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「思うがまゝに 言うがまゝに」(第2回)遠藤武彦

「とても厳しい両親に一人息子として誕生
      東京の姓名鑑定士に命名を依頼した父」

 私は昭和13年10月5日、遠藤清海・志ん夫婦の長男として、米沢市福田町1783番地の3に生まれた。
 私の兄弟姉妹は私の上に姉が5人(多美子、園、梅、縫子、和子)、そして妹(康子)が1人で、男の子は私1人である。姉の多美子は生まれて直ぐに亡くなったが、ほかの姉、妹は健在だ。長女の多美子は大正14年生まれで、もし健在ならば今年7月で満90歳になっていたはずだ。私も今年10月には満76歳の齢を迎え、来年は喜寿となる。
 さて、有史以来、昭和20年代まで、田圃や畑では馬や牛が農作業に使役されていた。耕耘機がここ置賜に入ってくるのは、昭和30年代の前半に入ってからである。
 父は百姓の傍ら、馬喰(家畜商)の仕事を手広くしていた。牛や馬の買い付けに、岩手や北海道まで行ったという。
 私が生まれた時、父はちょうど北海道、岩手県に軍馬の買い付けに出向いていた。岩手県は遠野物語で知られる遠野が馬の産地で、盆地のあちこちで馬が生産されていて、そこには全国から馬を買いに家畜商たちが集まり、馬の市場や宿泊を提供する施設は活気にあふれていたという。
 父は自分たち夫婦に6番目に初の男の子が誕生して驚喜した。出先から大至急に戻ってきて、私の名前を東京の学者か易者に名付けを頼んだという。そして一週間後の10月5日生まれとして届けたと聞かされている。
 もっとも、当時は子どもが生まれても無事に育つのは容易ではなく、しばらく様子を見て生きそうだと見定めてから出生届けを出したり、わずかばかりの遅生まれは早生まれにしたりという例もあったようで、戸籍上と実際に生まれた日付が違うというのは日常茶飯事だったらしい。

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天皇陛下主催の園遊会に招かれた両親(昭和43年11月8日)

 東京の学者か易者が私に付けてくれた名前は〝武彦(たけひこ)〟である。残念ながら私の名前を付けてくれた東京の偉い先生の名前は、父の生前に聞かずじまいだったから、誰かは分からない。覚え易い名前であり、後には遠藤武彦を略して「エンタケ」と愛称で言われるようになり、私自身とても気に入った名前である。
 私の実際の誕生日、戸籍の誕生日と父との間には、何か不思議な縁を感じる。奇しくも私が実際に生まれた9月28日は、父清海が没した日、そして10月5日は九里女子高等学校講堂で執り行われた父清海の葬儀の日である。だれがそれを手配したわけではなく、自然とそうなったのである。絶妙な人間の絆の暗号というほかない。父清海の葬儀は実に盛大であった。
 私は1人息子として生まれたが、決して「蝶よ花よ」と育てられたわけではない。私の両親は私がいうのも変だが、世間の親とはまるで違う、想像を絶する厳しい親だった。
 例えば、鶏を飼っていて、父が帰ってくると、鳥小屋の扉を開け、鶏を放つ、すかさず飼い猫が襲いかかる。「てめえは鶏1羽も守れねえか」とものすごい怒声とともに竹箒でなぐられたものであった。父の折檻に耐えかねて姿をくらまし、馬小屋の藁置場で眠っていた。父はじめ母、使用人、近所の人達までもが大騒ぎして私を探し回り、眠り込んでいた私を無事に救い出した。(元農林水産大臣、米沢市在住) 

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