newtitle

画像04が表示されない
竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

〖歴史研究編〗 片倉小十郎に迫る(2/4)

 茂庭氏とは
 小十郎景綱と言えば、忘れてならないのは茂庭氏である。茂庭氏を無くしては語れない。茂庭氏の本貫地は福島の茂庭郷である。茂庭郷は穴原温泉の奥にあり、摺上川の上流にある山里で、南北に伸びる奥羽山に対して、直角に東西に太平洋側に細長い盆地が横たわるのが茂庭郷である。
 伊達氏が天授6年(1380)に陸奥国伊達郡から出羽国置賜郡に侵攻し地頭長井氏を放逐した。この際に、その先陣を務めたのが茂庭氏(行朝)と言われる。茂庭郷を奥へ進み稲子峠を経て七ヶ宿に至り、伊達氏の本軍を後陣にして新宿峠を一気に駆け下り高畑に進攻したと言われる。茂庭氏も伊達氏の置賜への拠点移動とともに奥羽山脈を越えて出羽置賜郡に移ってきた。置賜郡の新地、そこは米沢の川井郷であった。伊達氏から置賜郡の川井に所領を賜り、川井館を中心に根を張った。以来伊達氏の岩出山移封まで川井郷に住した。
 茂庭氏の菩提寺、桃源院も茂庭郷から移ってきた。茂庭郷には今も一族の墓所もあり、旧寺東原寺の跡がある。一帯の山奥には茂庭ダムができて昔日の面影はないが、宿跡の稲子宿も遺跡として残り、古くからの街道の名残を見ることができる。戦国期になると茂庭氏は伊達氏の有力家臣として仕え、17代政宗の時代に鬼庭左月良直が有名で、つとに安積人取橋の合戦で命を賭けて政宗を窮地から救った。後に鬼庭を茂庭と改姓した。
 この良直には妻がいて、同僚の本沢真直の娘であったが、妻に女子が生まれた。名を喜多とした。だがこの妻に男子が生まれず、良直は仕方なく離縁した。新しく妻を迎えると、やがてこの妻との間に男子が生まれた。名を綱元とした。後に成人して政宗に仕え股肱の臣の一人となった。茂庭氏は置賜郡から宮城県松山町に移って行った。代々この茂庭氏は伊達家の家老として藩政の重職につき、良直の後、綱元・良元・定元と続いた。

   【茂庭氏と片倉氏の関係】

        女継室
         ├―――――綱元――良元――定元
       茂庭良直
       離縁▽再嫁
         ├―――――喜多====定広
        女本沢真直娘
         ┣━━━━━景綱――重長――景長
       片倉景重
         ├―――――景継
        女先妻


 小十郎の生誕地は
 小十郎の生誕地はどこか。様々な見解があり、一つとして明確な見解はない。だが生誕地の比定は概ね川西か、長井かに収斂されてきている。これをテーマにした時、糸口に近づく為、一つの前例が有効であろうかと思われる。
 それは昨今確認された支倉常長の生誕地比定に於ける過程である。常長が生まれた地を求める中で、先ず“常長の父山口常成がどこに居住したか”を追い求めて、その結果が父の常成が出羽国置賜郡長井庄の関、立石に知行地を得てそこに居住していたことが分かってきた。それ故、“支倉常長は立石で生まれたのでは”とする決め手となったと言うものである。
 同じことが小十郎景綱についても言えるのでなかろうか。即ち父である片倉景重が“どこに知行地があり、どこに住んでいたのか”と言うことを突き詰めれば謎に近づけるのではないか、と言うアプローチである。こうして得たのが次の見解である。
 小十郎景綱の父、片倉景重は神職にあり、高畠町の安久津八幡の神官であった。従来は伊達氏における西の八幡と言う位置付けにあった、米沢の成島八幡の神官であったと言う見解は、代々の神官名に片倉氏の履歴がないと言うことが分かり、この説は否定されている。だとすれば残された八幡は東の八幡である安久津八幡に絞られ、川西町史の中に、高畠の安久津八幡の学頭金蔵院にその片倉氏の神官が見いだされると言うことが記されている。
 そこは神に仕えて働く場所であり、居住したのは川西町小松の塩ノ沢であった。職住分離説である。この地が伊達家15代晴宗に賜った知行地であったが所以である。ここに片倉館と言う屋敷を設け居住していたのである。それ故に「片倉小十郎景綱は、ここ小松の塩ノ沢にて生まれたとする可能性が高い」と筆者は判断している。塩ノ沢にはかつて八幡神社があったと言う。そこの神官であったとも言う説もあるが、少なくとも伊達家当主の晴宗に認知された景重が、小松の辺境の小さい神社の神官であったとは思えない。伊達氏の氏神である安久津八幡か成島八幡であったと思いたい。

 川西町史によれば、「晴宗公菜地下賜録」に於いて、片倉式部が伊達晴宗に仕えて小松郷「小松の内一軒」を与得られていたと言う。一軒とは在家の事である。景重は小十郎景綱の父であり、安久津八幡宮の神職、この時下長井の黒沢にも一軒が与えられていた。「小松東塩ノ沢に片倉館と伝えるところがこの片倉式部の采地と関係があるのではないか」と記している。片倉式部とは片倉景重のことである。晴宗公菜地下賜録とは弘治22年(1553)に、「天文の大乱」後に勝利した晴宗が伊達家臣達の乱れた知行配分を整理し、その再配置と所領安堵を示したものである。
 だが遡ること9年前の天文13年(1544)、やはり伊達晴宗が片倉弥五郎に与えた安堵状がある。そこには「小松郷の内、片倉伊豆守の分、太子堂の田年貢一貫五百文の土地と在家一軒分を与えるが永代このことに相違ない」とある。片倉弥五郎と言うのは景重の弟景広のことであるが、小松郷に片倉式部と片倉弥五郎の2名の所有者が見られるのである。
 「一体どちらが有効なのか」と言うことになるが、晴宗が出した安堵状で一番新しい、「菜地下賜録」の方が有効なのでないかと判断する。とするとやはり片倉式部が賜った知行が妥当と見るべきでなかろうか。上小松塩ノ沢こそが片倉景重の居住地であり、そこで小十郎景綱は生まれたと見たい。小十郎は飯田小十郎に因んで名づけられている。飯田小十郎は武勇文武に優れた者であったようである。

 小松の塩ノ沢の片倉館には言い伝えがあり、今でも片倉屋敷と言う名がある。そこは犬川の右岸河岸段丘上にあり、玉庭に向かう県道から下って犬川を渡った集落が片倉館である。筆者も一度訪れたことがあり、台地の様な地形上に数軒の家が集積していて、明らかに在家のような感じを持った地であることを記憶している。不思議なことに長井市の平山字木口と言う地区にやはり片倉館というのがあるが、ここも訪れたが堀と土塁がしっかり残り、館跡であることが容易に分かる。だがこちらの片倉氏は別系統と言われる。
 史料によれば時代は少し古くなり伊達尚宗の頃に片倉右京なる者がいて、この子片倉図書介が「天文の大乱」で晴宗方に付いて鮎貝氏と戦い、軍功を挙げて加増を受け、乱の終了後その子修理亮まで加増を受けたと言う。その同じ片倉氏でも小十郎系とは違う系譜としている。又長井市には小桜城があり、宮村館とも言われた。やはり「天文の大乱」で城主の片倉伊賀守が晴宗側に付き、鮎貝氏を撃退する軍功を挙げたと言う。片倉伊賀守とはもとは清水伊賀守で、景時の妹を妻として片倉家と姻戚となり片倉姓を名乗った。
 乱の戦後に片倉意休斎が入ったとされる。この意休斎は景重の兄の景親のことである。小桜城は最上氏に内通した鮎貝氏討伐の前線基地となっていた。このように長井・川西方面には片倉氏にまつわる古城や古館が幾つかあり、小十郎景綱のゆかりの郷であることには相違ない。小桜館は現在では西置賜郡役所跡になっていて、古くから下長井地方を治める政治的拠点であったのであろう。

 時代は変わり、天正14年(1586)8月、伊達政宗は片倉景綱に対して、洲島城主を命じ洲島・吉田一帯の惣成敗を与えている。惣成敗とは年貢・棟役・段銭等の徴収から司法権をも含むその地の総支配とも言う伊達氏独特の政治システムである。この洲島差配は勿論、伊達氏が米沢に本拠を置いていた頃である。
 小十郎景綱は天正13年(1585)、伊達成実の後任で福島の伊達氏の拠点、大森城の城主になっている。成実の父実元が天正12年(1584)に家督を成実に譲り自身は八丁目城に移ったが、その成実が二本松城攻略の恩賞で二本松城へ移ると、その後任として大森城に小十郎景綱が入ったのである。その翌年に洲島城を与えられている。だが当時の伊達氏の政治的重要性から判断して小十郎が洲島城に在城したとは思われない。やはり大森城に在城し福島方面での前線采配をしていたと見るべきであろう。
 次に天正19年(1591)になると、亘理城主亘理重宗の後を受けて小十郎景綱が亘理城主に命じられ大森城から移った。相馬氏との国境の亘理は常に火種を抱えていた紛争地帯であり、その相馬氏を抑える役目を担ってのことであった。その後慶長7年(1602)、政宗は伊達領の最南端、上杉領との国境の白石城に小十郎景綱を配したのである。ここは相馬氏との緊張関係の比ではなく、伊達領が脅かされる国家的紛争地帯と言ってよかった。政宗は小十郎景綱でしか治められないと判断した。それは硬軟の外交を要求され、武力一徹では対処しきれない事情を抱えていたからである。

                  1234