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「思うがゝまに言うがまゝに」(第11回)遠藤武彦

「大人顔負けで小学生の私が馬車曳き
     人の先頭に立って行動を起すきっかけに」

 戦前、父は内務省から松川河川敷の専用使用権を貰い、万里橋と相生橋間に牧草を植えて自分専用の草狩り場とした。また松川橋あたりには、牧草以外のものも植えたようだ。戦後、牛乳の消費が増えて酪農が盛んになると、父は自宅でかなりの頭数の乳牛や肉牛を飼い始めた。この専用使用権は戦前の許可だったために、昭和40年代後半になって問題を引き起すことになる。
 父が内務省から専用使用権を貰ったことには理由があった。松川は400年余り前に、上杉景勝が米沢に入部した時に、執政の直江兼続が松川が氾濫して城下が水浸しになるのを防ぐ為に、南原地区一体の河原に直江石堤と言われる堤を築いたことで知られるが、それ以降も洪水が起ると下流の堤防が決壊することがあった。父はその改修工事に当り、その仕事が認められて専用使用権を貰うことになった。
 私が小学校1年生か2年生の時のこと、この時も万里橋の西側堤防が大水で決壊した。父は市役所に改修を依頼したがなかなか動かない。それでは自分がやると、この改修を父が請け負ったのである。洪水となったのは、戦時中に山の木を切ったことで貯水能力が低下したからではないかと思われる。改修の方法は番線を使って網を作り、その中に石を詰めて並べ堤防を築いていくという昔ながらの工法であるが、そのためには大量の石が必要となった。
 当時、米沢市内には敗戦に伴い復員してきた元兵隊たちが大勢いた。仕事が無かったから、父の誘いで多くの作業員が集まった。父は自宅(現・仁天堂薬局のある場所)に30人もの人夫を寝泊まりさせてその工事に当らせた。日本は統制経済に入り物がなかった時代で、銀シャリ(白いご飯)が食えるということで作業員たちは大喜びだった。今にして思えば、農業と百姓は不滅にして永遠なのである。
 工事は真冬も行われた。石の採石場は米沢市関根の奥にある「七渡」という場所にあり、適当な大きさの丸い石を馬橇に積んで持ってきた。一頭の馬では重い石を積んだ橇は運べないので、何頭もの馬を繋いで引くのであるが、元兵隊の作業員たちは、南方からの復員が多かったせいか、馬の扱い方を全く知らなかった。私は幼少の頃から馬の世話をしてきたから扱いは大概知っていた。この馬は気が荒いとか、ひずめを返したときはどうする、蹴るから真後ろには立たないようにとか、このようなことは知っていた。父に言われて小学生の私が、いい大人を相手に馬の扱い方を教えたのである。

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石を採取した「七渡」(米沢市大字大沢)

 私は先頭の馬に乗って関根と松川河川敷の間を何度も往復した。馬の扱い方を教えるために馬橇には大人を二人づつ乗せた。「七渡」でも石を掘り出したり、馬橇に積み込む者などが20人以上働いていた。
 私にとってこの経験は貴重なものとなった。小学生の頃から人の動かし方を実体験させてもらうことになったからである。だから中学生で生徒会長になり、高校でも人の先頭に立って何かをするということに全く抵抗がなかった。
 ついでに述べると、もう一つ高校時代に貴重な体験がある。馬喰(家畜商)をしていた父は、松川河川敷で畜産共進会というものを開催した。山形県内の家畜商を集めて、牛、豚、馬を競売した。父は私にその集まった人たちの食事を提供する食堂係をやってみろという。夏の暑い時だったが、屋根を掛けた簡易食堂で、カレーライス、親子丼などを出し、価格は何でも50円に統一した。この50円食堂は大した人気で、さしずめ「行列のできるラーメン屋」というような盛況振りだった。私にとっては大きな社会勉強の機会となった。(元農林水産大臣、米沢市在住)      
 
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