newtitle

画像04が表示されない
竹田 歴史講座

▲トップページへ戻る

〖歴史研究編〗 片倉小十郎に迫る(4/4)

 片倉山館を推理する
 斜平山山上に愛宕神社があり、遠山・古志田地区の民人に古くから愛宕信仰があった。麓からこの山上の愛宕神社までは登山道、愛宕古道があり、地元の人達はこの道を登攀し山上の愛宕神社に詣でた。中世になり、伊達氏が置賜郡に侵攻してくると、高畠に屋代城を置き、置賜支配を強化してゆく。そうするうちに斜平山の重要性に一目を置き、斜平山一帯を戦備化するようになる。この時、山上にあった愛宕神社と羽山神社を格好の遠見監視所として機能させた。こうして愛宕山館が整備され、会津の芦名氏の侵攻に備えた。
 斜平山の麓から山上まで登山道の参詣道があったが、中腹の小高い山を山城として整備し、この道を城内に取り込んで片倉山館としたのだと思われる。更にこの参詣道の始点には光明寺と言う古刹があった。この寺は伊達氏の五山寺院の一つで、隣接する覚範寺とともに伊達氏の菩提寺であった。福島の国見の一角、阿武隈川の近いところに初期の光明寺がある。古志田の光明寺がいつ建立されたのか不明だが、伊達氏の置賜入郡と同時に建てられた可能性もある。麓の光明寺と山上の愛宕神社、昔は神仏習合の時代、仏と神の混在は一般的であった。
 この信仰の道は領民を掌握する上で極めて有効なものであった。この片倉山館は丁度、麓と山上の中間にあり、又、麓には館山城と会津方面とを結ぶ会津古道があって、この道を抑えていたのであろう。更に山上の愛宕山館から裏山へ下りて赤芝地区へと連絡し、これが館山城へと繋がっていたのではなかろうか。
 館山城と斜平山一帯は伊達氏の重要な軍事拠点として機能していたのだろう。だが「晴宗公菜地下賜録」によれば、浜田氏一族の浜田左馬助が、塩井延徳寺一帯と古志田地区に所領を安堵されており、片倉氏の記事はなく、片倉山館の山麓に片倉氏の所領があったとは思えない。
 抑々片倉氏は諏訪信仰である。愛宕信仰ではないであろう。愛宕神社は戦(いくさ)の神であることから、守り神として崇敬したのであろう。それでは何故、片倉山の名があるのだろうか。これも謎である。片倉氏がここに居住したと言う記録はない。小十郎景綱は政宗の腹心であることから、米沢城にあっては政宗のすぐ近くに住いし、政務・軍務について進言したり、相談を受ける立場にあった。
 後に政宗が仙台に移り仙台城築城した際には、小十郎は三の丸のすぐ下の、広瀬川べりに広い屋敷を賜っていた。小十郎は常に本丸にある政宗とは指呼の距離にいたことが分かる。江戸幕府は幕府の閣僚には幕府に出仕制度を執らせた。幕閣はその知行地は遠く離れていても、幕府と言う本体の経営に江戸に出て来させて政務を執らせた。地方の各諸藩政府でも同じようなシステムが採用されていた。
 小十郎も刈田郡の白石に本拠地があったが、伊達家と言う大所帯を切り盛りする吏僚として仙台城に出仕していた。こう考えると政宗が米沢城に本拠を構えた時、当然ながら小十郎の知行地は小松にありながらも、出仕屋敷(上屋敷)として米沢城の一角に住んでいたと思うのが妥当であろう。知行地と米沢城下に上屋敷を構え、政宗の腹心・参謀として仕えていたことは容易に想像できる。斜平山の麓に片倉屋敷があったとは考え難い。
 片倉山はもともとは別の名前の山であったが、伊達氏が置賜郡に入部した際に、斜平山一帯は軍事拠点化されたと思われが、その過程の中で片倉氏がこの山の館主に配されたという可能性はある。この時片倉氏のある者が配されたのではないか、長井の小桜館もそうだが、“小十郎景綱”と言う名があった方が都合がよく、何かと周囲に与える影響力が強かったのだと言う。小十郎は切れ者で智略があると知られており、この勇名をつけておけば敵は恐れをなして攻めて来ることはないであろうと言う配慮があったらしい。斜平山の片倉山館も同様のことが言えるのではないか。

 政宗時代には既に斜平山一帯の軍事拠点化はなされており、斜平山城砦群とも言うべきものであった。愛宕山館と麓との中間に、山館が造られていたが、それを政宗の時代になり、腹心小十郎の名を冠したと見るべきであろう。一方城郭は山城としての機能を有しており、塹壕道・桝形虎口・数ヶ所の曲輪・帯曲輪・竪堀・井戸跡、と一通りの遺構が見られるのが特徴である。だが本格的な城ではなく、館山城を背後に控えた前線基地としての出城であったのだろう。それは想定できる敵はあくまで会津の芦名氏であった。
 輝宗と芦名氏の尖兵穴沢氏とは桧原を舞台に3年間激戦が行われ、いずれも穴沢氏の前に敗北している。政宗は家督を相続すると直ぐに、この芦名攻めに取り掛かる。当面の敵穴沢氏は謀略をもって討伐したが、芦名氏の本拠黒川城攻略はできなかった。桧原・会津北方ルートによる会津攻めは諦めて、安積から猪苗代ルートにて会津に迫る。そして「摺上原合戦」で芦名軍を撃破し、芦名氏を滅ぼしたことは万人が知ることである。芦名氏の置賜侵攻が現実味を有していたのが、輝宗による会津侵攻が失敗に終わった時であり、永禄9年(1566)以後は常にその危険を感じていたであろう。政宗は家督相続して後に、この守りの山に片倉小十郎に因んで名を付けたのかもしれない。

片倉氏系図
添付別紙の通り          参考文献「白石城物語」、川西町史他

katakurakeizu


(2015年10月10日19:00配信、10月11日14:45最終版配信)


                  1234