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「思うがまゝに言うがまゝに」(第12回)遠藤武彦

「興譲館高校大井魁先生のユニークな点数評価
        学年で万年ビリの位置にあった私の試験成績」

 昭和29年4月、私は山形県立米沢西高校に入学した。同校は昭和31年4月、米沢興譲館高校と改称したので、卒業した時は入学時と高校名が違うことになった。便宜上、本文以降は米沢興譲館高校としたい。

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米沢一中同窓会での席で猪俣吉市君(左)と筆者(左より2人目)

 さて、米沢市立第一中学校から米沢興譲館高校に入学したのは、私を含めて約15名と多かった。第一中学校でとりわけ仲の良かった猪俣吉市君(現米沢自動車学校社長)も一緒に入学した。同高校は米沢市関東町(現米沢市西大通)にあったが、昭和62年に米沢市笹野地区に移転したために、今その場所には、「米沢市すこやかセンター」、「アクティー米沢」といった施設が建っている。
 私が入学した当時、米沢興譲館高校はすでに男女共学だったが、女子生徒は私の学年220人のうち、30人余りで本当に少なかった。
 相生町の自宅から高校までは毎日徒歩で通った。自転車通学というのは、当時まだ許されていなかった。そして週6日制で土曜日も半日学校の授業がおこなわれていた時代である。私は小学校、中学校では非常に体が弱かったが、高校に入ったらそれがぴたっと治ったのである。とても不思議なことで体の成長だと思うが、以前にもまして私は活発な生徒になった。

 高校2年生の時、日本史を教えていた大井魁先生はとても面白い先生だった。ある時に、「中国と日本の関係について記せ」という試験問題が出た。○×式だったら回答も簡単だが、このような問題では幅広い知識がないととても回答できない。まさに旧制高校のような論文形式の出題だった。私はその時に日本列島がアジア大陸から分離したことや渡来系の人達が稲作や鉄器の技術を日本に持ち込んだこと、また昭和初期から敗戦まで多くの日本人が「王道楽土」の建設を夢見て満州に渡った歴史などをずらずらと書いた。大井先生から試験の答案を渡された時に、「100点満点の人は手をあげろ」と言われ、何人かの生徒が手をあげた。更に大井先生は、「100点が満点ではない。遠藤、お前は何点だ」と私に尋ねた。私は、「116点です」と答えた。そのような点数の付け方ってあるものかと私は不思議だったが、それは先生の裁量の範囲なのかも知れない。今の先生と比較すれば、とても変わった教師だったことは間違いない。
 ある時は、「奈良時代、平安時代、室町時代の倭冦、鎖国時代、長崎の出島時代、日清戦争の流れで日中関係について記せ」というのもあった。「なんだ、この質問は」と、私はムッとして答案の中に、「もっと問題を絞るべきではないか」と生意気にも書いた記憶がある。
 米沢興譲館高校では、中間テストや期末テストの総合結果を廊下に1番から最後まで順番に張り出した。成績を張り出して生徒のやる気を引き出そうという伝統的気風があったからかもしれないが、誰もそれに異議を唱えなかった。今もそれがおこなわれているかどうかは分からない。私はその張り出された順番の中で、いつもビリの方に名前のある生徒だった。高校時代に一生懸命に勉強をやったという記憶がない。(元農林水産大臣、米沢市在住)
 
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