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「思うがまゝに言うがまゝに」(第7回)遠藤武彦

「鶏、馬の世話、田圃の水加減
       厳しさを通り越した百姓の手伝い」

 南部小学校時代のことをもう少し触れよう。
 私が小学校の頃、わが家では鶏を何十羽も飼っていた。この鶏に餌をやるのは私の仕事だった。学校から帰ってくると、父は鶏小屋の戸を開けて鶏を外に放した。私は鶏小屋の掃除や餌やり、そして鶏の番をするのだが、そこを猫が待ち構えていてさっと鶏をさらっていった時があった。すると、「にしゃ、鶏一匹見ていられないのか」と、竹箒の柄で思い切りぶん殴られたり、髪の毛をむしられて血が出たこともある。
 夏場には朝の4時頃に枕を蹴られて、「田圃の水を見て来い」と言われて、一面の田圃の水加減、温度加減をみて、畦においた石をどけて水を通したり、泥で埋めて穴の水を止めたりと、小学生と言えども、遠慮会釈のない仕事を手伝わされた。父は勿論、その前に全部見ているわけだ。  
 雷がごろごろと鳴ったり、雨が降ると、私は裸馬に担ぎ上げられて、「刈った草に筵をかけて来い」と言われた。私は何回馬から転げ落ちたか分からない。昭和18年の起った洪水で、米沢市を流れる松川左岸が決壊したことがあった。父は役所に改修願いを出したが、役所に放置されたということがあった。そこで、18万円で改修を請負、8ヶ月がかりで完成させた。そのことが大変に感謝され、父は戦前に内務省河川局長より松川河川敷の専用使用権というものを頂いたのである。その書き付けを頂いていたはずであるが、今はどこに行ってしまったのやら、無くなってしまった。
 戦後、私はこの河川敷の草刈りをさせられた。万里橋から相生橋の間の堤防の両側の草を刈るのである。刈った草はその場で干した。重労働であった。干し草の飼い葉を作り、押切と言って藁を切ったものに米のとぎ汁を加え、更にお汁と菜っ葉くずを混ぜて「白身漉し」というものを作った。それにふすま、米ぬかを加えてよく手で捏ねると馬の餌ができあがる。小学生が何十頭という馬の世話をさせられた。本当に凄まじいほどの厳しさだった。

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筆者の父が馬を買いに行った岩手県遠野市・馬の里に建つ石碑

 父は馬喰(家畜商)だったから、北海道や岩手から馬を買ってくる。しかも中途半端な数ではない。一度に百何十頭もの馬が、米沢駅に到着する。そこで馬の口にロープがつながれ、現在の市立病院近くにあった馬小屋に入った。最初の馬が馬小屋に着いた時、最後の馬はまだ相生橋をわたり切るか、どうかという長さだった。
 病院前にあったわが家の屋敷の一隅には、馬頭観音という畳よりも大きな石碑が建立されてあった。というのも、馬は足を骨折しただけでもう農作業の使役には使いものにならないから、と殺されるのだ。当時、米沢市万世片子に公設のと畜場があったが、父は自分でと畜をしていた。
 後年、父は置賜畜産公社の設立者の一人となり、社長に就任した。私は父である社長に呼び付けられ、「骨と血を何とかせい」と言われた。
 畜産公社は豚換算一日二百五十頭の処理能力を有していた。大量の血と骨が出る。使い道がない。川に流す訳にも行かず、埋めることも出来ない。それを「にしゃ、何んとかしろ」と言うのである。後に詳述するが、これが大苦難のはじまりであった。(元農林水産大臣、米沢市在住) 

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