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「思うがまゝに言うがまゝに」(第3回)遠藤武彦

「親の歳越えても親を越えられず
      読み、発想、決断、行動に並外れていた父」

 私の父、遠藤清海は、明治31年(1898)10月19日、山形県南置賜郡六郷村大字西江股351番地(現米沢市六郷町西江股351番地)に、父遠藤孫蔵、母みんの次男として生まれた。孫蔵の曾孫で同家の現当主である遠藤宏三氏が同家13代目となっているから孫蔵は10代目である。宏三氏によれば同家はおおよそ300年の歴史を有する家柄である。宏三氏の本家は隣接した所にある。

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父遠藤清海の生家(米沢市西江股)

 この六郷町西江股は、米沢市の北西部に位置し、北は川西町、東には鬼面川が流れ、あちこちに湧水があり農業地域となっている。昭和40年代に行われた圃場整備事業により、田ん圃の大きさが拡大され、米沢市の中でも稲作地帯ということができる。この地域で穫れた餅米は、風味と粘り気があり最高の品質と言われる。鬼面川が運んできた土砂であろうか、水はけの良い土壌が美味しい餅米を作るのだ。
 西江俣は、昭和56年当時、世帯数が32軒人口157人という記録があるが、(角川地名大辞典6 山形県)、現在は世帯数が27、28軒となり、人口も少子化時代のご多分に漏れず減少傾向である。
 さて、父清海は大正2年(1913)3月、南置賜郡六郷村尋常高等小学校を卒業した。尋常高等小学校というのは、今で言う小学校6年生の課程を終えた後に、さらに2年の勉学を行うもので、現在の中学校2年生に相当する。同家には田ん圃が2ヘクタール、畑が40アールあって、その仕事に従事しながら、寸暇をおしみ大日本国民中学会の中学講義録(会費1ケ月70銭)を取り寄せて勉学に励んだ。
 そして大正7年(1918)、満20歳の時に盛岡騎兵第24連隊に入隊し、同9年(1920)には第24連隊蹄鉄術を卒業した。父が馬喰(家畜商)になった理由は、軍隊時代に騎兵に入隊して、蹄鉄術を学んだことが大いに関係していたのではないかと思われる。軍隊時代は成績が優秀で上等兵に昇進し、連隊長賞、善行賞、金鵄杯などを受けて、大正10年(1921)に満期除隊した。
 軍隊時代の逸話に、同じ部隊で軍靴や何か装備を無くしたという人のために人の物を盗んでまで用意してあげたそうだ。そんなことは兵隊では日常茶飯事だったらしいが、かなりの暴れん坊だったと昔語りにも聞かせられたことがある。
 軍隊から戻った翌年の大正11年(1922)、父は孫蔵から2円50銭をもらい独立、米沢市通り町橋場(現在の米沢女子短期大学辺り)に、畑2・5ヘクタール、採草地4ヘクタールを借りて耕作を始めた。家と言っても掘立小屋のような粗末なもので、財産といえば馬一頭、それに鍋、釜、布団一組だったという。
 大正14年(1925)7月、米沢市大字赤崩16574番地に分家、同年8月に、現在の川西町時田にある中郡駅近くの宍戸家の次女、志んを妻に迎えて所帯を持った。妻の実家は大百姓だった。
 私が幼児の時に、我が家の中ではものすごい数の蚕を飼っており、蚕に囲まれて生活していたという記憶がある。そして現在の米沢市駅前の山交バス営業所辺りに繭市場があって、父はその市場で大生産者としてメキメキと力を付け、そこからやがて馬喰(家畜商)、馬車曳きを始めて段々と実力を蓄えていった。
 夫婦共稼ぎで、一日25アールの田植え、養箱280枚から483キロの繭を採ったことなどの思い出が『遠藤清海翁顕彰誌 どど清海を偲ぶ』の中に触れられている。まさに「常に研究と努力、断じてやれば鬼神もさく」という信念の父だった。(元農林水産大臣、米沢市在住)

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