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白石城と片倉氏
白石城の歴史は平安時代まで遡る。藤原経清の次男経元は源義家に従い、「後三年の役」に参陣して軍功挙げ、刈田郡・伊具郡を賜り刈田氏を名乗り白石城を本拠とした。奥州合戦の際に6代の秀長は源氏軍に従軍し、刈田氏を白石氏と改姓した。戦国期に伊達政宗の持ち城となり、その最初の城主が白石氏であった。
白石氏は伊達晴宗の時代に実綱がいて、伊達氏の有力家臣となった。その孫の宗実は政宗に仕えた。豊臣秀次事件の時には政宗の無実を晴らすべく奔走し、秀吉の怒りを解いている。宗実は白石城から宮森城へ、そして水沢城へ、最後に登米郡の寺池城に入った。白石宗実の代わりに屋代景頼が白石城主となる。景頼は出羽屋代庄にあり、天正19年には国家老を務めるが、政宗の怒りに触れることあり、禄を没収され晩年は流浪の身となる。秀吉の奥州仕置きの結果、白石城は政宗に代わり会津黒川城主蒲生氏郷の支配下に入った。氏郷はここに腹心の蒲生郷成を配した。
逆に白石城は岩出山の政宗を封じる前線基地としての役目を担うのである。蒲生氏郷は白石城を益岡城と改名した。同時に杉目城を福島城に、米沢城を松ヶ崎城に、そして会津黒川城は若松城と改名している。蒲生氏の後は上杉氏の支配下に置かれ、城名も白石城と戻し、伊達領との国境を守備する重要な役目を担う。その為、白石城には武略に長じる甘粕景継を配している。ところが慶長5年(1600)に伊達政宗は、中央での徳川家康と石田三成の対決を尻目にその隙を窺うように、かつての自城白石城を攻めてこれを攻略した。
関ヶ原に於いて東西決戦の結果、徳川方の勝利となり、政宗は勝者側に立った。攻略した白石城には片倉小十郎景綱を配した。上杉氏と対峙する白石は伊達氏にとり最重要な境目の重要な城となった。並の武将では務まらない。智略と武略に長じた片倉小十郎でなければ務まらない役目であった。白石が落ちれば仙台は眼前である。まさに伊達氏の命運が掛っていた白石城であった。
幕藩体制になり「一国一城令」が布かれると、仙台藩も仙台城一城になるところを、政宗は家康に上杉氏牽制の為にも欠かせない城として説得し、ねじ込んで了承させた。片倉氏はこの初代白石藩主となった。初代藩主は片倉小十郎景綱で、2代目に重長、3代目に景長と、以降も代々片倉氏が藩主を務め、幕末を経て維新を迎えた。後に一派は維新後に北海道に渡り札幌の街に名を留めている。
片倉小十郎
上杉景勝と直江山城守兼続、伊達政宗と片倉小十郎景綱、この二組のコンビは実に似ている。だが本質的に違う点がある。景勝と兼続は兄と弟の組み合わせ、政宗と小十郎は弟と兄の組み合わせである。前者は景勝が弟兼続を可愛がった。それに応えるように景勝に兼続は仕えた。後者は小十郎が兄であり、弟が政宗である。小十郎は大きな慈愛で政宗を包むことができた。主従の枠を超え、政宗と言う珠玉を手にして、それを丹念に磨くような大きな慈愛を感じるのである。
兄として厳しく接した時は、伊達家の存続をかけた諫言であった。最大の危機、秀吉に臣従を強いられた時の小田原参陣、このピンチを切り抜けることができたのは、小十郎が見せた兄として峻厳な態度であった。兼続にはこれはできない。自ずと限界があるのである。そこに腹心としての小十郎と兼続との大きな差を見てしまう。
政宗と言う悍馬を駿馬に育てあげたとも言えるかもしれない。逸話があり、小十郎は「主君政宗より早く己に男子が生まれると主君に申し訳が立たない。それ故もし男子が生まれたらその子を殺してくれ」とも妻に語ったと言われる。幸いにも政宗の取成し事なきを得て無事生まれたのが嫡男重長であった。父の遺志を継いだ重長は父以上の器であったと言う。まさに片倉家は命懸で伊達家と政宗を守り通した。
小十郎のざっと生涯を振り返ってみる。小十郎は弘治3年(1557)に生まれた。父輝宗の重臣遠藤基信が小十郎の才器を見込んで幼い政宗の傅役に抜擢した。以来、小十郎は10歳違いの若き主君を死ぬまで支え続けた。だが小十郎の名が表舞台に登場するのは、政宗が家督を相続し17代伊達家当主となり、周囲にはそれを支える若き家臣達が集められ、伊達家の世代交代が進んでからのことである。政宗の初陣の時、天正9年(1581)の時点では小十郎の名はまだがなかった。
政宗は家督を相続すると堰を切ったかの如く、伊達の軍事力を外へと向けた。天正13年(1585)政宗は会津の芦名氏を桧原に攻めた。この時、小十郎は単騎、桧原の陣中に赴き交渉によってこれを服属させた。これが小十郎の初めての軍功と言われる。同年の小手森城攻め、小浜城攻略、芦名・佐竹・畠山連合軍との人取橋合戦に従軍した。
天正14年(1586)畠山氏の二本松城攻略、天正15年(1587)最上・庄内との和睦工作、天正16年(1588)本宮方面での芦名勢との合戦・郡山合戦、天正17年(1589)相馬氏の駒ヶ嶺城と新地城攻略、芦名氏との摺上原合戦と政宗の隆盛期の合戦に悉く参加し、戦陣で参謀役を果たしている。その都度目覚ましい活躍を見せ、自他ともに「伊達の先陣」として名声を高めた。
一躍小十郎の名を高めたのが天正18年(1590)の秀吉の小田原参陣の命に、伊達家としてどう対処するかの大きな問題を抱えていた時である。下手すれば伊達家が滅亡する政宗の最大の危機を迎えた時である。伊達家内は伊達成実らの強硬派と、小十郎の慎重派と真っ二つに意見が分かれた。この時、小十郎は中央とのパイプをつくり、中央の政治情勢に敏感であった。秀吉の威勢、莫大なり、秀吉に楯突くことの無謀さを政宗に説いた。政宗が味わう初めての挫折であった。先ず「伊達家存続を第一」と説いた。
政宗は小十郎の識見に従って、小田原参陣を決意した。天正19年6月9日、秀吉の前に屈した。だが秀吉は政宗が葦名氏を滅ぼした罪のみを責め、他は問わないこととした。会津から米沢へ国替を命じられただけで死一等を免れたのはその為である。時代は下って秀吉の朝鮮出兵の頃、小十郎は秀吉から小鷹丸と言う早船を賜った。
当時小十郎は亘理城主で海に面していたので、この船を亘理の浜に置いた。有事に備えたと言われる。時代は更に下って慶長6年(1601)10月上旬頃の事、前年の関ヶ原合戦で大勝、秀吉に代わり天下人となった家康から、政宗が江戸城下桜田、愛宕下など4ヶ所に屋敷を拝領した。その際、小十郎も家康から増上寺門内に屋敷を賜っている。破格の事であった。
政宗が天正18年(1590)、「南奥羽の覇王」となるまでは、常にその帷幕にあって政宗を軍略で支えた。だが秀吉による天下平定後に於いては、如何に秀吉の追及の手から伊達家を守るかに苦心し、政略の根幹が変化する。当然の如く小十郎は政宗の側にあり、対応策に知恵を絞る。秀吉は伏見城を築くと、政宗は伏見城下に屋敷を与えられその監視下のもとで息を殺すかのように臣従を強いられた。政宗の股肱の臣である小十郎や成実も在京を強いられ、居城岩出山城での領内治政は屋代景頼に託された。
文禄元年(1592)の「文禄の役」にも従軍、翌同2年(1593)朝鮮に出兵し、政宗に同行している。特に文禄4年(1595)秀長事件への連座を疑われ、窮地に立たされる事態が起きる。だが持前の器量で切り抜けた。多分に政宗の性格を知り尽くした小十郎の秘策が功を奏した可能性が高い。だが危機はこれだけではなかった。徳川の世になると、政宗は親徳川政策を推進したが、娘五郎八姫を家康の六男忠輝に嫁がせた。
だがこの忠輝は悍馬で徳川将軍家の厄介者であった。徳川家との婚姻関係で関係を深めようとした事が裏目に出る事態となった。大久保長安がらみの騒動に巻き込まれ、更に兄秀忠の忠告にも耳を貸さずに、越後高田城主を剥奪され、伊勢に配流される事態となる。政宗は娘婿の松平忠輝を擁して、幕府倒幕の陰謀の罪を問われそうな状況下に追い込まれた。小十郎はこの頃病床にあり、病をおして政宗にこの乗り切り策を進言している。
亘理から白石に小十郎が移った時は、小十郎は病床にあった。病は中風だったと言う。小十郎は晩年かなりの肥満体であったらしい。慶長19年(1614)10月7日、政宗は一門、一家、一族と言った重臣達を仙台城に召集した。この時、徳川と豊臣の関係は緊張していた。だが小十郎の病は益々重く、この大事な会議にも出席できず代わりに嫡子重長を派遣している。出陣は10月10日と決まった。政宗は10日夜に白石城まで出張ってきた。
白石城に政宗を迎えた小十郎は、重長が先陣を賜ったことへの御礼を言上、その上で片倉家の馬印の旗を重長に与えた。重長は大坂夏の陣で目覚ましい働きを見せた。だが重長を見送った後も小十郎は病床に臥した。元和元年(1615)10月14日、小十郎は59歳の生涯を閉じた。遺骸は臨済宗円洞寺に葬られた。円洞寺は後に傑山寺と改称され、代々片倉家の菩提寺として今日に至る。法名は「傑山常英大禅定門」とした。