兵衛は許可を取らずに水利事業を開始してしまう。それは年貢にも手をつけざるをえなかった。ある日突然、藩庁から呼び出しがきた。善兵衛は米沢に向かう途中のこの李平宿で切腹してしまった。その地には標柱が立っていたと言う。
itaya17 又、もう一人の安倍薩摩は米沢藩の郷士で、慶長18年(1613)藩の命令で李平宿を開いた。元々安倍薩摩は越後村上の出である。この子孫は李平宿の問屋を勤め、又本陣や庄屋もかねて宿場一の名士であったと言う。やがて李平から山を下ると現在の富山地区に出る。時折時代に取り残されたかの様に集落が侘しく点在する。道の右側に道標があって清水観音道と読むことができた。この観音は信達三十三札所の八番札所である。更に下り大町が見えてくる。
 ここは信達地方が上杉氏の領地の時代、大砲を置いていたことによると言う。李平から下りてくると現在は黄金坂と言う地に至る。今では広い農道が南北に山裾を走り、この板谷街道と交わっている。そこから更に東へ進み坂を下ると大町にいたる。昔の街道そのままに狭い道が軒端や垣根の側を通る。そのまま下ると奥羽本線に出くわし、その踏み切りを渡ると急に視界が開ける。直ぐ右手に鷲神社の案内が見えてくる。多くの石塔が並んでいる。参道を鉄道が断ち切っている。無残にも思える。

18 防備上の観点からの宿場構造
itaya18 そのまま進むと横町に入り、いきなり街道は右に折れる。愈々庭坂宿である。眼前には宿場独特の似た形式の家並が続いている。屋根を茅葺にすれば江戸時代にタイムスリップする様な情景が広がる。この宿の中心は荒町と内町であった。荒町に入る手前の横町の左側に北川屋扇助の旅籠跡がある。更に進み枡形のクランクを左に折れると、角の左手に本陣・問屋跡の碑がある。又荒町の中程に清水寺に行く参道がある。
 清水寺は米沢林泉寺の末寺である。清水寺(せいすいじ)に寄ってみる。小奇麗な佇まいで本堂も白壁で比較的新しく清楚な感じがする。曹洞宗の禅寺である。今ではいま奥羽本線が宿場を貫いている。内町には旅籠が7軒位あった様である。まっすぐ行くと青柳寺にぶつかる。この寺は浄土真宗で西本願寺派寺院である。そこを左手に曲がると又、枡形のクランクになる。右に折れて東へ更に進むと道が分かれる。そこには追分の古い小さな石碑が残っている。その碑には読みにくいがまっすぐ行けば大森へ、左に行けば笹木野へと記されている。旧板谷街道は概ねこの笹木野行きの道沿いにあった様だ。今では県道310号線が走り嘗ての笹木野宿に至る。まっすぐ大森方面へ向かうと大森城や松川の八丁目宿へ至る。
 板谷街道の中ではこの庭坂が一番宿場らしかった。枡形クランクもしっかり残り、家屋が昔のままなら宿場とし今でも十分通用するであろう。何故、宿場にはクランクが多いのかと言えば、一つには宿場全体が見通せない様に防備上の理由から、もう一つは火事などで延焼を防ぐ為の安全上からだと言われている。それにしても庭坂宿は見事である。抑々大森街道を開いたのは伊達氏であるが、上杉氏が信達二郡を領していた頃に参勤交代にも利用していた。大森街道は桜本から荒川を渡り、佐倉下の下村宿に出て上鳥渡の観音寺前を通り、下鳥渡から大森に出る道である。そして大森から八丁目宿(現在の松川町)に出る。大森には伊達氏の拠点大森城があった。今では東北道福島西インターで下り、南に進むと大森山があるがこれが大森城である。ここを基地にして伊達政宗は仙道制覇を目論んだ。一方で上杉氏が何故参勤交代に遠まわりの福島コースをとったのか理由がよく分かっていない。事由として宿場と街道が整備されていた為であろうと言う。 
 次に庭坂から現在の県道310号線を東へ行くとやがて笹木野に出る。右側に野田小学校が見えてくる。

19 信州飯山にゆかりのある佛母寺 
 ここは元の佛母寺があったところだ。現在の佛母寺は町の北外れに移っている。町外れの町尻を折れるとそこはもう八島田である。当時陣屋があった。笹木野には今もって庄屋とか問屋とか呼ばれる茂木さんの家がある。茂木さんの先祖は豊臣家の重臣だった。大坂城落城の後に一族が共にこの笹木野に落ち延びて宿場を開いたと言う。米沢の問屋石田名助、板谷宿の大坂屋の佐藤氏、それに茂木さんの三家とも豊臣の家臣であった。不思議な縁がする。
 さて佛母寺は米沢の東源寺の末寺で慶長3年に建立された。建立したのは上杉氏の家臣上堺左馬之介平九郎で、東源寺の12世祥山関良和尚に開山させたと伝わる。元々東源寺は信州飯山にあり、信州泉八家の一つ尾崎家の菩提寺で上杉氏の米沢移封に随い移ってきた。初めは福島にあり後に米沢の北寺町の東に移った。この福島時代に末寺として佛母寺が創建されたのであろうか。
 小振りな坪庭が目を引く。そんな大きな寺ではないが寺領豊かな印象を受けた。笹木野の隣、八島田の東本庄町には越後新発田藩の溝口氏の陣屋があった。八島田は寛政元年(1789)、新発田藩の飛領地となった。米沢から笹木野までは街道の宿場も昔の面影を残している。旧街道もほぼそのままに保存されたり利用されたりしているが、笹木野から福島までがいたるところで寸断されていて分からない。八島田字本庄に出て、字勝口、それから野田町の円光寺のある寺ノ内にでる。2米程の細い道が板谷街道であるとされる。
itaya19 寺ノ内から街道は奥羽本線に次第に近づき東南の方へ進む。奥羽本線に沿って東へ向かうが、旧街道は福島機関区と奥羽本線により寸断されている。奥羽本線の線路がある地内が旧街道なのである。それから曽根田町に出る。曽根田町に出た街道は陣場町4番地と5番地の間の道を置賜町の東北電力へ向けて斜めに入ってゆく。そして秋田銀行と日本銀行福島支店の間に出るとここが昔、庭坂口と言っていた。今も日銀福島支店の一角に「板谷街道庭坂口」の案内板が立っている。現在、このあたりビル街となっていて昔の面影はない。
 ここから本町に出て上町に向かうと福島城大手に至る。大手に至る道は昔は大町で、制札場があった。ここから米沢の大町制札場までの道が板谷街道なのである。更に本町から中町、荒町、柳町へと続き江戸への出入口であった須川口に至る。福島城の東には天然の堀、阿武隈川が流れ城はその西に築かれた。

20 かつて福島城があった福島県庁周辺
キャプション 「福島城跡 現在は福島県庁。大仏城→杉の目城→福島城へ名称が変遷した」

 城の北にある上町から追手先口木戸をくぐり、追手門に出て中に入るとそこには藩庁や役所がある三の丸であった。三の丸の東に二の丸、二の丸の東に本丸、西から東へ三の丸、二の丸、本丸と連なる連郭式城郭であった。阿武隈川を臨む岸壁には米沢藩の米蔵があった。現在も復元している。これは当時米沢藩が領内で取れた米を江戸に運ぶ為に、信達地方で収穫した米を一時格納していた蔵である。
itaya20 ここから舟で阿武隈川を下り、荒浜に出て更に仙台の港まで運び、そこで大型の千石船の積み替えして太平洋を江戸まで運んだのである。
 又、米沢藩は長井の川湊から舟で最上川を下り酒田まで運んでいたルートもあった。この米蔵の側に宝林寺があるが、これは二本松の畠山義継の菩提寺である。畠山義継は伊達輝宗を拉致し政宗に父がらみ鉄砲で撃ち殺された二本松城主である。この辺りには寺町があった。嘗ての福島城周辺は現在は福島県庁を中心とした官庁街となっている。米沢城下を発した板谷街道は、福島城下に至りその役目を終える。福島城はもとは大仏城と言い、伊達晴宗が隠居して住んだ頃は杉の目城と称していた。伊達氏の後は蒲生氏の治下となる。その後は一時木村吉清が秀吉に葛西大崎一揆の不手際を咎められ、改易され減封処分を受けて入城すると名も福島城とした。ついで上杉氏が領主となったが、この時の福島城代は本庄繁長であった。今も城下には伊達晴宗が眠る宝積寺、本庄繁長が眠る長楽寺がひっそりと佇んでいる。
 米沢城下を発し、板谷の山岳の道を越え、深谷を渡り、福島の城下に至る板谷街道は、今も昔の面影を残し訪れる旅人の心に刻まれている。残念ながら、国境産ヶ沢から李平までの道筋だけが分からない。板谷街道を検証しようとすれば、この間の街道を探しあてなくてはならない。その痕跡は何がしかある筈だが、解明が待たれる状況である。
 街道は人が通らなければ次第に朽ち果てる。宿場も人が住まなくなれば絶え果てる。往年のように街道宿場が賑わう時代は来ないかも知れない。だが宿場祭のようなイベントを催して、元気を取り戻すことは可能であろう。西の会津街道と関・綱木宿、東の板谷街道と大沢・板谷宿、これらは米沢の貴重な歴史資産である。何とか脚光を浴びることができる手立てはないものだろうか。(完)

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