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「思うがまゝに言うがまゝに」(第4回)遠藤武彦

「就学前から子どもも家事労働
    熱湯を被るも父の応急処置で大事に至らず」

 昭和初期、わが家は現在の米沢市立病院前にある仁天堂薬局の場所(現福田町二丁目1―52)に引き移った。当時、まわりには家らしきものが一切なく、自宅からは遠く愛宕山まで遥かに見渡せた。馬喰(家畜商)、馬車曳きの仕事で段々と経済的に普通の生活ができるまでに豊かなになってきたので、その場所を購入して自宅を建てたのである。自宅では20頭ほどの牛馬も飼っていた。

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筆者の生家跡に建つ仁天堂薬局

 私は小学校に入る前からよく裸馬に乗せられて走ったものだ。田植えの時期には、子供は「させとり」と言って、馬の口から張られたロープを持って馬がまっすぐに歩くようにコントロールする仕事があった。
 また秋には稲刈の終わった稲束を田の畦に立てかけた杭にやぐらを組み、そこに稲束を次々と重ねていく「はせがき」の仕事もした。乾燥機械のない時代だから、自然乾燥をするのである。この「はせがき」の仕事は、棘のある稲束の穂が皮膚に当って痛い。父は私が稲束を渡すと、次々と手際良くやぐらに積んでいく。
 いくつ頃だったか、ある年の晦日、母は竹や木で編んだ蒸し器の「せいろ」で餅米を蒸していたが、それが崩れそうになったので支えようとした私はもろにその熱湯を全身に被ってしまったのである。父はすぐに味噌を持って来させて私の体に塗り付けた。そして、箱橇に乗せられて舟山病院で手当を受けたのだ。父の手当のおかげで、いまは何一つ痕は残っていない。
 食事の準備も大事な仕事だ。私は小さい時から「蕎麦打ち」「かいもち(蕎麦がき)つくり」をさせられた。更には、父が何処からか持ってきた建築廃材の釘抜きである。これも子供には容易な仕事ではなかった。釘を抜いた後はそれを切って割って、風呂を沸かす薪にするのである。
 冬は縄と筵(むしろ)を作った。今のようにビニールなんて無い時代だったから、縄や筵はどこの家でも必需品だった。後に、父は筵と縄を織る機械を導入し、隣の光徳寺の場所を借りてそこに機械を置いて作業場としていた。効率や見栄えは悪かったが、自然の恵みを余すところなく有難く使うという循環型社会だった。
 私は子供の時、「ぶよ」や「蚊」にさされると皮膚が膿む癖があった。だから私は痩せ馬に後ろ向きにくくりつけられるようにして乗せられて、母と一緒に大平温泉や白布温泉に湯治に行った。一年の大半が湯治場暮らしという年もあった。かくして私は白布温泉、新高湯温泉、小野川温泉のほとんどの旅館を湯治通いをした。
 昔、一中の西の河原に市営プールがあった。だから体育の時間は水泳が多かった。皮膚が弱くすぐ発疹する私は水泳の授業はすべて免除されたのである。
 小学校の頃、映画教室があった。学年毎に学校行事としての映画教室であった。私は人混みが苦手で、すぐ気持が悪くなり、よく失神して倒れたものだった。かくして私は小学校の大半を休んでいた。
 敗戦の年の夏、学童疎開というものがあった。米沢市内の各所に東京辺りから疎開して来た学童が多かった。当然ながら都会の子と地元の子との軋轢が起きて、喧嘩が絶えなかった。病弱のくせに向こう意気だけは強かった私は真っ先に突っかかって行った。そして真っ先に殴り倒されたのだった。
 かくいう私も疎開した。六郷西江俣の現遠藤宏三氏宅、父の実家である。ところが桐原の墓地にグラマンが飛来して爆弾を落した。ガラスが殆んど割れてしまった。六郷小に入った私は三、四日しか通わなかったと思う。しかし何故か通信簿は全優だった。
 私は病いの床に臥しながら天井に九×九表や漢字表を貼りつけて暗記した。昔、あんなに弱かった体が、今ではウソのように頑健そのものである。(元農林水産大臣、米沢市在住)

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